2012/12/05

上智大学史学会第62回大会

20121118日(日)上智大学7号館文学部共用室において、上智大学史学会第62回大会が行われました。大会は以下の要領で開催されました。このブログでは、各部会研究発表の模様および、上智大学教授坂野良吉氏による公開講演の要旨を載せさて頂きます。

○第1部会(日本史):共用室A

 ・岩井優多 氏(上智大学大学院)
  「日本古代における治水の認識―「治水英雄」創出への過程―」

 ・山内保憲 氏(上智大学大学院)
  「キリシタン時代のコングレガシオ・デ・マリアーナ
   ―慶長九年九月二十七日付セミナリヨの生徒による書簡を手がかりに―」

 ・浅野友輔 氏(上智大学大学院)
  「永禄年間室町将軍足利義輝の和平調停とその影響範囲
   ―毛利家・国衆動向からの検討―」

 ・中野純 氏(上智大学大学院)
  「「高札場」の成立について」

 ・稲垣政志 氏(上智大学大学院)
  「陸軍省による関東軍統制について
   ―満州某重大事件から満州国建国にかけて―」

















○第2部会(東洋史):共用室D
 ・ 天野怜 氏(上智大学大学院)
  「孫文の清朝領域観」

 ・望月美咲 氏(東京大学大学院)
  「科挙廃止の最終段階を見る―「逓減」から「立停」へ―」
 ・松浦晶子 氏(上智大学大学院)
  「雅楽の破壊と再生」

 ・宮古文尋 氏(上智大学大学院) 
  「戊戌変法と張之洞」

 ・中島良江 氏(上智大学大学院)
  「清代の画院と御容」


○第3部会(西洋史):共用室C
 ・ 齋藤貴弘 氏(上智大学史学会会員)
  「聖オリーブ樹に関する法(AP.60.2)の変遷をめぐって」
 ・藤澤綾乃氏(上智大学大学院)
  「港湾都市オスティアのディアスポラ・ユダヤ人」
 ・加賀野井瞳 氏(上智大学大学院)
  「世紀の大馬術師―ジャック・ド・ソレイゼル『le parfait mareschai』と馬学興隆」
 ・山手昌樹 氏(上智大学特別研究員)
  「19世紀末イタリアの女流社会調査家」


















16:00からは上智大学教授坂野良吉氏による公開講演が行われました。
講演タイトルは「中国近・現代史像の虚と実」。講演内容は以下のようなものでした。






 講演会は二部構成となっていた。第一部では、中国に対する熱い思い入れと期待に突き動かされてきた若き日の研究に対する「痛恨の回顧」が語られた。1960年代の研究界では、マルクスの「世界史の基本法則」を中国に当てはめ、資本主義社会が社会・共産主義社会へ進化するとの前提条件のもと研究を進める事が常道となっていた。氏はこの流れに疑問を感じつつも、帝国主義によって破壊・抑圧された社会経済が、民衆の闘争によって立て直され、その結晶として1920年代の国民革命、1949年の共産革命が位置付けられると信じ研究に打ち込んだ。しかし、文化大革命と天安門事件を目の当たりにして氏は大きな衝撃を受ける。自らの研究は中共と人民共和国の価値観に基づく神話と史実が入り混じった歴史をなぞるものでしかなかった事に気付かされたからだ。
 第二部では、その後の研究テーマを紹介しつつ、40年にわたる研究生活の中で得られたものについて語られた。過去への反省として学生との関わりを深めるかたわら、氏の視点は中国における自国史叙述とその問題点に向けられていく。氏は中国近代を「リセット」の繰り返しととらえる。つまり国共合作、15年戦争、人民共和国成立と毛沢東時代、改革開放と鄧小平時代等の節目毎に、絶えず中国の「自画像」は書き換られ転変を遂げてきたのである。そして近年のリセットにより中国の自画像は毛沢東礼賛の記述の中で描かれているとする。例えば「『歴史』の中の毛沢東」(『上智史学』第53号、2009年)では、共産党政権の中で語り継がれるカリスマ的指導者としての毛沢東イメージの構築過程を分析し、正史以来の「勝った者が歴史を定める」範囲を脱していない現人民共和国の現状を浮き彫りにした。ゆえに現在の関心は「個我の欲求」といかに向き合い自制してゆくか、つまり、「近現代中国像の虚と実」に対していかに冷静な視点を向けられるかにあると締めくくった。

