2011/11/05

2011年度10月例会開催



20111029日(土)上智大学7号館文学部共用室に於いて、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は本学大学院、宮古文尋氏による「戊戌政変に至る外国人処遇問題の検証」並びに同じく本学大学院、笹川恒氏による「ベルリン五輪とスポーツ論―大会組織委員会事務総長カール・ディームを例に―」でした。

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宮古氏の報告では、これまでの氏の研究成果で残された課題である光緒帝が儀礼改革を断行した理由と、変法が頓挫し政変へと至った理由についての考察が為され、前者については対外的圧力を緩和する目的、後者については懋勤殿の開設と伊藤博文顧問招聘策により、政権中枢の意思決定機関に外国人を招き入れることに対する西太后の強い危惧がその理由として挙げられた。

質疑応答では数点の意見交換が為され、儀礼改革については、清朝礼制の理解を前提とした考察を求める意見が出ていた。伊藤の招聘問題については、他の外国人顧問や日本の「お雇い外国人」との比較の視点が提供されていた。まとめとして、指導教官より戊戌政変における保守派と変法派の立ち位置とその行動の意味を再考し続ける必要性が挙げられ、宮古氏の今後の課題意識とも繋がる指摘になっていた。















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笹川氏の報告は、1936年のベルリン五輪に大会組織委員会事務総長として参画した人物であるカール・ディームについてである。この五輪は、ナチ政権によって政治的に利用された大会として、批判的に研究がなされているが、ディームはスポーツに関してどのような考え方を持ち、それはこの大会にどのように生かされたのかについて報告された。

 カール・ディームは1882年に生まれ、10代からドイツ国内のスポーツ活動に携わっていた。1930年にベルリン五輪の開催が決定した後、彼は大会組織委員会事務総長に就任し、1933年以降は、ナチ政権が主導的に大会の準備に携わっていった。ディームが関わった大会プログラムとして祝祭劇があげられるが、その内容は人の一生を数段階に分けて、最終的に国のために犠牲的な死を遂げるというものであった。これは現代的な視点からすると過激なものであったという。

 また彼のスポーツ論に関しては、いくつかの特徴が挙げられる。1つ目は、彼が、外国のスポーツは結果を求めるのに対し、ドイツスポーツは文化的な面に力点を置いているとしたこと。2つ目は、スポーツの目的を個人の気晴らしよりも、国に貢献することとした点。3つ目には、青年に対する彼の期待感があり、4つ目には、外国に対する彼の開かれた姿勢があった。5つ目には、彼の人種主義的ではない姿勢が存在した。五輪の祝祭劇などは、彼自身のスポーツ論に依拠したものであったという笹川氏の考察が述べられた。

 つまり彼のスポーツ論の特徴には、ナチズムに類似するものと相違するものの双方が存在し、ベルリン五輪はこうした類似性と相違性が複雑に絡まっていた大会であったという結論が述べられた。

 ベルリン五輪に関する先行研究は日独で真っ向から対立し、日本ではその業績自体を賛美する傾向があり、一方ドイツではナチの宣伝に加担したと断罪された。笹川氏の本報告は、これらを再考する意味合いを持つ。またディームの著作を手掛かりに、彼のスポーツ論に関する笹川氏の考察は、先行研究で十分に行われては来なかったため新たなディームへの評価に繋がると期待される。質疑応答では人間の根幹に関わるスポーツの政治利用についても、スポーツそのものの右傾化問題からの検証の必要性について言及があった。身体を媒介とした国民国家とVolkの関連性、あるいは国民の原動力となったVolkについても指摘があった。









2011/10/04

2011年度 新入生歓迎学術講演会、開催


例年4月に開催されていた新入生歓迎学術講演会は今年度、残念ながら震災の影響のために延期になっていました。そこで、6月22日(木)、川村信三教授が担当されている新入生対象の「歴史学研究入門」の一コマを使い、無事に講演会が開催されました。講演者は、朝鮮王朝史、朝鮮儒教を中心に研究されている山内弘一教授。講演の要旨は以下のとおりです。

