2017年6月17日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
報告は、上智大学大学院博士後期課程生である酒井駿多氏による、
「後漢後期における異民族政策の転換」、
本学非常勤講師である堅田智子氏による、
「明治・大正時代における日本でのドイツ式高等教育の導入と実践
――獨逸学協会学校から上智大学へ――」でした。
本学非常勤講師である堅田智子氏による、
「明治・大正時代における日本でのドイツ式高等教育の導入と実践
――獨逸学協会学校から上智大学へ――」でした。
酒井氏からは「後漢期における対異民族制度―異民族統御官を中心に―」と題した、後漢後半期の軍事制度についての報告がなされた。
酒井氏は、従来の後漢史は政治闘争や豪族論が中心で、異民族の大規模な中華侵入や、後漢軍制における異民族の位置が軽視されていることを問題点として挙げた。その上で、漢の研究者から後の時代へアプローチする必要性を説き、異民族の軍事利用と既存の軍制との摩擦や、それによる複雑な状況を主題に論を展開していった。
まず、既存の軍制としては、軍縮後、邊都においては軍備の充実や細分化が見られ、地方防備においては後に軍権を獲得していく州刺史や、郡を治める太守が併存していたが、一方、実際は異民族統御官が辺境において重要な働きを成していたという。
異民族統御官設置の背景には後漢後期の内徙策があった。
この策は、不安定な涼・并・幽州に烏桓や南匈奴を内徙することで、北匈奴との間に緩衝地帯を形成することなどを目的としていた。
異民族統御官は前漢期には具体的な統治に関わっていなかったが、内徙等によって異民族が増加した後漢に入ってからは当該異民族を率いる権限、付随して近隣の軍兵を指揮する権限、更に、異民族統治に関わる権限まで持ち合わせるようになったという。
この策は、不安定な涼・并・幽州に烏桓や南匈奴を内徙することで、北匈奴との間に緩衝地帯を形成することなどを目的としていた。
異民族統御官は前漢期には具体的な統治に関わっていなかったが、内徙等によって異民族が増加した後漢に入ってからは当該異民族を率いる権限、付随して近隣の軍兵を指揮する権限、更に、異民族統治に関わる権限まで持ち合わせるようになったという。
後漢期は、このように異民族統御官を利用して異民族を軍事的に利用してきたものの、
のちに彼らによる反乱が頻発し、政府内で彼らを追い出そうとする殄滅派と引き続き利用しようとする恩信派との論争が起きたが、すでに北方・北西方での軍事は異民族の力に頼っていたため殄滅は不可能であった。
のちに彼らによる反乱が頻発し、政府内で彼らを追い出そうとする殄滅派と引き続き利用しようとする恩信派との論争が起きたが、すでに北方・北西方での軍事は異民族の力に頼っていたため殄滅は不可能であった。
結論として酒井氏は、後漢末期に殄滅に舵を切ろうとした時にはかなりの異民族が中華に流入しており五胡十六国時代の異民族流入への土台ができていたこと、
外敵に対する防衛で異民族統御官が活躍し権限を増した一方、州刺史なども軍権を獲得するなど非常に中途半端な状況になったとしており、
後漢後半期の軍事制度は地方軍が広域な活動ができるように改変される過渡期であり、
そこで顕在化した異民族統御官と州刺史の権力干渉は三国時代以降に変容していくと締めくくった。
外敵に対する防衛で異民族統御官が活躍し権限を増した一方、州刺史なども軍権を獲得するなど非常に中途半端な状況になったとしており、
後漢後半期の軍事制度は地方軍が広域な活動ができるように改変される過渡期であり、
そこで顕在化した異民族統御官と州刺史の権力干渉は三国時代以降に変容していくと締めくくった。
質疑応答では、内徙された異民族への税といった経済面への疑問や、異民族同士の敵対関係はあったのか、異民族統御官内での優劣関係はあったのかなど活発な議論がなされた。
中には、異民族という概念自体、現在の民族とは異なるのではないかという質問も飛び出した。
堅田氏からは、「明治・大正時代における日本のドイツ式教育の導入と実践―獨逸学協会学校から上智大学へ―」というタイトルで報告がなされた。
本研究の目的として、日独交流史の視点から、上智大学草創期のドイツ人SJの大学創設に至る動向を明らかにすることと、大学史、教育史の視点から、ドイツ人SJによりむすび
つけられた、上智大学と獨逸学協会学校の関係性を明らかにするという事が挙げられた。
本研究の目的として、日独交流史の視点から、上智大学草創期のドイツ人SJの大学創設に至る動向を明らかにすることと、大学史、教育史の視点から、ドイツ人SJによりむすび
つけられた、上智大学と獨逸学協会学校の関係性を明らかにするという事が挙げられた。
獨逸学協会は1881年に設立され、西周、桂太郎等が設立メンバーとして名を連ね、獨逸学協会学校を経営母体として運営したが、イエズス会の方針の下で、ドイツ的な教育機関を日本に置くことを目指した設立当初の上智大学との関係もまた、非常に深いものであった。
まず、上智初代校長ヘルマン・ホフマンや、上智設立に携わったヴィルヘルム・エンゲレン、フリードリヒ・ヒリッヒ等が獨逸学協会学校においてドイツ語教師として勤務していたという事実は上智大学、獨協学園資料センター双方の史料から確認されること、
やはり上智の設立者の一人であるアンリ・ブシェーの日記には、獨逸学協会学校第6代目校長の長井長義が登場することが、今回の堅田氏の研究によって明らかになった。
また、堅田氏は、獨逸学協会学校第4代目校長の大村仁太郎の目指したドイツ語教育、「人間の陶冶」に着目し、この交流の中で、「授業と『教育』、知識と『陶冶』の緊密な有機的結合」を目指したイエズス会、上智大学との理念の一致があったとした。
そして、ドイツ式高等教育機関としての上智大学の活動にふれ、
「独日関係の黄金時代」の転換期の終焉を迎えて、その「ドイツ性」のあり方も変化していったことを述べて報告を締めくくった。
質疑応答では、上智大学は、大学令公布前に計画されたが、大学への昇格は計画段階から想定されていたのか、史料として用いられたホフマンの履歴書は誰が記したものなのか、上智大学におけるカトリック布教と教育の関係性はどのようなものであったかなどの質問がなされ、活発な意見交換が行われた。