2019/06/11

2019年5月月例会要旨

2019年5月11日(土)上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。


黒嶋敏 「南西諸島の絵図と『航海図』」

 本報告は、東京大学史料編纂所・画像史料解析センター准教授の黒嶋敏氏が代表として行っている共同研究、「南西諸島における海上交通の復元的研究―「帆船の時代」の「歴史航海図」―」の中間報告として発表された。「歴史航海図」とは、航海に関する情報を持つ前近代の画像史料のことを指し、それを収集・検討することで、性質の異なる絵図を海上交通の視点から串刺しにし、特質を考えていくことが目指されている。本報告の具体的な内容は、「関連する絵図の紹介」、「後世の絵図から、15世紀以前に遡りうる、南西諸島の海上交通を考える手がかりを探る」ことになっていた。
 まず、南西諸島の「歴史航海図」を①から⑩に分類している。それらは、①博多商人系、②中国系、③朝鮮系、④南蛮系、⑤国絵図系、⑥諸島図系、⑦薩摩商人系、⑧間切図系、⑨林子平系、⑩近代海図系、となっている。これらの絵図は、単独で成立したわけではなく互いに影響を及ぼし合いながら成立したことが指摘され、それらを解き明かしていくことが課題の一つとして提示された。
 さらに、「元禄国絵図琉球国沖縄島」などの具体的な絵図が紹介されるなかで、南西諸島の「歴史航海図」が持つ時期的な特徴として、15世紀の琉球王国の中継貿易、16世紀後期から17世紀初期の南シナ海貿易等「グローバル化の波が直接に影響」している点、さらに、1630年代の鎖国政策の展開の中で八重山に相次いで南蛮船が漂着し、異国船遠見番所や烽火台が作られるなど「17世紀前期には保護主義の最前線に」立たされ、幕府・薩摩藩が現地調査をもとに詳細な絵図を作成した点を指摘している。これらの背景のもと個々の「歴史航海図」は、史料的性格に大きな相違が生まれており、詳細な国絵図に軸足を置きつつ、15世紀以前に遡及する情報をいかに抽出していくのかが課題になっていくことが示された。
 「歴史航海図」を含む近代の画像史料は、文献の数が絶対的に不足している南西諸島において15世紀以前の様相を考える際の大きな手掛かりになるといえ、また、国絵図やその他の文字史料を相対化することを可能にする。さらに、この研究は周辺地域との関係性を考える「グローバルヒストリー」の視点からしても非常に示唆に富む研究だといえるだろう。
 さて、質疑応答の際には、絵図作成において潮の満ち引き、風、海流など多くの要因がどのように影響を与えていたのかという問題もさることながら、震災とこれら絵図との連関、環境史との関係など、他領域における展望についても意見が交わされた。本報告を通し、多くの研究領域と相互に交わりながらさらなる研究の深化がなされていくことを予感させるものとなったのではないだろうか。


堅田智子「和独会における日本法学者の交流−穂積陳重『祖先祭祀ト日本法律』の出版を巡って−」

 流通科学大学で講師を務める堅田智子氏は、近代日本における⻄洋法学の受容、とりわけドイツ法学が日本にどのように受容されたかという問題を、「日本最初の法学者」である穂積陳重とベルリンの日独交流団体「和独会」との関係から明らかにすることを試みた。なお、本報告は、科研費 研究活動スタート支援「『独日関係の⻩金時代』における日独交流組織『和独会』の活動実態に関する研究」(平成 29 年度〜平成 30 年度)および大学共同利用機関法人人間文化研究機構のネットワーク型基幹研究プロジェクト「ヨーロッパにおける 19世紀日本関連在外資料調査研究・活用‒日本文化発信にむけた国際連携モデルの構築」の成果の一部である。
 氏はまず、「日本におけるドイツ法学の受容」に関する先行研究を整理し、この問題の検討が、法制史の分野では不十分であることを指摘した。氏はドイツ留学の経験がある穂積陳重と、ドイツに滞在する日本人とドイツ人の相互交流を目的に設立された和独会との交流に着目し、穂積の『祖先祭祀ト日本法律』(以下『祖先祭祀』)とその出版経緯からこの問題へのアプローチを試みた。
 『祖先祭祀』は日本の法制度を伝統的な祖先祭祀の観点から説明するものである。1899年にローマで開催された第 12 回国際東洋学者会議では穂積自身による学術報告が行われた。この講演は熱烈に賞賛され、『祖先祭祀』として⻄欧諸国で翻訳出版された。先行究では1901年6月に出版されたAncestor-Worship and Japanese Lawが初版とされてきたが、和独会の中心メンバーが発行したドイツ語雑誌 Ost -Asien には、1900 年 2 月からすでに、国際東洋学者会議の学術報告のドイツ語翻訳が連載という形で掲載されており、翌年には単行本として出版された。それはパウル・ブルン(Paul Brunn)という和独会の中心人物によって独訳されたもので、英訳版に先立つ出版だった。出版に至る経緯はまだ明らかではないが、穂積と和独会、とりわけブルンとの関係が Ost-Asien への連載、および単行本出版の契機になったのではないか、氏は可能性を示した。
 英語版に先立つドイツ語版の連載、そして独訳単行本の出版をどのように位置付け、評価していくか、氏は今後の研究課題を示し、「和独会の活動は多岐に渡り、鮮明に把握することは困難であるが、彼らの活動が、相互執筆活動、ひいてはドイツ法学を日本が受容するひとつの大きな契機になったのではないか。」との展望を述べた。
 質疑応答では、和独会が発行した2つの機関紙の性格の違いや、穂積と和独会との交流についての質問がされた。穂積の『祖先祭祀』の内容に関する議論もなされ、盛況のうちに報告会は幕を下ろした。