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「なぜ韓国は儒教の国なのか?」との問いかけから、19世紀末から20世紀初頭に活躍した愛国啓蒙運動の中心人物で、ジャーナリストであった張志淵(チャン・ジヨン)の思想と活動の紹介を中心に講演は行われた。張志淵は、1905年の乙巳条約(第二次日韓協約)締結時に、抗日救国の立場から皇城新聞(ソウル)の社説に「是日也放聲大哭」と書き投獄されたことで知られている。伝統的な儒学を修め、それに基づいた愛国啓蒙と抗日運動を展開させた張志淵は、彼の著書『朝鮮儒教淵源』において朝鮮儒教を歴史的・思想的に正当化しようとする。特徴的なのが、華夷思想の中で、「夷」であることを独自に解釈し、東方の地において「明夷」であることが「道明」であり、朝鮮が儒教の本場であることを主張している。また、もし儒教の祖である孔子が渡海し朝鮮の地で伝教していたならば、東アジア一帯に広く儒教の根ざした天下があったと張志淵は考える。なぜこのような考えが生まれたのか。中国が明から女真族による清に移行し儒が滅んだことを背景に、朝鮮の衰微は本当の儒者を用いなかったことに由来するもので、儒ではなく政治が悪いことを、激動の時代において自国を愛し啓蒙しようと努めたのが張志淵という人物なのである。

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内容は高度でしたが、新入生たちは耳を傾け聞き入っており、韓国が儒教の国であるという通念を現実の社会に即して検証する、歴史研究の醍醐味を味わえたことと思います。また、歴史学的見地から韓流ドラマを楽しむ方法や、韓国のお札に描かれた儒学者の肖像、檀君神話をモチーフにしたソウルオリンピックのマスコットに纏わる話など、講演の随所にスパイスがきいており、新入生にとって、歴史研究に引き込まれるような刺激のある講演会であったことは間違いないでしょう。

2011/07/16

2011年度6月例会②開催

梅雨明け前の2011625日(土)、上智大学図書館9階、L-912教室に於いて、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は本学大学院の森脇優紀氏と、埼玉大学名誉教授、岡崎勝世先生でした。


森脇優紀氏の報告は、ポルトガル・リスボンのミゼリコルディア(Misericórdia)が、どのように組織・運営され、また具体的にどのような活動をしていたのかについて、ミゼリコルディアの規則として1516年に初めて活版印刷で刊行されたO Compromisso da Santa Casa da Misericórdia de Lisboa em 1516を実際に翻訳し紹介するものであった。ミゼリコルディアは、16世紀日本において、キリスト教の俗人の信徒組織として導入されていたものでもある。

この規則で注目すべき点は、最終章に国王から与えられた特権が付されていることである。国王が、リスボンを始め各地にミゼリコルディアを設立し、特権を与えて積極的に慈善事業に関わった理由として、15世紀後半から、ポルトガル外部で設立された俗人の慈善事業団体の影響力を抑えるために国王が慈善事業の集権化に着手し、病院の統合や、王室の病院を設立していたことがあげられる。リスボンのミゼリコルディアの承認も、慈善事業の集権化をすすめるための国家的事業であり、他のヨーロッパのミゼリコルディアとは異なる特徴を持っていた。また、これをきっかけにポルトガル支配領域内の各地でも同じような規則を持ったミゼリコルディアが作られ、その規則が日本にもたらされたのである。

質疑応答では、報告者の今後の研究課題にもからめて、積極的な意見交換が行われた。ヨーロッパの他の国のミゼリコルディアとの比較や、規則だけでなく活動実態の検証をする必要があり、他の活動に関する史料が残っている事が期待されるエヴォラやゴアで調査の必要性についての指摘がなされた。日本での秀吉の伴天連追放令以降のミゼリコルディアの変質について、また触穢思想がある日本での遺体の埋葬への関与がどのように行われていたのかについての関心も示された。



岡崎勝世埼玉大学名誉教授の講演は、17世紀の科学革命によって危機に瀕した『普遍史』に関して、その救済を試みたW.ウィストンとニュートン物理学に関する考察である。『普遍史』とは、聖書を直接的な基盤とする伝統的・キリスト教的世界史記述のことである。これは、西欧において古代から存在し、その世界観や人間観などは、時代とともに読み替えられていった。近世になって、科学革命や大航海時代といった、聖書では説明が難しい事象が誕生し、『普遍史』は危機に瀕した。


