2011/10/04

2011年度 新入生歓迎学術講演会、開催


例年4月に開催されていた新入生歓迎学術講演会は今年度、残念ながら震災の影響のために延期になっていました。そこで、6月22日(木)、川村信三教授が担当されている新入生対象の「歴史学研究入門」の一コマを使い、無事に講演会が開催されました。講演者は、朝鮮王朝史、朝鮮儒教を中心に研究されている山内弘一教授。講演の要旨は以下のとおりです。

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「なぜ韓国は儒教の国なのか?」との問いかけから、19世紀末から20世紀初頭に活躍した愛国啓蒙運動の中心人物で、ジャーナリストであった張志淵(チャン・ジヨン)の思想と活動の紹介を中心に講演は行われた。張志淵は、1905年の乙巳条約(第二次日韓協約)締結時に、抗日救国の立場から皇城新聞(ソウル)の社説に「是日也放聲大哭」と書き投獄されたことで知られている。伝統的な儒学を修め、それに基づいた愛国啓蒙と抗日運動を展開させた張志淵は、彼の著書『朝鮮儒教淵源』において朝鮮儒教を歴史的・思想的に正当化しようとする。特徴的なのが、華夷思想の中で、「夷」であることを独自に解釈し、東方の地において「明夷」であることが「道明」であり、朝鮮が儒教の本場であることを主張している。また、もし儒教の祖である孔子が渡海し朝鮮の地で伝教していたならば、東アジア一帯に広く儒教の根ざした天下があったと張志淵は考える。なぜこのような考えが生まれたのか。中国が明から女真族による清に移行し儒が滅んだことを背景に、朝鮮の衰微は本当の儒者を用いなかったことに由来するもので、儒ではなく政治が悪いことを、激動の時代において自国を愛し啓蒙しようと努めたのが張志淵という人物なのである。

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内容は高度でしたが、新入生たちは耳を傾け聞き入っており、韓国が儒教の国であるという通念を現実の社会に即して検証する、歴史研究の醍醐味を味わえたことと思います。また、歴史学的見地から韓流ドラマを楽しむ方法や、韓国のお札に描かれた儒学者の肖像、檀君神話をモチーフにしたソウルオリンピックのマスコットに纏わる話など、講演の随所にスパイスがきいており、新入生にとって、歴史研究に引き込まれるような刺激のある講演会であったことは間違いないでしょう。

2011/07/16

2011年度6月例会②開催

梅雨明け前の2011年6月25日(土)、上智大学図書館9階、L-912教室に於いて、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は本学大学院の森脇優紀氏と、埼玉大学名誉教授、岡崎勝世先生でした。


森脇優紀氏の報告は、ポルトガル・リスボンのミゼリコルディア(Misericórdia)が、どのように組織・運営され、また具体的にどのような活動をしていたのかについて、ミゼリコルディアの規則として1516年に初めて活版印刷で刊行されたO Compromisso da Santa Casa da Misericórdia de Lisboa em 1516を実際に翻訳し紹介するものであった。ミゼリコルディアは、16世紀日本において、キリスト教の俗人の信徒組織として導入されていたものでもある。

この規則で注目すべき点は、最終章に国王から与えられた特権が付されていることである。国王が、リスボンを始め各地にミゼリコルディアを設立し、特権を与えて積極的に慈善事業に関わった理由として、15世紀後半から、ポルトガル外部で設立された俗人の慈善事業団体の影響力を抑えるために国王が慈善事業の集権化に着手し、病院の統合や、王室の病院を設立していたことがあげられる。リスボンのミゼリコルディアの承認も、慈善事業の集権化をすすめるための国家的事業であり、他のヨーロッパのミゼリコルディアとは異なる特徴を持っていた。また、これをきっかけにポルトガル支配領域内の各地でも同じような規則を持ったミゼリコルディアが作られ、その規則が日本にもたらされたのである。

質疑応答では、報告者の今後の研究課題にもからめて、積極的な意見交換が行われた。ヨーロッパの他の国のミゼリコルディアとの比較や、規則だけでなく活動実態の検証をする必要があり、他の活動に関する史料が残っている事が期待されるエヴォラやゴアで調査の必要性についての指摘がなされた。日本での秀吉の伴天連追放令以降のミゼリコルディアの変質について、また触穢思想がある日本での遺体の埋葬への関与がどのように行われていたのかについての関心も示された。