2019/03/22

上智大学史学会第68回大会・公開講演

2018年11月18日(日)、第68回上智大学史学会大会が行われました。
以下に部会発表の題目・写真と、特別講演の要旨をご紹介します。

部会研究発表

第一部会(西洋史 於 共用室A 4階) 

坂口 万津子氏(上智大学大学院)
「ドミニコ会美術にみる聖トマス・アクィナス像の成立と流布について――《聖母子と諸聖人》および《聖トマス・アクィナスの勝利》を中心に――」


荻野 恵氏(上智大学・外務省研修所非常勤講師)

「ポルトガル再独立期における対英外交と国家理性――対スペイン和平条約への過程――」


高橋 晶彦氏(上智大学大学院)

「国家人民党におけるランバハ事件の意義」


萩尾 早紀氏(上智大学大学院)

「ドルフース・シュシュニック体制についての一考察――1933年コンコルダートと1934年五月憲法を中心に――」



伊東 龍介氏(上智大学大学院)

「アイヒマン裁判再考――アイヒマンの責任の所在の追究――」



第二部会(日本史 於 共用室C

宇仁菅 啓氏(上智大学大学院)
「室町殿の右大将拝賀行列について」


ブラボ・アルファロ・パブロ氏(上智大学大学院)

「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ第二次日本巡察(1590〜1592)巡察使の書簡から分かる日本布教状況」


山本 渉氏(一橋大学大学院)

「遷幸・官人・禁裏御料」


上田 良氏(上智大学大学院)

「第二次大熊財政末期と松方財政期における明治政府と佐渡鉱山との関係性の考察」


木下 有氏(上智大学大学院)

「ドイツ駐在陸軍武官電に見る独ソ開戦情報について」



第三部会(東洋史 於 共用室D 4階)

酒井 駿多氏(上智大学大学院)
「漢代の辺境支配と民」


宮古 文尋氏(上智大学非常勤講師)

「清末預備立憲開始前後の地方官制改革案」


久留島 哲氏(千葉大学大学院)

「19世紀後半の朝鮮における民衆統制策と対外危機――大院君執政期を中心に」



公開講演(於 上智大学7号館特別会議室)

樺山 紘一氏(東京大学名誉教授・印刷博物館館長)
「歴史学とミュージアムの往還」


2018年11月20日、上智大学史学大会で行われた特別講演会では、樺山紘一先生により「歴史学とミュージアムの往還—2つの知識・機構の並走のために」と題してお話しいただいた。
 先生は、国立西洋美術館や印刷博物館の館長を務められた経験から、歴史学とミュージアム(博物館、美術館)が共有する六本の「道」について話された。「道」とは両者の共通点や共有できる価値観のことだが、これらを通した歴史学とミュージアムの協力体制(いわば「往還」)が、人文諸科学の発展のために非常に重要なのである。
1、 啓蒙主義の申し子たち
 歴史学とミュージアムは、どちらも18世紀後半のヨーロッパにおいて、啓蒙主義の思想のもとに誕生した。たとえば、大英博物館は、元々、書物、絵画、植物、骨格標本などを含む雑多な個人的コレクションが国家に寄贈されたもので、これらを管理・展示する組織が世界初の博物館となったのであった。それは物事の知識を正確に把握・共有し、生活をより合理的なものにしようという啓蒙主義的な試みの一環だった。一方、歴史学の誕生の例としてはエデュアルド・ギボン『ローマ帝国衰亡史』が挙げられるが、こちらはイギリスの一般市民に、ローマ帝国の滅亡について論じるための共通認識を与えることを目的としていた。
2、 国家という枠組みの安住と不安
 19世紀初頭、ヨーロッパ各国で民主的近代国家の概念が誕生するが、歴史学とミュージアムはその枠組みの中で育まれた。フランスでは国立公文書館が整備され、国家という枠組みのもとに史料の収集・保存が可能になった。歴史学は、これら文書館とアーキビストの協力のもとに史料に基づいた分析を行い、その結果、国家に対する批判さえも可能となったのである。
 つぎに、取り扱う素材と方法について。
3、  MLA連携という問題提起と歴史学
 伝統的には、文書史料は歴史学が読み解くもの、モノ資料は博物館が管理するものであるという線引きがなされてきたが、いまや歴史学の研究対象はその線引きを飛び越え、広範な「史料」を取り扱うようになった。歴史学の発展のためには、博物館・図書館・文書館(Museum,Library, Archives)のMLA連携は避けて通れない道である。それぞれの制度や成立の歴史は違うが、これらが連携してこそ、歴史学的課題の解決につながるはずだ。
4、 文化財の在地原則博物館は、その収蔵品をどのように展示・保存すべきか、ということについて様々な意見がある。在地原則とは、文化財は本来それが置かれていた場所で展示すべきであるという考え方だが、これは必ずしも守られてはいないのが現状である。これら文化財が、元々どこに由来するかということを解き明かすのは、歴史学の役割なのではないだろうか。
5、 文化遺産の意味を問い直す 
 グローバル化のすすむ現代において、文化遺産のもつ意味合いにも吟味が必要になってきた。たとえば、現在ある民族博物館の多くは、支配国が植民地から持ち帰った物品によって構成されている。ポストコロニアルの時代である現在では、こうした業績が植民地主義に基づいたものであると批判されている。かつて植民地であった国々は、支配国の視点ではなく、自国の視点で彼らの歴史を見るために、文化遺産の返還を求めている。博物館も歴史学も、価値の再検討・再定義を迫られているのではないだろうか。
6、 教育的価値にてらして 
 歴史学にとっても、博物館にとっても、その利用者(来場者、一般読者)に目を向けることが必要である。必ずしも専門的知識を有しない彼らに、我々は研究や調査の成果をどのように説明し、その問いに応じるべきか。先生はその答えの一つとして、印刷博物館におけるこども向けの体験学習の例を挙げて語られた。
 質疑応答では、日本でのMLA連携への取り組みについて、また印刷博物館の運営についての質問と応答がなされ、豊かな意見交換の時となった。