 講演会には坂野氏の前任校を含む卒業生が多数訪れ、久々の講義に耳を傾けていました。講演終了後には歴代ゼミ生が一同に会しての記念撮影が行われ、坂野氏と世代を超えた教え子の親睦を深める場となりました。

2012/11/07

上智大学史学会・院生会合同10月例会

2012年10月27日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智史学会会員であります浅野真知氏による「中華民国初期の官庁の文書管理規則-近代日本との比較を中心として-」、並びに、本学大学院に所属する堅田智子氏による「アレクサンダー・フォン・シーボルトと黄禍論」でした。

 浅野氏の報告は、昨年の上智史学会第61回大会・東洋史部会で行われた同氏の報告(「中華民国初期の文書制度-官庁の文件保存規則を中心として-」)をもとに、当日フロアより出された意見などを反映して新たな内容を加え、再検討を行ったものである。前回に引き続き、中華民国政府の公文書管理規則のうち現存している北洋政府の司法部・外交部・教育部の規則を主材料とし、民国政府のおかれた政治的・社会的状況の違いを発見することを主眼としている。今回は日本の明治政府における同種の規則と比較を行い共通点・相違点を見ることで、民国政府の規則の特性を見出すという試みがなされた。 
                                       

 民国政府の文書管理規則に係る史料が既に提示された三部署のもの以外にほとんど無いといった問題に加え、日本側の文書管理規則についても内閣制度成立以後については研究が進んでおらず、今後どのような研究手法が考えられるかといった部分も含めフロアより活発な意見交換がなされた。
 


 比較的史料の充実している日本側では、規則が制定された時期ごとに資料の整理や保管・閲覧など各手順の何処に比重を置くかの違いが現れているとのことであり、今後はまず日本側の規則を詳細に見ることで、民国側の制度を研究する足がかりとしたいとのことであった。

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 堅田氏は、19世紀末に明治政府外交官として活躍したアレクサンダー・フォン・シーボルト(Alexander von Siebold, 1846-1911)を中心とした、日独外交史を専門としている。本報告では、彼が対峙せねばならなかった黄禍論に対し、言論を通じ、どのように反駁しようとしたのか、また、そこから垣間見えるシーボルトの日本意識について、著作を手がかりに分析・解明がなされた。

 黄禍論(die gelbe Gefahr〔独〕、the yellow peril〔英〕)とは、白色人種が一方的に黄色人種に対し恐怖をいだき、勝手に黄禍の波が押し寄せているとした白色人種による妄想であり、欧米において1870年代から第一次世界大戦までの帝国主義時代に誕生、発展した政治的スローガンである。

 

 こうした先行研究をふまえ、氏は、シーボルトが19041905年にドイツで発表した黄禍論をテーマとする三論文を分析した。シーボルトは、黄禍を恐れる白色人種が自ら黄禍を生み出す、黄禍論の悪循環を批判するとともに、「日本に限って」黄禍論は存在しないと一貫して主張し続け、黄禍論が激しく展開されたドイツにおいて、ドイツ国民を「啓蒙」する意味があったと指摘した。また、中国、韓国との差別化を図り、白色人種から西欧的一等国として認められないのであれば、日本が黄色人種の中で最上位に位置したいという、明治の元勲と共通した「強烈なナショナル・プライド」、「強烈なナショナル・アイデンティティ」を有していたと、氏は結論づけた。また、同時代人であり、ドイツ留学経験のある森鷗外(1862-1922)の黄禍論に関する著作を比較対象とし、両者には、①人種ヒエラルキーの「肯定」、②日本、日本人の優位性を強調し、他の黄色人種と差別化、③結果として、日本の軍事行動を肯定、という三点において共通性が見いだせると指摘した。一方で、差別で差別を是正しようとする姿勢や、シーボルトの「日本人」的ナショナル・アイデンティティを一般化することの問題性も加味せねばならないとした。

 

 質疑応答では、御雇外国人であったシーボルトの日本意識を「稀有」とすべきか、憧憬と嫌悪というオリエンタリズムの両義性をどのようにシーボルトは捉えたのか、キリスト教国家がなぜ黄禍を主張し、差別を「創造」したのかについて説明が求められた。また、歴史家と研究対象(事象、個人)との距離をどのように設定すべきかとの歴史学全体の課題についても触れられ、氏だけでなく参加者にとっても、有意義な機会となった。