岡崎勝世埼玉大学名誉教授の講演は、17世紀の科学革命によって危機に瀕した『普遍史』に関して、その救済を試みたW.ウィストンとニュートン物理学に関する考察である。『普遍史』とは、聖書を直接的な基盤とする伝統的・キリスト教的世界史記述のことである。これは、西欧において古代から存在し、その世界観や人間観などは、時代とともに読み替えられていった。近世になって、科学革命や大航海時代といった、聖書では説明が難しい事象が誕生し、『普遍史』は危機に瀕した。


W.ウィストンは、1696年に出版された『地球の新理論』の中で、ニュートン物理学を前提に聖書の内容が正しいことを示そうとした。彼は6日間での宇宙創造や、ノアの大洪水に関して議論したが、その中で、ニュートン物理学を基礎として、従来の聖書の解釈を変更した。また彼は、聖書が自然哲学的問題の理解を助けるものであるとした。ニュートンもウィストン同様に、聖書の否定はしなかった。ウィストンの純粋な理論的推論は、後の実験に基づく科学的議論などにより否定され、『普遍史』も終焉に向かった。

今回の講演内容で特に興味深いのは、ウィストンが時代状況を踏まえながら、聖書の擁護をしている点である。『普遍史』が「普遍」であり得たのは、時代を超えた共通の真理があるからというよりも、それぞれの時代に上手に適応したからであろう。

2011/06/30

2011年度6月例会開催

2011年6月4日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院杉浦廣子氏による「災異と瑞兆のはざま―宋代に至る『受命之符』理解について―」、本学名誉教授であり史学科で長年に渡り教鞭をとられた中井晶夫氏による「スイスとドイツでの歴史研究」でした。


杉浦氏の報告は中国における災異と瑞兆の理解の変化についての考察である。「失政に対する譴告として天が災異を降す」とする災異説は漢代に董仲舒らによって完成され、前近代中国に普遍的に見られる。このため歴代の正史には災異記録のみを分類整理した「五行志」が設けられるのが通例である。逆に「徳政への応として瑞兆が降される」とする発想も同時に存在し、正史でも「瑞兆志」などとして瑞兆記録のみを分類整理した項目を持つものがある。

 しかし両者の内容を比較してみると、同一の事象が時代によって災異とされたり瑞兆とされたりといったぶれが生じている例もある。また『新唐書』以降は瑞兆志が別途設けられることはなく、『宋史』は瑞兆記録も五行志に含めているなど、瑞兆自体の取り扱いが大きく変わっている。

 董仲舒の論では、天が認めた君主のもとには、「人力ノ良ク致ス所ニ非ズシテ自ラ至ル」現象、則ち「受命之符」が起きるとされる。つまり「異」であっても時には「瑞兆」と判断しうるため、此処から災異を瑞兆に変換していく動きが出てきたのではないか。

 『宋書』では瑞兆志の記録と同じ内容が五行志にも存在したり、『魏書』は両者について「霊徴志」という同一項目として取り扱っており、瑞兆が殊更重視されだした南北朝期頃、災異と取り扱いが混交している様子がうかがえる。北宋でも真宗期の記録を見ると、「蝗が生じたが害がなかった」など、災異に理由を付け瑞兆と読み替える例が多数見受けられる。また同時期に編纂された『冊府元亀』は歴代の瑞兆記録などをまとめた項目がある一方で、災異記録をまとめた項目は存在しない。

 南朝に端を発する瑞兆重視の傾向は、北宋真宗期に至って度を超したものとなり、欧陽脩ら宋代儒学者達の中に軌道修正を図ろうとする傾向が出てきたのではないか。『宋史』五行志は瑞兆記録を内に含めるに当たり、序文で「瑞兆も時ならずして起きれば災異である、何れと取るべきかは状況を見れば自明のことだ」とだけ記している。この論理こそが、両者の落としどころとして辿り着いた結論なのだと考える事が出来よう。

質疑応答では、正史に災異や瑞兆を記す意味や災異や瑞兆それ自体の科学性を問う点に重点が置かれ、なかでも前近代中国の政治との関わりや疑似科学的な視点の重要性など、今後検討すべき重要な指摘がなされた。