2018年10月例会要旨

2018年10月20日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。

山野弘樹「「言語論的展開」を歴史化する――「ラングの言語学」から「ディスクールの言語学へ」

東京大学大学院(総合文化研究科)に所属する山野弘樹氏の発表は、日本における「歴史の物語論」の展開を史学史的に整理しつつ、そこから炙り出された言語論的転回の前提を乗り越える視座をバンヴェニストの言語学から検討することを通して、「現代歴史学」における歴史研究の実践と哲学・言語学の議論を「ディスクール」の観点から接続することを目的とするものであった。
 まず、氏は日本における「歴史の物語論」の展開を史学史の観点から整理することを通して、現代歴史学における〈「主体」の復権〉の系譜において、「パーソナル・ナラティブ」論が議論の主軸にあることを示した。これまでポストモダンの歴史学によって行われてきた実証史学批判の要諦は、ソシュールによって主張された「記号の恣意性」を歴史研究の場面に当てはめることによって、「史料」を媒介とした「過去」の認識の正確性に異議を申し立てるところに存する。しかし氏は、バンヴェニストによるソシュールの「記号の恣意性」をめぐる批判、つまり、シニフィアンとシニフィエの繋がりは文化的な必然性を有しているという議論を提示することで、ポストモダンの歴史学がこれまで依拠してきた「脱構築」的議論の「前提」を相対化することを図った。こうした学際的な議論は、90年代から2010年代にかけて行われてこなかったものである。
 質疑応答においては、「歴史研究」のあり方をめぐる学際的な議論がなされることになった。まず、言語学の観点から「言語論的転回」を正面から受け止め、それを克服するという氏の発表において、社会学の観点を導入する有意義性が指摘された。また、文化人類学の観点から「存在論的転回」の議論が提示され、これまで西洋中心主義的であった歴史研究のあり方を脱する必要性があることが指摘された。こうした「実在」への志向性は、哲学の分野においても「新実在論」として展開されているものである。しかし、こうした動向は〈現存する存在〉に回帰する思想運動に他ならず、〈過去の存在〉に肉薄するものではない。そのため、文化人類学や哲学における「実在論」の運動が歴史研究にいかにして理論的に貢献するのかという点に関しては、慎重な議論がなされるべきであろう。さらに、これまでの歴史研究が人間中心主義であることについての批判も寄せられた。このように学際的な視野から議論がなされることによって、これからの「歴史研究」のあり方をめぐる多種多様な提言がなされることになった。