W.ウィストンは、1696年に出版された『地球の新理論』の中で、ニュートン物理学を前提に聖書の内容が正しいことを示そうとした。彼は6日間での宇宙創造や、ノアの大洪水に関して議論したが、その中で、ニュートン物理学を基礎として、従来の聖書の解釈を変更した。また彼は、聖書が自然哲学的問題の理解を助けるものであるとした。ニュートンもウィストン同様に、聖書の否定はしなかった。ウィストンの純粋な理論的推論は、後の実験に基づく科学的議論などにより否定され、『普遍史』も終焉に向かった。

今回の講演内容で特に興味深いのは、ウィストンが時代状況を踏まえながら、聖書の擁護をしている点である。『普遍史』が「普遍」であり得たのは、時代を超えた共通の真理があるからというよりも、それぞれの時代に上手に適応したからであろう。

2011/06/30

2011年度6月例会開催

201164日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院杉浦廣子氏による「災異と瑞兆のはざま―宋代に至る『受命之符』理解について―」、本学名誉教授であり史学科で長年に渡り教鞭をとられた中井晶夫氏による「スイスとドイツでの歴史研究」でした。


杉浦氏の報告は中国における災異と瑞兆の理解の変化についての考察である。「失政に対する譴告として天が災異を降す」とする災異説は漢代に董仲舒らによって完成され、前近代中国に普遍的に見られる。このため歴代の正史には災異記録のみを分類整理した「五行志」が設けられるのが通例である。逆に「徳政への応として瑞兆が降される」とする発想も同時に存在し、正史でも「瑞兆志」などとして瑞兆記録のみを分類整理した項目を持つものがある。

 しかし両者の内容を比較してみると、同一の事象が時代によって災異とされたり瑞兆とされたりといったぶれが生じている例もある。また『新唐書』以降は瑞兆志が別途設けられることはなく、『宋史』は瑞兆記録も五行志に含めているなど、瑞兆自体の取り扱いが大きく変わっている。

 董仲舒の論では、天が認めた君主のもとには、「人力ノ良ク致ス所ニ非ズシテ自ラ至ル」現象、則ち「受命之符」が起きるとされる。つまり「異」であっても時には「瑞兆」と判断しうるため、此処から災異を瑞兆に変換していく動きが出てきたのではないか。

 『宋書』では瑞兆志の記録と同じ内容が五行志にも存在したり、『魏書』は両者について「霊徴志」という同一項目として取り扱っており、瑞兆が殊更重視されだした南北朝期頃、災異と取り扱いが混交している様子がうかがえる。北宋でも真宗期の記録を見ると、「蝗が生じたが害がなかった」など、災異に理由を付け瑞兆と読み替える例が多数見受けられる。また同時期に編纂された『冊府元亀』は歴代の瑞兆記録などをまとめた項目がある一方で、災異記録をまとめた項目は存在しない。

 南朝に端を発する瑞兆重視の傾向は、北宋真宗期に至って度を超したものとなり、欧陽脩ら宋代儒学者達の中に軌道修正を図ろうとする傾向が出てきたのではないか。『宋史』五行志は瑞兆記録を内に含めるに当たり、序文で「瑞兆も時ならずして起きれば災異である、何れと取るべきかは状況を見れば自明のことだ」とだけ記している。この論理こそが、両者の落としどころとして辿り着いた結論なのだと考える事が出来よう

質疑応答では、正史に災異や瑞兆を記す意味や災異や瑞兆それ自体の科学性を問う点に重点が置かれ、なかでも前近代中国の政治との関わりや疑似科学的な視点の重要性など、今後検討すべき重要な指摘がなされた。



中井晶夫氏の報告は「スイス・ドイツでの歴史研究」と題し、自身のな長年の研究成果についてである。中井氏はスイス留学中、スイス・日本両国の外交の端緒に関する史料調査を行い、その成果を諸論文にまとめた。また日独関係史の研究を行うにあたり、我々が必ず手に取る『オイレンブルク日本遠征記』や『シーボルト 日本』もまた、中井氏の翻訳の賜物である。

 日露戦争期のスイス観戦武官史料や19世紀末に来日した「御雇外国人」ニッポルト(Otfried Nippold 1864-1938)の著作を用い、中井氏は日瑞、日独関係史発展の先駆者として大いに活躍されている。特に日露戦争において、ドイツ陸軍少佐メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel 1842-1906)から直接教えを受けた将校たちが「メッケル流」戦術を巧みに利用し、圧倒的勝利へと日本を導いたが、観戦武官史料はまさにこの点を明らかにするものだ。