中井晶夫氏の報告は「スイス・ドイツでの歴史研究」と題し、自身のな長年の研究成果についてである。中井氏はスイス留学中、スイス・日本両国の外交の端緒に関する史料調査を行い、その成果を諸論文にまとめた。また日独関係史の研究を行うにあたり、我々が必ず手に取る『オイレンブルク日本遠征記』や『シーボルト 日本』もまた、中井氏の翻訳の賜物である。

 日露戦争期のスイス観戦武官史料や19世紀末に来日した「御雇外国人」ニッポルト(Otfried Nippold 1864-1938)の著作を用い、中井氏は日瑞、日独関係史発展の先駆者として大いに活躍されている。特に日露戦争において、ドイツ陸軍少佐メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel 1842-1906)から直接教えを受けた将校たちが「メッケル流」戦術を巧みに利用し、圧倒的勝利へと日本を導いたが、観戦武官史料はまさにこの点を明らかにするものだ。

ドイツは世界のヘゲモニーを目指す「世界政策」の中で、一貫して戦争を目的として「大国(Grossemacht)」ではなく「世界強国(Weltmacht)」を目指したという第一次世界大戦からナチス・ドイツまでの連続性が存在したと中井氏は強調した。

史学会会員、院生、学部生だけでなく多くの卒業生も集い、熱のこもる「講義」に酔いしれた。日独関係史を志す者としては、中井氏の研究無くしてさらなる発展は望めず、その研究過程の一端にわずかながら触れられたことは非常に有意義だった。研究に対する直向きな中井氏の姿勢には、ただただ敬服するのみである。

2011/06/16

2011年度卒論発表会


例年、卒論発表会・院生総会を4月に開催していますが、本年度は東日本大震災の影響から大学側より自粛要請があったため、2011年5月7日に開催いたしました。

今年度は大学院新入生が多く、ほぼ一日かけて熱のこもった発表が行われました。

以下、発表者氏名と所属ゼミ、並びに卒論の題目と報告内容を発表の順に紹介いたします。


○岡耕史(北條ゼミ)

「レヴィ=ストロースの哲学的風景~野蛮から野生、神話への遠望~」
報告は発表者の哲学科の卒業論文要旨である。現代思想全般に広く影響を与えたレヴィ=ストロースの構造主義について述べられている。構造主義を単に方法論として捉えるのではなく、彼が行ってきた思索を人間性に厚みのある哲学的態度として捉える試みである。無文字社会を「野蛮」と認識してきた文明社会に対して、無文字社会は「野生」の思考であるとのレヴィ=ストロースの主張は、文明社会にとって再帰的に自己反省を行う倫理的価値のあるものではないかと結論づけた。こうした発表者の結論は興味深い。史学の分野においても「固定されてしまった認識」を覆すパラダイムの転換が求められている。今後の史学研究においても更に深められうるテーマではないだろうか。

○荒ふみよ(豊田ゼミ)

「古代ローマの美術と美術史における被解放奴隷」
報告はLauren Hackworth Petersen,The Freedman in Roman Art and Art History,Cambridge University Press,2006. の翻訳論文要旨である。ピーターセンは、ペトロニウスの『サテュリコン』におけるトリマルキオのイメージを歴史的被解放奴隷のイメージに当てはめる従来の研究手法を、被解放奴隷の墓所・住居などを考古・建築・美術の観点から検証することにより、それらの背景にある動機は被解放奴隷も一般のローマ人も共通していると結論づけ、批判している。翻訳論文要旨であるため、著者の説に対する批判的意見が発表の中で見られなかった。ここで紹介された遺跡以外にも研究対象を増やし、ピーターセンの研究を批判的に見ることで、新たな被解放奴隷の姿が発見される可能性が高い興味深いテーマであった。

○馬渕直樹(豊田ゼミ)

「ローマ海軍」
報告はMichael Pitassi, The Navies of Rome, The BoydellPress,2009. を扱った翻訳論文要旨である。原著では軍隊内の独立した兵種としてローマ海軍に対して初の厳密な考察が行なわれ、その理由としてローマ帝国が19世紀のイギリスに匹敵する海の帝国だったことが挙げられている。そして過去にほとんど研究されないでいたローマ海軍の創設、発展、衰退を年代順に構成し、ヨーロッパ初の大帝国の建設において海軍が果たした役割が検証されている。質疑では、ローマ陸軍、海軍の帝国内での役割や位置について、馬渕氏がどのように捉えているのか、というものが挙げられた。