2012/07/23

上智大学史学会・院生会合同7月例会

 2012年7月7日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、本学大学院に所属しております劉珊珊氏による「清末新政期の「毀学」」、並びに、本学教授である豊田浩志氏による「315年打刻Ticinum造幣コンスタンティヌス貨幣をめぐって」でした。

劉氏の報告では、当時の雑誌や新聞の記事を利用して、なぜ毀学が新政期に湧き起ったか、その原因をどう定めたらよいか等について検討された。

 劉氏は、清末の新式学堂が民衆側には必ずしも必要不可欠のものとは認識されず、むしろ彼らの日常生活から大きく遊離したものとして敬遠されていたと指摘した。さらに、学校の設立運営は、善良な官僚によって行われた場合であっても、民衆の生活を窮地に追い込む性格のものであり、多くの場合学務関係者の営利の手段に利用されたことで民衆の強い反発を招き、捐税の加徴や寺廟の打ちこわしといった過激な行動となって噴出し、いわば普遍的な社会風潮のようになっていったと見解を述べた。


質疑応答では活発な意見交換がなされた。東洋史という広い視点からは、近代アジア民衆運動の暴力化という傾向に対して、劉氏の研究がどのような意味を持つのか質問された。教育史の視点からは、当時の中国における教育観について質問があった。また、暴動の原因を全て民衆による新教育制度への不理解に帰着させるのではなく、当時の社会背景を時系列に沿って考慮すべきであるという指摘もされた。劉氏の応答では、日本の明治維新における教育改革との比較を通して、本会で指摘された疑問点について新たな見解を示したいと、今後の展望が述べられた。

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 引き続いて行われた豊田氏の発表は、最初のキリスト教皇帝として知られるローマ皇帝コンスタンティヌス大帝(以下、大帝)について、彼の肖像が刻印された記念銀貨からアプローチを試みたものである。なお、来年はミラノ勅令発布(西暦313年)千七百周年にあたる。
 
 これまで、大帝のキリスト教洗礼を疑問視する先行研究も存在した。しかし氏の研究は、現存する315年打刻の三つの記念銀貨の図像の相違点、大帝以後の諸皇帝が描かれた貨幣や教会図像との相違点を指摘し、大帝のキリスト教皇帝としての実像を探り出そうと試みたものである。これに加え、ローマ帝国における銀本位制、貨幣図像の考察方法に関する説明もあり、他の研究分野の者にとっても関心を抱かせるものであった。

 
 出席者からは、貨幣改鋳による国家財政への影響やローマ貨幣の周辺地域への影響等についての質問がなされた。前者については、銀の含有量の高い貨幣が市中で退蔵される一方、低い貨幣は租税支払のために国家に納められ、それにより国家財政に悪影響を及ぼしたという。後者については交易の決済に使われたローマ貨幣が支払先で現地通貨に鋳直されたこと、ローマ世界が交易上の支払いを通じた金銀の輸出国であったことが補足された。また、出席者により図像上の相違点について、氏の発表とは異なる視点からの指摘もあり、これは氏にとっても新たな視点を見出し、今後の参考となり得たことだろう。

2012/06/03

2012年度5月例会開催

2012年5月26日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智史学会に所属しております吉野恭一郎氏によるヴァイマル期における「周縁的」知識人の思想―ジークフリート・クラカウアーによるミクロロギーの試み―」、本学教授である大澤正昭氏による「南宋の在地有力者・豪民―『清明集』を手がかりに―」でした。
 
 

 吉野氏の報告は、ヴァイマル期において、ヘーゲル的観念論が主流である中、これとは一線を画す「周縁的」知識人であったジークフリート・クラカウアー(Siegfriedkracauer,1889-1966)を研究対象に、彼を「普遍的・絶対的価値基準の喪失」の当事者と措定して、その思想的経緯を思想史の観点から追ったものである。