ドイツは世界のヘゲモニーを目指す「世界政策」の中で、一貫して戦争を目的として「大国(Grossemacht)」ではなく「世界強国(Weltmacht)」を目指したという第一次世界大戦からナチス・ドイツまでの連続性が存在したと中井氏は強調した。

史学会会員、院生、学部生だけでなく多くの卒業生も集い、熱のこもる「講義」に酔いしれた。日独関係史を志す者としては、中井氏の研究無くしてさらなる発展は望めず、その研究過程の一端にわずかながら触れられたことは非常に有意義だった。研究に対する直向きな中井氏の姿勢には、ただただ敬服するのみである。

2011/06/16

2011年度卒論発表会


例年、卒論発表会・院生総会を4月に開催していますが、本年度は東日本大震災の影響から大学側より自粛要請があったため、201157日に開催いたしました。

今年度は大学院新入生が多く、ほぼ一日かけて熱のこもった発表が行われました。

以下、発表者氏名と所属ゼミ、並びに卒論の題目と報告内容を発表の順に紹介いたします。


○岡耕史(北條ゼミ)

「レヴィ=ストロースの哲学的風景~野蛮から野生、神話への遠望~」
報告は発表者の哲学科の卒業論文要旨である。現代思想全般に広く影響を与えたレヴィ=ストロースの構造主義について述べられている。構造主義を単に方法論として捉えるのではなく、彼が行ってきた思索を人間性に厚みのある哲学的態度として捉える試みである。無文字社会を「野蛮」と認識してきた文明社会に対して、無文字社会は「野生」の思考であるとのレヴィ=ストロースの主張は、文明社会にとって再帰的に自己反省を行う倫理的価値のあるものではないかと結論づけた。こうした発表者の結論は興味深い。史学の分野においても「固定されてしまった認識」を覆すパラダイムの転換が求められている。今後の史学研究においても更に深められうるテーマではないだろうか。

○荒ふみよ(豊田ゼミ)

「古代ローマの美術と美術史における被解放奴隷」
報告はLauren Hackworth Petersen,The Freedman in Roman Art and Art History,Cambridge University Press,2006. の翻訳論文要旨である。ピーターセンは、ペトロニウスの『サテュリコン』におけるトリマルキオのイメージを歴史的被解放奴隷のイメージに当てはめる従来の研究手法を、被解放奴隷の墓所・住居などを考古・建築・美術の観点から検証することにより、それらの背景にある動機は被解放奴隷も一般のローマ人も共通していると結論づけ、批判している。翻訳論文要旨であるため、著者の説に対する批判的意見が発表の中で見られなかった。ここで紹介された遺跡以外にも研究対象を増やし、ピーターセンの研究を批判的に見ることで、新たな被解放奴隷の姿が発見される可能性が高い興味深いテーマであった。

○馬渕直樹(豊田ゼミ)

「ローマ海軍」
報告はMichael Pitassi, The Navies of Rome, The BoydellPress,2009. を扱った翻訳論文要旨である。原著では軍隊内の独立した兵種としてローマ海軍に対して初の厳密な考察が行なわれ、その理由としてローマ帝国が19世紀のイギリスに匹敵する海の帝国だったことが挙げられている。そして過去にほとんど研究されないでいたローマ海軍の創設、発展、衰退を年代順に構成し、ヨーロッパ初の大帝国の建設において海軍が果たした役割が検証されている。質疑では、ローマ陸軍、海軍の帝国内での役割や位置について、馬渕氏がどのように捉えているのか、というものが挙げられた。

○阿南麻衣(児嶋ゼミ)
「ラファエロが描いた聖家族図像―フィレンツェ期を中心として」
報告では、ラファエロの生涯を紹介したうえで三点の聖家族図像の検証が行われている。検証の過程では「マリアの視線の違い」の発見や、画中へのヨハネとヨセフの出現の要因を、社会的背景と、一次史料である
Ragusa,Isa/
Green, Rosalie•B.訳・編,Pseudo-Bonaventura, Meditations on the Life of Christ,Princeton University Press,1961. から探る試み等、独自の領域の開拓への着手が見受けられる。質疑応答では、現在のイタリアにおいてラファエロ研究がどの程度メジャーであるのかという質問、また今後の課題として報告者オリジナルの視点が明確化されると良いとの指摘がなされた。