○阿南麻衣(児嶋ゼミ)
「ラファエロが描いた聖家族図像―フィレンツェ期を中心として」
報告では、ラファエロの生涯を紹介したうえで三点の聖家族図像の検証が行われている。検証の過程では「マリアの視線の違い」の発見や、画中へのヨハネとヨセフの出現の要因を、社会的背景と、一次史料である
Ragusa,Isa/
Green, Rosalie•B.訳・編,Pseudo-Bonaventura, Meditations on the Life of Christ,Princeton University Press,1961. から探る試み等、独自の領域の開拓への着手が見受けられる。質疑応答では、現在のイタリアにおいてラファエロ研究がどの程度メジャーであるのかという質問、また今後の課題として報告者オリジナルの視点が明確化されると良いとの指摘がなされた。


○浅野友輔(川村ゼミ)
「大内家の毛利元就「取り込み」の実態―『毛利家文書』を中心として―」
毛利元就研究に関しては、従来、中国地方最大の大名となったその英雄像、或いは「両川体制」等による戦国大名化が研究の中心であった。報告は、周防・長門等の守護を兼ねていた大大名である大内氏と、安芸の一国人領主に過ぎなかった毛利氏との関係を『毛利家文書』を中心に検証し、大内氏による安芸国への進出及び元就の外交姿勢について考察を試みるものである。それにより元就の大内氏への従属性が浮かび上がるのだが、毛利氏が弱小勢力でしかなかった頃、大内・尼子両氏の「緩衝地域」とも言える安芸国でどのような外交政策を展開したのか、「外交」を考える上でも興味深い研究である。

○山内保憲(川村ゼミ)

「16世紀末の日本人キリスト教徒が理解した聖体の秘跡―『講義要綱』と『ドチリナ・キリシタン』に見られる聖体の秘跡の記述―」
本報告は発表者が神学研究科に修士論文として提出したものの要旨である。16,17世紀の日本におけるカトリック教会の宣教について知っていくため、「聖体の秘跡」を当時の日本人がどのように理解していたかを研究した。当時の日本人神学生の教育のために書かれた教科書である『講義要綱』と信徒のための教理書である『ドチリナ・キリシタン』に書かれている「聖体の秘跡」についての説明を分析することによって、当時の日本人の秘跡理解と日本人に対する宣教の方法が限定的ながらも見えてくる。科学知識など最先端の情報に興味を持ちつつ、理性的な秘跡理解を好んだ日本人信徒の姿が浮き彫りとなった。質疑応答では歴史学的な考証の必要性が問われ、日本での信仰の定着を総合的に捉える視点が促された。

○窪田奈菜(坂野ゼミ)
「後期孫文の民権思想―『建国方略』・「心理建設」を中心に―」
報告では、孫文の「三民主義」中にある「民権主義」理論の成立・発展過程を、後の『建国方略』中にある「心理建設」で描かれた中華民国の国民像と関連付けつつ解釈する試みがなされた。特に「心理建設」に特徴的な人民の三区分論(先知先覚.後知後覚.不知不覚)は、孫文が考える民主主義の方法論であり、当時の民主主 義理論とも合致するものと分析された。質疑応答では、孫文の伝統思想観の根本について、また、今後の課題として西洋あるいは日本の明治維新前後における民権思想との関連について指摘がなされた。

○天野怜(坂野ゼミ)
「清朝・中華民国交代におけるその断絶と継承~孫文の『五族共和』を中心に」
報告は辛亥革命によって清朝はその領土・民族の面において断絶したのか、「五族共和」の分析から孫文の新国家観を探ることを目的としたものである。特に「五族共和」に見られる清朝側を引き付ける清朝継承の意図、そして革命派の排満主張でもある「漢族中心主義」を含むという二面性を指摘し、それが孫文の中で革命前後一貫していたのか検証されている。質疑応答では「漢族中心主義」ははたして孫文の本心であるか、更なる考察を促す意見が出ていた。

○稲垣政志(長田ゼミ)

「日本統治下の満州・台湾における阿片政策」
報告では日本統治下の満州と台湾で行われた阿片政策について、それぞれの地域での特色や戦後の影響などを検討し、再評価した。そのうえで従来の研究で言われてきた「植民地での阿片政策は専売益金目当て」という指摘とは違った「人道主義の立場に立ったもの」という側面を提示しており、阿片政策の新たな解釈を試みた。質疑応答では、阿片政策および植民地政策に関して、どのように当時の政策を捉えるか活発な議論がなされた。