山本妙子「18世紀パリの信仰と結社――イエズス会施設の貴顕信心会を事例とし
て」


10月20日の月例会では、山本妙子氏からご自身の博士論文の一部を取り上げた報告がなされた。
 本報告は、「篤信家」(Dévots)と呼ばれた近世フランスの宗教的・政治的有力者たちと、彼らの主な活動の場の一つであった宗教結社を分析することで社会を捉えなおす、宗教社会史の視角を持つものである。篤信家たちは、「聖人たちの世紀」と呼ばれる17世紀、信徒と聖職者から構成される宗教結社に集い、慈恵活動や布教活動を通じて、カトリック刷新運動を牽引するとともに、多様なネットワークを都市社会において構築していった。
 本報告の研究対象は、1630年ごろ、イエズス会盛式誓願会員施設に設立されたマリア信心会である。この団体は、1660年代に王権により解散させられた秘密結社である聖体会(Compagnie du Saint-Sacrement)とともにパリの篤信家の有力な活動拠点を形成した。マリア信心会は、1563年にイエズス会によってローマ学院の優秀な生徒の会として創設され、年齢、社会階層別に設立され、ヨーロッパや宣教地に広く普及した。本研究対象は、このマリア信心会の中でも貴族、高位聖職者をはじめ都市の名士が所属する貴顕信心会(Congrégation desMessieurs)にあたる。
 フランスでは、17世紀後半より篤信家たちの勢力が後退し、18世紀にはマリア信心会は、高等法院によるイエズス会解散へ向かって、全体的に衰退すると考えられてきた。パリの貴顕信心会の18世紀初頭の入会者数の減少もその一例として説明されてきた。ところが、この入会者数低迷は一時的であり、その数は1730年代から回復する。報告者は、この点に注目し、入会者の社会的構成を調べ、この衰退ないし変容の政治的・社会的背景を探った。
 はじめに、マリア信心会の創設とその特徴について対抗宗教改革の文脈を交えて説明された。さらに具体的に、パリの貴顕信心会の組織・理念・活動の特徴を考察し、17世紀の貴顕信心会の構成人員の傾向について実例を挙げつつ解説された。聖体会のメンバーとの重複や親族関係、海外宣教事業、慈善事業へ関与などが特徴として挙げられた。入会者数の最盛期は1670年代から訪れる。ここでは非公認組織であった聖体会が解散した後も、篤信家たちは、王権の監督下で活動の可視化、ネットワークの再編成が進められたことが指摘された。この頃の入会者のうち最も多かったのが最高諸法院の司法官僚であった。
 次に、18世紀に貴顕信心会が迎えた転機について、入会者層に関する表・グラフを含めた資料を提示しつつ解説された。分析の結果、大勅書『ウニゲニトゥス』(1713)をめぐってジャンセニストとイエズス会の論争・対立が顕著となった18世紀前半、パリではジャンセニストの大司教によりイエズス会が活動禁止となり、これが貴顕信心会の入会者減少の直接的原因だったことが判明した。活動禁止が解かれた後の入会者の社会的構成としては、高位聖職者の入会数が急激に増加し、イエズス会との対立が激しくなる高等法院をはじめ最高諸法院の司法官僚の入会は激減したことが明らかになった。人物誌的分析からは、貴顕信心会への加入は親イエズス会、反ジャンセニストの立場表明の意味も持っていたと考えられる。一方で、この時期に入会する司法官僚の傾向、貴族の居住地との関係や新しい社交形態の普及にも言及した上で、この会員層の変容には宗教的問題が大きく影響したことが述べられた。
 結論部では、17世紀には貴顕信心会のイエズス会のネットワークが社会事業に有効なものとして用いられたが、18世紀にはジャンセニストとの論争を契機に、そのイメージが一部においてネガティブなものへと変容したことが指摘された。しかしながら、血縁・人脈を用いて宗教生活と社会生活を連結させた篤信家たちの人的ネットワークは、世代を超えて継続していたことが示された。また、貴顕信心会の入会者層の変化は、対抗宗教改革の時代から、カトリック内部対立の時代への変化も反映していることを示唆し、発表を締めくくられた。
 質疑応答では、「貴顕信心会」という和訳について、またマリア信心会の詳細(他信心会との関係、脱会者の有無、会費など)についてフロアからの質問が出た。さらに信心会における聖職者の参加、その立ち位置について意見交換がなされ、盛況のうちに幕を閉じた。


2018/08/02

2018年度6月例会

2018年6月16日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。

報告は、同志社大学専任講師の大谷実氏による「ヴァイマル社会国家とシンティ・ロマ政策」と、本学文学部特任教授西岡芳文氏による「式占からお稲荷さんまで~日本陰陽道史の流れをたどる~」の二本です。



