日下氏は、自身の歴史観とともに、半生を振り返った。もともと歴史が好きで、頼山陽の『日本外史』などを読んでいた。当時読んだ歴史の概説書は各王朝等の業績を年代順に書き著したものが多く、読み物としては、『三国志演義』や歴史小説の方が面白く感じた。しかし我々は、このような文学作品を読む際、クリティックをしながら資料を読まなければならないと述べた。文学の視点から見た歴史は、ある程度当時の時代背景を踏まえたうえで、実に理解しやすく物事が描かれている。ところが、歴史学者は、記録や証拠などの裏付けができない限り断定はできない。我々は、歴史小説を読むことで、その時代を理解しようとしてしまうが、小説内の細かな出来事や言葉は、事実とは無関係である。歴史家は、文献史学を志す以上、文献に基づいて歴史を証明しなければならないため、知れば知るほど、歴史を確定、断言していくのは難しいと述べた。
次に、日下氏が「歴史」の面白さを本当に理解したきっかけである、ハーバート・ノーマンの『日本における近代国家の成立』との出会いを述べた。この著作は、年代順に積み上げていく歴史記述とは異なり、歴史を機能的に捉え、考察していく方法で記されていた。氏は院生時代にこの本と出会い、機能的な考え方を身につけることで、歴史学への向き合い方を理解できたとした。
大学院での研究テーマは、日本はヨーロッパ文明をいかに受容してきたかという問いであった。社会学者のハーバート・スペンサーの著作を中心に、日本人にスペンサー等の著作が読まれていたのではないかと考え研究を進めた。結果としては、当初の目論見は外れ、日本では、スペンサーの本が読まれた形跡や、影響がなかった。江戸末から明治の初期の日本は、船の作り方や、鉄砲の仕組み等の実学的なものへの興味が向いており、ヨーロッパ文化の社会学的な部分を吸収するにはまだ早い段階であったという結論に達した。
上智大学には、非常に感謝しており、for others with others の考えをつくづく実感し、我が大学がそういった理念を掲げていることに誇りに思っていると述べた。・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
林紀美子氏は1964年に上智大学を卒業され、今回は上智大学の女子学生について、そしてご自身のことについて語った。林氏は在学中、西洋史、特にイスラエル建国史に興味を持ち、ドイツ語を選択していた。このドイツ語クラスは経済学科など史学科以外の学科と混合したクラスで、このクラスでは女子生徒は数人であった。しかし、1964年の史学科は3分の2が女子生徒であり、それまでの年とは異なり女子生徒が非常に多かったことを、大島館など当時の女子生徒の生活についての話を交えて語った。また、当時の史学科の同級生の女性の現在についても話された。コロンビア在住で画家になった友人や、ハワイ在住で夫がロシア正教の司祭で本を出版した友人、弓道の家元の出身で結婚・子育の後に実家に保存されていた古文書を現代語訳している友人など、その活躍を語った。
また、林氏自身の人生は波乱に富んだものであった。上智大学在学中にイスラエルについて専門に学んだこともあり、イスラエルに留学した。10カ月間語学学校に通ったが途中で第三次中東戦争が始まり、急いでイスラエルを出国し、戦争が終わるまで1カ月程キプロスに滞在したという。そしてその後はドイツへ留学した。ドイツに決めた理由には日本の商社が多かったこと、当時成長していたドイツ経済の解明、自身の卒業論文においてナチス時代のドイツを取り扱ったこと、などが挙げられた。西ベルリンの大学に通ったが、現地は3分の1が学生、3分に1が年金で暮らしており、学生はとても優遇される場所であったことなどユーモアを交え語った。そして1970年に帰国し、上智の学生時代に社会科とドイツ語の教員免許を取っていたこともあり、約20年間、日本語教師として活躍された。