○橋本みなみ(長田ゼミ)
「地図情報と世界認識の関係~近代日本における世界観の変遷」
報告では、日本における各時代における地図情報が少なからず国家観を反映し、その過程や背景には近現代になるにつれて、政治的な意図が介在していたことを指摘した。しかしながら、古代から現代までを対象としたことで概略的になっていたこと、さらに政治思想を近現代においては強調してしまったことにより、本来のテーマから論旨が逸れてしまっていた。質疑応答でも指摘されていたが、古代から現代にいたるまで、地図情報のみで世界観を見ていくのは難しく、各時代の政治思想などを含めた総合的な研究が望まれる。また日本図以外にも、世界各国の地図を取り扱うべきであったとの指摘もあった。

2010/04/19

2010年度 新入生歓迎学術講演会、開催!

4月17日(土)、今年度最初の例会が、新入生歓迎学術講演会として開催されました。講演者は、昨年サバティカルをとられ、韓国やアメリカで研究を続けられていた長田彰文教授。講演タイトル、および要旨は以下のとおりです。
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「ニューヨークにおける日本人移民と日米関係」
 在米日系人移民については、中国人移民に代わるブルーカラー労働力として移民が開始されて以来、日米関係の悪化に伴う排斥、資産没収や強制収容所への連行といった辛苦の歴史が知られる。しかし、それらはほとんど西海岸の場合であり、合衆国の〈中心〉である東海岸の日系人には当てはまらない。永住性が高かった西海岸の移民に対し、東海岸では留学から貿易に従事する日本人が多かった。会社「佐藤新井組」を創業して生糸貿易に従事した佐藤百太郎や新井領一郎が有名だが、そのほかにもアドレナリンを結晶化させるのに成功し、理科学研究所の創設にも関わった高峰譲吉、ロックフェラー研究所で黄熱病の研究に従事した野口英世、日本人共済会を創設した高見豊彦ら、著名な医師や科学者もいた。ニューヨーク自体が宗教・人種のるつぼ(あるいは、中のものがそれぞれの形を維持しつつ全体の調和を保っている、〈サラダ・ボール〉の方が正確な表現か)であったためか、日米開戦後も目立たない日本人が攻撃対象になることはなく、西海岸のように資産の没収や活動が拘束を受けることもなかった。現在も6万人ほどの日本人がニューヨークに在住しているが、その数は減少傾向にあり、かつてブルックリンにあった日本人街・日本人村のようなものは今はない。
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 写真のとおり、新入生たちも真剣な眼差しで耳を傾けていました。また、今年度のヘルパーである長田ゼミ3年 柴崎晶宏君が、下記のような感想を寄せてくれました(ありがとうございます)。
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 海外在留邦人の数は、ここ何10年の国際化の影響を受け、現在では100万人近くにのぼるといわれています。米国の都市別で見るとニューヨー クは不動の人気を誇るようです。しかし今から遡ること150年、ニュー ヨークにおける日本人の数が約30人であったという事実には誰もが耳を疑うでしょう。
 長田教授の講義は日本史学習者でも、そうでない人にとっても大変興味深いものでした。写真結婚がかつて存在したことを移民史の中に織り交ぜ、私たちが耳にしたことのあるビッグネームを紹介。さらに太平洋戦争時に日本人はなぜ資産や不動産を没収されず拘束もされずに済んだのかという歴史学習者が疑問を抱く問いへの答 え。写真結婚は、写真を見ただけで伴侶が決まる、現代の感覚ではライト版お見合いといった感じなのでしょうか。
 この講義を聞いたほとんどの人が「お金がなければやっていけない」、MeltingPot ニューヨークを訪れてみたくなったのは確かだと思います。
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講演会終了後は、これまた恒例の新入生歓迎会懇親会。坂野先生による乾杯の音頭で始まりました。今年の1年生は「おとなしい」印象があったのですが、なかなかどうして豪快な食べっぷり。「自分の分を取ったら後ろへ下がるのがマナーです」との井上先生の訓辞も空しく、テーブルへ群がり続ける若者たちの姿がそこかしこでみられました。毎年、GWを過ぎると心の不調を訴える学生たちも出てくるのですが、この元気をずっと持続していってもらいたいと願うばかりです。

2009/07/15

2009年度 7月例会開催!