大谷実氏「ヴァイマル社会国家とシンティ・ロマ(1)政策」






 大谷実先生から「ヴァイマル社会国家とシンティ・ロマ政策」というタイトルで、ご自身の博士論文をもとにした報告がなされた。
 ナチス期にはシンティ・ロマを一方では「人種」として、他方では「反社会的分子」として迫害する絶滅政策が行われた。本報告では、その前提となる帝政・ヴァイマル期におけるシンティ・ロマ政策の形成と変遷に注目し、バイエルン警察行政の一次史料を用いて検討する。また、特に1926年発布のバイエルン法「ツィゴイナーおよび労働忌避者に関する法」の成立過程を検討することで、ドイツ史の連続性について論証し、マイノリティと近代社会の関係性について分析することを課題としている。
 まず、バイエルンの地理やドイツ警察組織についての基礎情報が提示された後、19世紀末から20世紀初頭にかけてシンティ・ロマ政策について説明された。ドイツ統一以前から、宗教改革以来の勤労精神の普及によって、放浪生活者は「怠け者」として排除されていたが、ドイツ統一以後は国民国家の形成と工業化を推進するために移動の自由が認められるようになり、例えばプロイセンでは他ラント出身の貧困者を追放することができなくなった。一方で、獲得の困難な帰属権を基盤とするバイエルンでは、貧困に基づく他ラント出身者の追放が可能であった。さらにミュンヘンの大都市化とそれに伴う人口の急増の影響から、警察組織の限られた人員で治安維持を行うため、写真・指紋の採取・「人種」の概念といった最新科学技術が導入され、ミュンヘン警察本部による管理と追放が行われるようになった。
 次に、第一次世界大戦時のバイエルンで、追放と管理から労働収容へと政策の方針転換が起こる過程を追う。要因の一つは、戦時に起きたシンティ・ロマと近隣住民の間に起こる諸問題に対して警察は無力であったこと、また総力戦体制が構築されるなかでシンティ・ロマを「敵国のスパイ」「兵役忌避者」と結びつける概念が育っていったことが挙げられる。このような状況の中、警察組織ヒエラルキーの各層が方針を打ち出す相互作用の中で、シンティ・ロマの隔離と強制労働の政策が形成された。
 終戦に伴い労働収容政策は終了したが、ヴァイマル期には各管区から戦時の政策を継続するよう強い要望が出され、財政難にもかかわらず再び導入されることになった。ただし、それは単なる再導入ではなく、大量失業といった当時の社会問題と関連づけられた、形を変えた上での再導入だった。それが「ツィゴイナーおよび労働忌避者に関する法」である。1926年のバイエルン議会での法案審議からは、「人種」としてのシンティ・ロマ概念が自明となっていること、大量失業と結び付けた活発な議論が行われたこと、法案の名称上「労働忌避者」と併記するよう変更が加えられたことから、シンティ・ロマが「人種」として、新たな社会問題と結び付けられるようになってきたさまがうかがえる。
 このようにヴァイマル期の政策は、ナチスの絶滅政策と規模や性質の違いはあるものの、シンティ・ロマを「人種」として定義し、「労働忌避者」とともに「反社会的分子」として社会から排除しようとした思想の面で通底していると考えられる。
そして、大谷先生は、マイノリティ集団にその生活様式から連想されるスティグマを付与し、社会問題と結び付け排除する思想、すなわち「怠惰な者」へのまなざしの問題は、例えば生活保護の不正受給者問題のように、現代日本においても散見され、近現代社会に普遍的な問題である、と締めくくられた。 

 質疑応答においては、政治状況を踏まえた上での考察の必要性、シンティ・ロマ側・地域住民の視点を捉えた史料やオーラル・ヒストリー手法の使用可能性、第一次世界大戦という総力戦のプレッシャーとの関係について指摘が出され、意見が交わされた。また、同時期に発展した人種衛生学や社会ダーウィニズムとの関わり、シンティ・ロマの国籍や生活スタイルについて質問がなされ、盛況のうちに幕を閉じた。

(1)シンティ・ロマ:(英)「ジプシー」、(独)「ツィゴイナー」と呼ばれた人びと




西岡芳文氏「式占からお稲荷さんまで~日本陰陽道史の流れをたどる~」





 報告者が式占研究の道に足を踏み入れたのは、古文書に残らない世界の広がりに注目したことが発端である。中世の「情報」に焦点を当て、単語の変遷を追う「語史」を叙述してきた。
 公家日記やその紙背文書に、「口舌物忌」「口舌闘諍」などの単語で頻出する「口舌」という言葉がある。これらは占いの用語であった。天皇の身体の安否など国家の大事を占う「軒廊御占」は、怪異が発生した場合に行われる占いである。
 怪異事件に際し、過去の実例を調べてまとめたものを勘例という。たとえば賀茂別雷社の橋の上に羽アリがたかった場合は、「天下口舌」(内乱につながるような国家的なトラブル)の可能性があると記載されている。
 卜とは甲羅を用いる亀卜、占とは陰陽道に由来する「式占」である。中世において易経は五〇歳を過ぎなければ学んではいけないとされた敷居の高い占いで、実用化に至っていない。その反面式占は怪異の日時から占うものなので再現性が高く、当時の人からすれば科学的・客観的に思われ、国家の占いに利用されていた。平安・鎌倉~室町まではこのような占いが続いていく。
 そののち「式占」の知識は室町時代後期に断絶し、陰陽師が式占を用いた事実さえ知られなくなっていった。その後陰陽師研究に注目が集まるようになったのは八〇年代のことであった。報告者は平安・鎌倉時代の古記録から朝廷で行われていた占いが「六壬式占」であることを確認し、さらに漢籍のうち「術数類」に残る式占にまつわるテキストを分析した。金沢文庫に残った史料から式盤のようなものを発見。その後「聖天式法」という書物から占いに用いる式盤であると確認した。

