2015/07/20

2015年度6月例会

20156月20日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院博士後期課程生である杉浦廣子氏による「李覯における『天』観の再評価」、本学の学会員であり現在早稲田大学で助手をされている柳下惠美氏による「イザドラ・ダンカンの舞踊芸術の形成とその普及」でした。


杉浦氏からは、北宋の儒学者である李覯の天人観について報告がなされた。先行研究において、李覯の思想は『荀子』の影響が強く、『孟子』に批判的な正名派寄りの思想と考えられることが多いという点を挙げ、李覯の思想を考えるうえで、『荀子』の「天」理解と人性論とのかかわりをより細かく見ていく必要があると杉浦氏は説明した。検討の結果、李覯は基本的には儒教本来の「天」観を継承したうえで、神秘主義に偏りすぎた部分を正していったことがわかった。また、人民の教化に関しても、『荀子』に基づいて「礼」を規範とした教化を考えているが、その実現のために打ち出された富国強兵策などを考慮すると、『孟子』的な要素が多分に含まれていることも否定できないとした。先行研究で類似性が指摘されていた王安石の『周礼』に基づく新法政策との関わりについても、出発点が富国であるか民衆教化であるかという違いがあることを示された。
総括として、李覯の思想は単に『荀子』を支持し、『孟子』を排撃するという単純な構造ではなく、当時の宋王朝が直面していた政治的・宗教的な問題への対処として、さまざまな諸子思想を取り入れることで、新たな潮流を模索していたと考える必要があると結論付け、李覯の思想研究をより深めていく意義を提示した。
質疑応答では、李覯等当時の儒家が道教などの諸宗教からも影響を受けているとするならば、宋代の各宗教の状況も同時に細かく検討していく必要があるのではないかという指摘があった。断片的なエピソードとしては見受けられるものの、経典レベルでの関係に関してはより深く検証していかなければならないとした。また、李覯の政界での立ち位置についての質疑もなされ、李覯に関する研究をどのように位置づけるかなど、研究史においても有意義な意見交換が交わされた。


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アメリカ人舞踊家イザドラ・ダンカンIsadora Dunkan(1877-1927)は、19世紀末から20世紀にかけて活動した近代ダンスの始祖であり、裸足で踊るスタイルが特徴的な人物である。柳下恵美氏は、博士論文「イザドラ・ダンカンの舞踏芸術の形成とその普及―彼女と継承者たちの国際的公演・教育活動を中心に―」(三部構成)のうち、第一部にあたるダンカンの舞踊芸術の構築と国際的な公演活動を中心に報告した。
 10代前半から舞踊を披露していたイザドラは、1899年にロンドンに活動の拠点を移し、サロンで自身の舞踊に対する評価を獲得していった。彼女は、大英博物館のギリシアの壺から、ギリシア的な舞踊を考案した。裸足の舞踊が有名なダンカンだが、当時はまだサンダルを履いており、1900-1902年のパリ時代に川上貞奴の踊りを見て裸足の舞踊が確立したということを、柳下氏は資料調査により実証した。パリの一座を去ってドイツなどでソロ公演を始めたダンカンは、公演活動や舞踊理論の講演により、自身の踊りを「芸術」へと昇華させることに成功し、「聖者イザドラ」と呼ばれた。1908年のアメリカでの公演も大成功に終わった。しかし、ロシア移住後の1922年には、自らの言動により、西側世界から共産主義者との烙印を押され、アメリカ公演の後半やヨーロッパ帰還後のドイツ公演は失敗している。1927年に行ったパリのモガドール劇場での公演を最後に、ダンカンは事故により50歳でこの世を去った。
 質疑応答では、ダンカンの時代のアメリカの舞踊がどのようなものだったかという質問や、ダンカンが追い求めた「自然」は、その思想潮流が後年ナチズムにも流れていく歴史を考慮すると、問題がなかったのか等について指摘があった。それに対する応答として、アメリカの舞踏は大道芸のような余興であったと、映像を示しながら紹介し、また、ダンカンの支援者には実際にナチス党員もいたことを説明した。