7月11日(土)、7月例会が開催されました。この日は特別に、2008年度の日本学士院賞を受賞された千葉大学の保坂高殿氏をお迎えし、「歴史と文学—教会中心史観を巡って—」と題する報告をいただきました。また、豊田浩志氏により「歴史学とドキュメンタリー:イエス一族の墓発見!?」と題した応援報告もなされ、盛り沢山の内容となりました。

まず豊田氏は、最近マスコミで話題になった原始キリスト教史関係の発掘情報を紹介し、その功罪について論じました。具体的には、
①2009年6月、サン・パオロ大聖堂の祭壇下石棺内からみつかった1〜2世紀の骨断片を、ベネディクト16世が聖パウロの遺骨と断言した件、およびそれに先立つ聖パウロの単独肖像画(4世紀後半)発見の報告。
②2007年3月、Discovery Channelによるイエス一族の墓発見というセンセーショナルな大キャンペーンの件。話題性重視のマスコミによる安直な情報操作を批判する一方、十字軍時代に遡る聖遺物贋造を意図した墳墓改装の可能性も指摘した。
③1953年にオリーブ山で出土した骨箱のアラム語「Shimon bar Jonah」にも言及。原始キリスト教関係者のエルサレム共同墓地の可能性が指摘されてきたが、ユダヤ人命名法には同一名が多いため、それを根拠とする安易な主張は問題であると訴えた。

保坂氏は、歴史叙述が一種の物語であることを肯定しつつ、文学との相違についても言及したうえで、従来の古代キリスト教迫害史研究が、極めて分かりやすい「歴史小説的な構図」を採ってきたことを批判します。
異教徒はキリスト教徒を憎むものであり、キリスト教徒も異教徒を忌み嫌うものという二項対立的な構図は、古代の史資料の語る現実とは大きく食い違う。それらは、多くのキリスト教徒が異教徒と共同の食事を楽しみ、共同で祭事を行う光景を伝えてくれる。外国文化全般に極めて寛容であった文化的後進国ローマに宗教戦争はなく、したがって教会の“勝利”もなかった。歴史はより多様であり、かつより多元的である。

いわゆる実証主義とは歴史学者の認識論的立場としてよく主張されるところですが、そのア・プリオリな思考にこそ大きな落とし穴が空いているのではないか。歴史学の魅力と危うさを痛感する時間となりました。

2009/06/30

2009年度 6月例会開催!

6月27日(土)、6月例会が開催されました。当日は複数の学会が重なり参加者は少数でしたが、2人のOBを迎えて活発な議論が行われました。報告は、富士見丘中学高等学校教諭の関根淳氏による「日本古代史料における『国家』―天皇・国家・公―」、丸山清志氏による「サモアの先史時代の時期区分について」でした。

関根氏の報告は、古代の日本において語られる「国家」の意味を、史料に即して検討したものである。石母田正以来の重厚な研究史のなかで、従来、この「国家」は天皇を意味するものと広く認識され、また公・公権力という意味は含有されないとの合意が形成されてきた。しかし、史料を子細に検討してみると、その意味内容はより多様であり、①国土、②朝廷、③天皇、④天皇家、⑤公・公権力、⑥故郷・本拠地、⑦国家(現代用語と同じ意味)などに大別されることが分かる。「国家」とは、時代の変遷や地域によって可変的な意味を持つ語句なのである。
研究史の詳細な検討と批判、逐次的な史料解釈など、歴史学研究の基本ともいうべき堅実な報告でした。質疑応答では、国家なるものをいかに捉えるか、分野を超えて広汎な議論が行われました。

丸山氏の報告は、考古学的に未解決となっている東ポリネシアへの人類の植民年代について、紀元後第1千年紀におけるサモアの文化様相の分析から、解答を与えようとしたものです。サモアの先史時代の画期は紀元後第1千年紀の前半で、遺物や遺跡の様態から、小氷河期の影響による海上交易の衰退、内陸経済への移行を確認できる。これらは植民後の東ポリネシアでも同時期に生じていることから、それ以前に定着していた植民期の海洋指向文化と内陸資源開発の時期を考えれば、東ポリネシアの各地域は紀元後第一千年期の前半から中葉に植民されたと推測される。
考古学的な専門知識の駆使された報告で、質疑応答は基本的な事項・概念の確認がほとんどでしたが、気候変動と文明との関係、古気候学の歴史学への援用の方法など、広い視野からの意見交換が行われました。