 ダキニ天を中心に白い狐に乗った五人の神が描かれた神像について分析を行った。神が乗る狐は、神社では稲荷明神、仏教ではダキニ天のシンボルである。
 これらの神像群を見ると、下の方に稲を背負った稲荷神の姿が確認される。この稲荷神とダキニ天の女神の関係は何なのか。金沢文庫の所蔵する史料群のうち、「頓成悉地盤法次第」という密教式に神仏をまつる方法を書いた書物から、式盤を用いてダキニ天をまつる修法を記述したものが見つかった。また、式盤の作り方を書いた史料も確認された。史料に従って復元してみると、この式盤は天・人・地の3パーツが回転する道具で、陰陽師の式盤の形を取りながら、目的はダキニ天の灌頂であることが分かった。狐信仰と陰陽道は今までなぜ結びつくのか説明されてこなかったが、背後には日本中世のダキニ法と陰陽
道の接続があった。陰陽道とダキニ天を結ぶモチーフとして、狐はもてはやされるようになったのである。

 質疑応答では「陰陽師断絶の理由は何か」など質問が出た。
中世では安倍や賀茂、のちに土御門などの家が占いの技術を独占しているが、家同士の諍いの時テキストが分散、応仁の乱で若狭などに逃げていく最中で散逸してしまった。秀吉の時期などには迫害も受けていたようである、とのことだった。
 定説では陰陽道は陰陽五行説を利用して日本で形成されたと言われているが、中国の北宋時代の文献には「陰陽師」という言葉が出てくる。陰陽道の思想がいかにして形作られてきたのか、今後の研究の進展にも期待したくなる発表であった。

2018/07/21

2018年度卒業論文報告

 本年度、上智大学大学院文学研究科史学専攻は新たに3名の新入生を迎え入れました。3名の氏名と専攻をご紹介します。日本中世史専攻の杉浦鈴さんと、日本古代史専攻の白山友里恵さんと、西洋中世史専攻の岩田園さんです。
 今回は、新入生一人一人の卒業論文の要旨を以下に記したいと思います。これらの要旨は、先日行なわれました卒論報告での発表をベースに作成されています。一人一人の思いや入念な分析が凝縮されていますので、ご覧下さい。杉浦さんは「中世の人身売買」、白山さんは「古代における病の原因となる虫」、岩田さんは「宗教改革」をそれぞれ独自の視点で研究しています。





杉浦鈴「動産としての身体」

 本論文は、身分転落を伴う人身売買(以下、零落型人身売買と称する)を法規制・実態の両側面から考察し、中世の身体の価値の揺らぎを明らかにするものである。
 問題意識の出発点は現代における身体の差別的扱いに対する怒りにある。性や出自など身体のスティグマを理由にした不当な差別に抵抗するため、現在あたかも固定の観念であるかのように語られる身体の価値・意味を相対化したい。研究史上の意義としては、磯貝富士男氏の研究を批判し前に進めること、60年代に発表された牧英正氏の人身売買法制通史叙述をアップデートすることを目指した。
 第一章「容認・禁遏・矛盾」では、鎌倉時代に発布された人身売買関連法を為政者ごとに整理し、発布の社会状況を考察した。鎌倉時代、零落型人身売買史上における転換点は二度ある。一度目は、泰時期に寛喜の飢饉を背景として零落型人身売買が一時容認されたこと。二度目は、時頼期に起きた人身の質入れをめぐる法の上の矛盾と、その後に生じた正嘉の飢饉による「撫民の破綻」である。社会と法の発布を連動させて見つめ、「撫民」思想のもとで行われた非常事態に対する経済政策の変容を指摘する。
 第二章「人身売買合法化」では、鎌倉時代中期に零落型人身売買が合法化されたとする磯貝富士男の説を一歩進め、前章で指摘した二度目の転換点である正嘉の飢饉によって生命の危機が撫民思想を上回り、零落型人身売買が合法化されたことを解明する。小山靖憲が紹介したが従来正確な分析が行われてこなかった人身売買史料「徳童売券」を改めて読み込むことで、担保文言「餓身相伝」の意味を解き、中世人が零落型人身売買をいかに捉え、いかに行ってきたか分析を加えた。
 さらに、付論として二つの章を付す。付論一章は「零落型人身売買文書の紹介」として、人身売買関連法が一度も発布されなかった室町時代の人身売買の実態を考える。
 付論二章では「一六世紀の動乱」と銘打って、戦国期以降の「乱取り」と言われる人間狩りとその輸出、人間貿易への宣教師の関与について、宣教師側の史料を取り上げて叙述する。
 以上のように、「今日を生き延びる」ことすら困難であった中世の切実な生の前に「兌換の財産」となった中世の身体の実態を明らかにする内容である。



