質疑応答では数点の意見交換が為され、儀礼改革については、清朝礼制の理解を前提とした考察を求める意見が出ていた。伊藤の招聘問題については、他の外国人顧問や日本の「お雇い外国人」との比較の視点が提供されていた。まとめとして、指導教官より戊戌政変における保守派と変法派の立ち位置とその行動の意味を再考し続ける必要性が挙げられ、宮古氏の今後の課題意識とも繋がる指摘になっていた。
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笹川氏の報告は、1936年のベルリン五輪に大会組織委員会事務総長として参画した人物であるカール・ディームについてである。この五輪は、ナチ政権によって政治的に利用された大会として、批判的に研究がなされているが、ディームはスポーツに関してどのような考え方を持ち、それはこの大会にどのように生かされたのかについて報告された。
カール・ディームは1882年に生まれ、10代からドイツ国内のスポーツ活動に携わっていた。1930年にベルリン五輪の開催が決定した後、彼は大会組織委員会事務総長に就任し、1933年以降は、ナチ政権が主導的に大会の準備に携わっていった。ディームが関わった大会プログラムとして祝祭劇があげられるが、その内容は人の一生を数段階に分けて、最終的に国のために犠牲的な死を遂げるというものであった。これは現代的な視点からすると過激なものであったという。
また彼のスポーツ論に関しては、いくつかの特徴が挙げられる。1つ目は、彼が、外国のスポーツは結果を求めるのに対し、ドイツスポーツは文化的な面に力点を置いているとしたこと。2つ目は、スポーツの目的を個人の気晴らしよりも、国に貢献することとした点。3つ目には、青年に対する彼の期待感があり、4つ目には、外国に対する彼の開かれた姿勢があった。5つ目には、彼の人種主義的ではない姿勢が存在した。五輪の祝祭劇などは、彼自身のスポーツ論に依拠したものであったという笹川氏の考察が述べられた。
つまり彼のスポーツ論の特徴には、ナチズムに類似するものと相違するものの双方が存在し、ベルリン五輪はこうした類似性と相違性が複雑に絡まっていた大会であったという結論が述べられた。