○浅野友輔(川村ゼミ)
「大内家の毛利元就「取り込み」の実態―『毛利家文書』を中心として―」
毛利元就研究に関しては、従来、中国地方最大の大名となったその英雄像、或いは「両川体制」等による戦国大名化が研究の中心であった。報告は、周防・長門等の守護を兼ねていた大大名である大内氏と、安芸の一国人領主に過ぎなかった毛利氏との関係を『毛利家文書』を中心に検証し、大内氏による安芸国への進出及び元就の外交姿勢について考察を試みるものである。それにより元就の大内氏への従属性が浮かび上がるのだが、毛利氏が弱小勢力でしかなかった頃、大内・尼子両氏の「緩衝地域」とも言える安芸国でどのような外交政策を展開したのか、「外交」を考える上でも興味深い研究である。

○山内保憲(川村ゼミ)

16世紀末の日本人キリスト教徒が理解した聖体の秘跡―『講義要綱』と『ドチリナ・キリシタン』に見られる聖体の秘跡の記述―」
本報告は発表者が神学研究科に修士論文として提出したものの要旨である。16,17世紀の日本におけるカトリック教会の宣教について知っていくため、「聖体の秘跡」を当時の日本人がどのように理解していたかを研究した。当時の日本人神学生の教育のために書かれた教科書である『講義要綱』と信徒のための教理書である『ドチリナ・キリシタン』に書かれている「聖体の秘跡」についての説明を分析することによって、当時の日本人の秘跡理解と日本人に対する宣教の方法が限定的ながらも見えてくる。科学知識など最先端の情報に興味を持ちつつ、理性的な秘跡理解を好んだ日本人信徒の姿が浮き彫りとなった。質疑応答では歴史学的な考証の必要性が問われ、日本での信仰の定着を総合的に捉える視点が促された。

○窪田奈菜(坂野ゼミ)
「後期孫文の民権思想―『建国方略』・「心理建設」を中心に―」
報告では、孫文の「三民主義」中にある「民権主義」理論の成立・発展過程を、後の『建国方略』中にある「心理建設」で描かれた中華民国の国民像と関連付けつつ解釈する試みがなされた。特に「心理建設」に特徴的な人民の三区分論(先知先覚.後知後覚.不知不覚)は、孫文が考える民主主義の方法論であり、当時の民主主 義理論とも合致するものと分析された。質疑応答では、孫文の伝統思想観の根本について、また、今後の課題として西洋あるいは日本の明治維新前後における民権思想との関連について指摘がなされた。

○天野怜(坂野ゼミ)
「清朝・中華民国交代におけるその断絶と継承~孫文の『五族共和』を中心に」
報告は辛亥革命によって清朝はその領土・民族の面において断絶したのか、「五族共和」の分析から孫文の新国家観を探ることを目的としたものである。特に「五族共和」に見られる清朝側を引き付ける清朝継承の意図、そして革命派の排満主張でもある「漢族中心主義」を含むという二面性を指摘し、それが孫文の中で革命前後一貫していたのか検証されている。質疑応答では「漢族中心主義」ははたして孫文の本心であるか、更なる考察を促す意見が出ていた。

○稲垣政志(長田ゼミ)

「日本統治下の満州・台湾における阿片政策」
報告では日本統治下の満州と台湾で行われた阿片政策について、それぞれの地域での特色や戦後の影響などを検討し、再評価した。そのうえで従来の研究で言われてきた「植民地での阿片政策は専売益金目当て」という指摘とは違った「人道主義の立場に立ったもの」という側面を提示しており、阿片政策の新たな解釈を試みた。質疑応答では、阿片政策および植民地政策に関して、どのように当時の政策を捉えるか活発な議論がなされた。

○橋本みなみ(長田ゼミ)
「地図情報と世界認識の関係~近代日本における世界観の変遷」
報告では、日本における各時代における地図情報が少なからず国家観を反映し、その過程や背景には近現代になるにつれて、政治的な意図が介在していたことを指摘した。しかしながら、古代から現代までを対象としたことで概略的になっていたこと、さらに政治思想を近現代においては強調してしまったことにより、本来のテーマから論旨が逸れてしまっていた。質疑応答でも指摘されていたが、古代から現代にいたるまで、地図情報のみで世界観を見ていくのは難しく、各時代の政治思想などを含めた総合的な研究が望まれる。また日本図以外にも、世界各国の地図を取り扱うべきであったとの指摘もあった。