白山友里恵「『医心方』における病を引き起こす虫」

 私の卒業論文は「『医心方』における病を引き起こす虫」を題とし、病と虫の関係を検討したものである。疾病観念としての「虫」は、最近になって研究が進んだものの、それは「腹の虫」などの病の原因としての虫が一般庶民まで認知された江戸時代を中心としたものであった。
 そこで本論では、平安時代に編纂された『医心方』を主要史料とし、そこに現れる、実際に存在する虫や人々の観念の中での虫など、様々な「虫」に注目した。そして、人々が病の原因の一つとして虫をどう考えていたのかについて考察を行った。さらに、その過程の中で見られた特徴の一つである移動する存在としての虫に着目し、戦国時代において『針聞書』などの書物に姿を現すようになる積という病と虫の関係について検討を加えた。また、『医心方』という書物が日本で編纂されたものではあるが、そのほとんどは中国の書物の引用であり、そこで得られた考察をそのまま平安時代に適応できないという問題点から、『医心方』が編纂された平安時代の貴族の一人である藤原実資を取り上げた。彼の日記『小右記』には、実資が、虫が原因とされた病の一つである寸白にかかった記録や、他人の病を寸白として記録しているものがあり、それらをもとにして実資が寸白をどう認識していて、それが『医心方』と比べてどのような点で異なるのか考えた。
 結論として、『医心方』全体の15%に虫に関係する引用が見られたが、その中で最も多かったものが薬としての虫であった。しかし、病因となる虫も多く、薬としての虫の半分ほどの数になった。その特徴としては、移動する存在であること、瘡と結びつくことが多いこと、痒みと結びつき安いこと、食べ物などの何かを媒介にして身体の中に入ってくる例が多いという四点を指摘した。しかし、これらの『医心方』における虫像が実際の病にどこまで影響を与えたのかは、実資の検討を通しても、はっきりとはしなかった。その為、平安時代における病因としての虫の実像がどんなものであったのかが今後の課題として挙げられる。



岩田園「ギヨーム・ファレルと檄文事件-フランス語圏宗教改革の転機-」

 日本の宗教教改革史研究において、ジャン・カルヴァンがフランス語圏を代表する改革者として中心的に研究されてきた。カルヴァンの先駆者にあたるギヨーム・ファレルは、フランス宗教改革の最初期に活動した人物であり、フランス語圏スイスの宗教改革思想の伝播を主導した人物だが、日本では彼に関する研究は少ないのが現状である。
 本報告ではファレルの行動と思想を分析し、フランス語圏における宗教改革初期の様相を描き出し、その中でファレルの関与した檄文事件がどのような影響を及ぼしたかを考察した。
第1章では当時のフランスにおける教会改革の起こりについて確認し、第2章ではファレルの略歴とフランス語圏スイスにおける活動を確認し、主著『キリスト者が神を信じ、隣人を助けるために必要不可欠な体系の略式の表明』(1534年)からその思想を分析した。第3章では檄文事件とそれに対する反応を確認し、使用された二つの文書のうちアントワーヌ・マルクールの著した『唯一の仲介者であり唯一の救い主、イエス・キリストの聖餐に反して、まったく作りものである教皇のミサの、恐ろしい、重大かつ重要な悪弊についての真実の諸箇条』を分析し、ファレルの思想との共通点を指摘した。ファレルはヌシャテルという都市を拠点に改革者や印刷者を招聘し、この事件においても中心的な役割を果たしていたことが分かった。
 結論として、檄文事件は宗教改革にとって教派間の対立を固定化する契機となった。また、この事件は宗教間・教派間の対話が進む現代において排除されがちな一致や和解を求めない人々とどのように向き合うかという、真の平和的共生のための極めて重要な問いを我々に投げかけている。
 研究を進める中で宗教改革史研究における地理的視点の重要さに気づき、ファレルの移動に注目して分析した。研究対象範囲をフランス・スイスではなく「フランス語圏」としたのは、当時のスイスに一国としてのまとまりがなかったこと、改革者たちは布教の上で会話する言語を重視したことから、言語圏の境界に基づくのが適当と判断したためである。ただこの視点を生かしきれず、フランスに関する記述に比べてスイス諸都市に関する考察が薄くなってしまったこと、越境的な記述ができなかったことは反省点である。今後の課題にしたい。


2018/06/08

2018年度大学院入試説明会

 2018年7月5日(木)に、上智大学7号館(文学部共用室A)にて、上智大学院文学研究科史学専攻の入試説明会が開催されます。

 ご興味のある方は、学部専攻を問わず、 参加をよろしくお願いします。

 詳細に関しましては、以下のポスターを参照願います。











2018/06/07

2018年度5月例会



 2018512日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
 
報告は、上智大学大学院博士後期課程生である酒井駿多氏による、「後漢期の巴における民と蛮」、本学教授である長田彰文氏による、「台湾の『親日』の源流を探る―日本の台湾統治50年とその後の再考察」でした。








