2015年度前期院生総会ならびに卒業論文発表会が4月25日に開催されました。新たに院生会へ加入した7名の新入生による熱のこもった発表が行われましたので、以下、発表者氏名と所属ゼミ、並びに卒論の題目と報告内容を紹介いたします。
○高橋玲奈(児嶋ゼミ)
「スターヴ聖堂ポータルに現れた〈ファーヴニル殺しのシグルズ〉―その出現と解釈への再検討―」
高橋氏の報告は、中世ノルウェーにおける木造小聖堂(スターヴ聖堂)群の、中でもポータル彫刻に古代北欧伝説の英雄シグルズによる悪竜・ファーヴニル退治の図像を含む事例(シグルズ・ポータル)を取り上げ、その図像解釈について考察するという内容であった。その論の主軸は、古代北欧伝説の英雄像という異教的イメージが聖堂装飾に出現したことにより、「ドラゴン退治」要素を有する諸聖人や、悪魔に勝利するキリスト像等と同様に、キリスト教的象徴として再解釈された可能性を検証することにある。具体的には、シグルズ・ポータル群内・他の美術作品・同時代文学等との比較から「ドラゴン退治」図像が意図的に選択されていたことを確認し、さらに12世紀中葉ノルウェーの教会史的変化の検討からキリスト教的象徴理解を可能とした文化的背景を見出すことで、シグルズ像のキリスト教的文脈での再解釈が可能であったと結論付けている。
質疑応答では「ドラゴン退治」図像の意義や当該作例をシグルズと見なす根拠等、この研究の基礎的事項への詳細説明を求める質問があった。又研究方針に対し、美術史的視点での一次史料への慎重な検討や、各作例の地理上の分布への考察の必要性が指摘された。特に後者の指摘は、高橋氏が卒業論文の段階で不十分であったとする各司教区と彫刻図像との関係性の検討に繋がるものであり、同氏はその点を今後の重要な課題にしたいと述べていた。
○岡野佳織(笹川ゼミ)
「太平天国の女性像—太平天国外部と内部指導層の女性観と変遷—」
岡野氏の報告では、太平天国の外部の人々、並びに内部指導層らの女性に関する記述をピックアップし、太平天国の女性像を考察した。先行研究では太平天国の女性史について女性解放か否かという点で研究から研究している。全面的、一部合わせて多くの研究者が太平天国は女性解放の先駆的組織であったと結論づけていた。これらの、太平天国=女性解放という色眼鏡をはずすことで、当時の女性像がみえてくると考えた。外部、内部指導層の女性の記述を集め、その記述を文章ごとに考察した。また、行数により女性の記述の割合を提示し、その記述の少なさにも注目した。
外部の人々は、一部の外国人を除き、太平天国について男女平等、もしくは女性解放を押し進めた組織との認識は無かった。また、内部でも指導層に女性参政などの意志があった訳では無く、最終的には理想の上でも大きく制限を受けていた。つまり、同時代的には女性解放と認識されていたのではなく、彼女達は、戦力不足の解消や彼等のユートピア建設までの補佐的役割と考えられていたと結論づけた。
質疑応答では、「女性解放」という言葉の定義づけが必要であるとの指摘を受けた。漠然と家父長制や売買婚、纏足の禁止と認識していたが、不十分な点も多く、本文中にも明記していない。「解放」などの言葉や概念の海外からの影響や後世の人々の認識にも触れ、卒業論文を補強し、今後に活かしていきたいとした。
○西山裕加里(北條ゼミ)
「稲荷とその使い―狼から狐へ」
報告では、古代において稲荷大社の神使は狐ではなく、狼であったのではないかという点について述べられた。稲荷大社の創建伝承である『山城国風土記』逸文の内容、東寺による稲荷社の樹木伐採とその祟り、稲荷社の祭神等を検討した結果、稲荷神の原初形態は山の神であると仮定し、山の神であるということ、稲荷社の奉斎氏族である秦氏との関係からその使いは狼が適当であるとした。その後、山の神としての稲荷神が徐々に穀物神としての性格を帯び、また、『日本霊異記』の記述より、狐は農耕と関係のある動物であるということから、稲荷社の神使は狐に変わったということを述べた。しかし、狼は農耕民にとっては益獣であるという点から、この結論には誤りがあるのではないかと考え、修論では真言宗と稲荷社の習合等別の視点から考察し直す必要があるとした。
質疑応答では狼の特質をもっと良く考えるべきであるという指摘、現在の我々が認識する狐と古代日本における狐は同じものであるのかという指摘、中世ヨーロッパと中国における狼や獣表象についての他、指導教員の批判に簡単に屈しないようにするべき等、今後の研究に対する姿勢に関する指摘もあった。
○佐藤諒(長田ゼミ)
「三光作戦から見える日中戦争の責任の所在」
報告は、日中戦争において、日本軍の正式な作戦計画に基づいて行なわれた「三光作戦」に焦点を当て、そこから見えてくる日中戦争の責任の所在を明らかにしようとしたものである。そのためにまずは、三光作戦が時期ごとにどのように展開したのか、そして三光作戦の実態がどのようなものだったのかを検討した。そして、そこから見えてくる日本軍兵士の行動原理と、指導者である軍中央部や日本政府、天皇といった権力者たちの考え方を考察した。その結果、日中戦争の責任の所在を「軍中央部および政府の権力者」にあると結論づけた。彼らは、日本軍を自分たちに都合の良い忠実な兵士に作り上げ、天皇制を都合のいいように利用し、自分たちが責任から逃れる仕組みを構築した。彼らの、自分たちにとって「良い」ことしか考慮しない「エゴイズム」こそが、日中戦争を凄惨なものたらしめた原因であり、日中戦争の根源的な責任は彼らにあると分析した。