酒井駿多氏の報告は、「後漢の巴における蛮と民」と題して、後漢民族史における「蛮」の位置づけについて、現在の四川省のあたりに位置していた巴郡の異民族、特に巴氏と板楯蛮に検討を加えたものであった。
 後漢史における従来の研究は、宦官・外戚による政治闘争の視点によるものが中心で、後の五胡十六国における異民族台頭につながる視点が弱いという問題点、後漢期における異民族呼称に多くのブレが見られるため、その曖昧さへの検討が必要という2つの課題があった。
氏はこれに対して、『後漢書』から虎を始祖とする稟君神話をもつ巴郡の蛮と、同じ巴郡の異民族でありながら、虎を殺して名を残す板楯蛮を提示し、この2つの関係性について述べられた。
この両者は現在同族ではないとする説が支配的であるが、『後漢書』の異民族の記述に関して、恣意性がみられる以上、板楯蛮と巴郡の他の蛮を別のものとして認識してもいいのかと疑問を呈した。そこで、後漢末に巴郡が分割される際、板楯蛮を含む蛮が、稟君を始祖とする「巴」の名前を重要視していたことを指摘し、稟君を始祖とすると記述された異民族は後漢期の段階ですでに巴郡にいなかったものの、巴郡の蛮の多くが、稟君伝説というルーツを共有していたことを確認した。そこから、巴郡のなかの異民族は、ほぼ別のものとして活動していたものがあったが、ルーツを同じとする点において、同族に近い関係性であったと結論付けた。さらに、巴の分割に関する史料から、蛮の漢人との交渉が後漢期からみられ、異民族内でも帰順するものと、異民族としてありつづけるものがいたことを述べ、異民族の内側においてもその在り方が多様であったことを述べられた。
質疑としては、巴が分かれたのち、それぞれの巴にどのような違いが生まれたのかというものや、『後漢書』が基づいた史料を確認すべきではないかという声、巴郡という地域に関して、河川が丘陵などの地形的な環境を踏まえた上で考えるべきなのではないかという声が上がった。











台湾の「親日」の源流を探る日本の台湾統治50年とその後の再考察

現在の日本と台湾の関係には、実際には歴史問題・領土問題が存在するが、世間における台湾のイメージは「親日」というたいへん単純かつ表面的なものにとどまっている。日本の台湾統治の実態および「親日」イメージの形成について、必要において朝鮮と比較しながら検討を行なう。 
  
台湾は1895年、下関講和条約の締結により、日本に割譲された。日本は、台湾人に台湾在留か中国大陸への移住かを選択させた。在留を選んだ台湾人は、台湾を割譲した清国に「裏切られた」と感じた者も少なくなかったという。
 同年4月23日、露仏独が遼東半島の清国への返還を日本に勧告し、日本はそれを受け入れた。翌月、台湾独立派が「台湾民主国」の独立を宣言するが、在台湾欧米領事たちは独立派への支援を断ってしまう。日本は、台湾へ出兵して陥落させ、独立派は、台湾を脱出して大陸へ逃走した。「台湾民主国」は崩壊してしまったが、台湾人は、ナショナリズムを身のうちに育てるようにもなった。
 台湾総督府の注目すべき政策は、台湾総督府官制・総督武官制・台湾住民撫育政策、アヘン禁止などが挙げられる。1919年、朝鮮総督府官制が改正され、台湾の官制も武官制から文武両官制へ改正された。朝鮮総督が改正後も一貫して武官出身者のみ就任するポストであった一方、台湾では1936年までに総督を勤めた九人すべてが文官であった。
 さらに、台湾総督(府)と朝鮮総督(府)には待遇の格差があり、後者のほうが重んじられていた。台湾総督は朝鮮総督に比べ宮中の席次が低かったほか、内閣総理大臣経由での上奏権はもっていなかった。中央政府が台湾総督への指示権限をもっていたことも大きな差である。
 台湾の統治は「内地延長主義」と称されているが、住民との軋轢は決して消えはせず、抗日事件が散発的に起きた。1929年からは自治の成立を目指した運動が盛り上がるが、実現していない。なお、朝鮮の独立運動と台湾の独立運動との連帯は確認できない。
また、1930年代以降、朝鮮ほど徹底的ではなかったが、台湾でも「皇民化政策」が展開されている。第二次世界大戦末期には台湾でも男性の徴兵、女子の挺身隊・従軍慰安婦への動員が行なわれた。
 台湾への空襲は苛烈であったが、上陸計画は見受けられない。皇族の訪問も頻繁であり、これは、朝鮮には見られない動向であった。
19458月、日本のポツダム宣言受諾にともなって9月には降伏文書へ調印し、台湾においても、台湾総督の安藤利吉と中華民国・連合国代表の陳儀が10月に降伏文書へ調印する。台湾は中華民国へ復帰することとなった。台湾では日本統治期を「日治(統治)時期」、あるいは否定的に「日據(占領)時期」と称する。台湾内でも「反日」の中台統一派と「親日」の台湾独立派、そして圧倒的大多数の中間層が混在しており、立場は多様である。日台関係では、慰安婦問題をはじめとする歴史的責任、尖閣諸島の領土問題などが不可視化されがちであり、台湾での「親日」のみが語られがちである。日本社会はいま一度、台湾統治の負の面もはっきり認識する必要性があるであろう。