質疑応答では、「三光作戦」ありきの論文であり、三光作戦否定派の意見への反証がないと客観性に欠けるという意見が出た。また、制度上は大元帥である天皇が責任を負うべきだが、なぜそれができないのかということの論拠に乏しいという指摘も受けた。これらの観点に注意しながら、戦争責任論について再検討を行ないたい。
○吉澤直貴(井上ゼミ)
「西ドイツの『68年』 -「68年運動」の要因に関する一考察-」
吉澤氏は1960年代後半に西ドイツで隆盛を見せた学生運動に関し、従来手薄であった原因論を検討する立場から報告した。
まず世界的な反権威主義運動の拡大の前提として、新左翼の登場、米国とソ連の台頭、公民権運動や「プラハの春」のような世論を揺るがす諸事件が確認された。そしてこの状況下、大連立政府の権威の強大化、極右活動の顕在化、一連のナチ裁判、ナチス支持世代だった親や大学教授達への反発、ベトナム戦争と反戦意識の昂揚などの問題が西ドイツの学生層の懸案となっていたと指摘した。この複雑な背景の下で起きた1967年6月2日の学生射殺事件を契機とし、学生の不満と怒りが急進的な抗議運動へ繋がり、この事件から「68年運動」が始まるとされる点が最終的に触れられた。
メディアの発達や国外学生組織との交流などグローバルな要素に留意しつつ、学生運動家たちの論考と日記を史料として用い、彼らの問題意識における「反権威主義」と「ナチの過去への意識」の非常に強固な結合を吉澤氏は指摘し、こうした要素の結びつきが「68年運動」の爆発的展開に不可欠な一側面であったと報告を締めくくった。
質疑応答では語の定義、客観性を欠いた表現、また運動の当事者が存命であるという現代史としての問題に関する言及があり、政治的側面の不足も問われた。これらに対する回答は不十分であったが、今後の研究活動をより発展的に進めるための重要な反省材料となったであろう。
○神津佳於理(児嶋ゼミ)
「海のテマの創設とビザンツ海軍の発展―テマ・キビュライオタイの創設意義―」
この卒業論文報告は、7世紀から9世紀初頭のビザンツ海軍について焦点を当てた発表であった。内容としては、『テオファネスの年代記』を主史料として設定し、その記述の分析から海軍テマの創設意義について考察を行うというものであった。具体的には、ビザンツ海軍の起源からアラブ艦隊と対峙するまでの時代の流れを辿り、8世紀の皇帝レオン3世によって行われた海軍組織改革の目的を明らかにした。そして、それによって創設された「テマ・キビュライオタイ」という海軍テマの創設の意義について考察を行った。その中で、アラブの海上進出に際して、ビザンツが海軍にテマ制を導入して小アジア南岸を管区にもつ海軍テマを創設したことが、効果的であったことを主張した。また、テマ・キビュライオタイが、アラブ艦隊の恒常的・ゲリラ的な侵略への対処を担い、アラブ艦隊の活動を抑えることにより、防衛艦隊としての目的を果たしたということを強調した。
質疑応答では、なぜ『テオファネスの年代記』を主史料としたのかという質問や、船員はどのような者が担っていたのかという質問が出された。史料については、この時代の最も情報量の多い史料であったため採用したことを説明し、船員については、多様な民族が担っていたと述べた。また、軍事関係の考察だけでなく、税制などの行政的な側面にも目を向けたほうがよいとの指摘があり、今後は行政的な観点からも研究を深めていくと述べていた。
○渡部淳寛(北條ゼミ)
「古代鵜飼に関する予備的考察―漁の諸類型、およびその特質―」
報告では、日本古代の鵜飼漁について漁業様態の特質とその意義を歴史的に位置づける試みがなされた。報告の末尾では結論的に、アユ(鮎・年魚)を供御するという目的においてこそ、日本古代の王権膝下で行われた鵜飼漁における〈夜漁・手綱を用いる〉という特殊な様態が選択されたとする推定が示された。
その推定を行う過程で、日本列島から中国大陸にかけて史料上、および現代の民俗事例に確認される鵜飼漁の様態について概括的な検討がなされ、〈昼漁/夜漁〉の別に重点を置く、先行研究とは異なった鵜飼漁の分類が提示された。報告者の仮定は、日本列島の鵜飼漁が、アユの漁果を期待するために夜漁へと転じ、その夜漁を行いやすくするべくウ(鵜)を手綱で繋ぐという様態に至ったとするものであった。また、折口信夫らの見解に着想した、農耕予祝としてのアユ漁の可能性についても触れられた。同時に、夜漁・篝火・船鵜飼という鵜飼漁の様態が平安貴族の歌材として好まれた傾向を指摘され、日本古代の鵜飼漁でも夜漁に文化的な重点があったとする論点が強調された。
ただ、報告者の関心事の雑多さも相俟って、報告で扱われた題材も人類学・生態学・記紀神話・万葉歌・人物埴輪など多岐にわたり、質疑応答では論旨が掴みづらいとする指摘がなされた。また、本報告の論点をどう修士論文へ繋げていくかという点についても懸念が示された。報告者としては、現時点では古代王権との関わりにおける鵜飼漁・漁撈の儀礼的側面に注目していきたいとのことであった。