 クラカウアーは、1921年から1933年まで、ヴァイマル共和国の三大紙の一つである『フランクフルター・ツァイトゥング』の編集者として活躍し、文芸欄において、文化批評や社会分析を多数発表した。吉野氏は、クラカウアーの思想遍歴について、①1920年代前半の「方向性の模索」②1920年代半ばの「論争・他者への批判」、③1920年代後半の「実践」④1920年代末から1933年までの「挫折」、と四期に分け、それぞれの時期にクラカウアーが執筆した著作を史料に、彼の思想の分析を試みた。そして、先行研究で指摘されていた世俗主義、現実主義のクラカウアー像を否定し、「絶対性」、「普遍性」に対する強い希求心をもっており、幾度となくこれらを言葉で描こうとした新たなクラカウアー像を提示した。また、フランクフルト学派特有の批判力の強さをもちつつも、一方で同じ問題意識に立つ同時代の文化的潮流、特に現代芸術に対する関心の薄さがあり、理想形を明らかにするベンヤミン(WalterBenjamin,1892-1940)やアドルノ(Theodor Adorno, 1903-1969)らとの差異を明らかにした。

 最後に氏は、クラカウアーはもっとも「ヴァイマル的混乱」を体現し、「自由」、「民主主義」以上のものを提示できない中道左派的弱点を象徴する人物であり、ジレンマの代弁者であったと結論づけた。

 質疑応答では、クラカウアーの思想を歴史的文脈でいかに語るのか、哲学論文とのすみ分けについて説明が求められた。歴史学的考察を加えるためにも、クラカウアーの社会的位置付けが不可欠であるとの指摘もあった。また、ジャーナリストであるクラカウアーをそもそも、思想家とすることは可能なのかとの質問もあった。そして、クラカウアーの論壇での行き詰まりの原因について補足説明を求められたが、吉野氏は、クラカウアーが自らの弱点を意識するようになったからこそ、言葉を紡ぐことができなくなったのではないかとの分析を提示した。

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 前近代中国は通説上、唐代以前が貴族社会であり、宋代以降地主・佃戸制社会に変化していくとされる。大澤氏の報告では、この転換が生じる上でカギとなるのが両者の中間に位置する階層であると考え、その中でも特に史料上「豪民」と表記される在地有力者の実態について、南宋代の判語(裁判判決)集である『名公書判清明集』を主な材料として検討した。宋代史料上で大土地所有者を示す語には豪民以外にも「官戸」「形勢戸」等があるが、その実態については不明確な点も多く、議論が分かれるところである。『清明集』にあらわれる彼らの活動を見ていくと、豪民は王朝に反抗する勢力ではなく、むしろ地域に根ざして官権力を巧妙に利用し、自らの利益を得ようとする集団であった。行政実務の一端を担い、また共同体が存在しないと言われる社会に於いてその役割の一部を負うことで或る程度民の支持も得ており、官の統治にとって必要悪的な側面があった。この中では豪民同士の勢力争いも少なからず生じており、その為に各豪民の勢力が拮抗し領主化志向が阻害されていた。官権力はこれらを統治に利用していたものであり、従来考えられていたような宋朝による一元的支配は実際には存在しなかったのではないかと結論づけている。
 

 質疑応答では「前近代中国に共同体はない」とする従来説に対する懐疑的意見や「共同体」の定義を問う意見が出された。また判語という官権力の一方的な立場で書かれた史料をベースにすることで、豪民の本来の姿がかえって見えなくなる危険もあるといった指摘がなされた。 なお本報告のベースとなった論文が『東洋学報』に、また関連のものとして『清明集』所載の判語の主な舞台となった福建路の現地調査報告が『上智史学』にそれぞれ後日掲載予定である。

2012/05/16

2012年度前期院生総会・卒業論文発表会

2012年度前期院生総会ならびに卒業論文発表会が4月29日に開催されました。新たに院生会へ加入した4名の新入生による熱のこもった発表が行われましたので、以下、発表者氏名と所属ゼミ、並びに卒論の題目と報告内容を発表の順に紹介いたします。



○堀内豪人(北條ゼミ)

「古代日本人の嗅感覚ーニオイの歴史ー」

 堀内豪人氏は、仏教説話を中心史料とし古代日本人の「嗅感覚」に関して研究を行った卒業論文についての報告を行った。においが嗅ぐ主体である人間の想像力と結びつく過程、その想像力が政治や文化に及ぼした影響を考察している。史料的実証の難しい「人間の感覚」のうち、特に嗅覚は言及する史料の少なさゆえに顧みられてこなかったが、その困難な条件の下で古代の日本人の「嗅感覚」に迫る内容であった。質疑応答では、「ニオイ」と女性を結びつけることとジェンダー認識の関係性について、貴族などの支配階層を読者として想定し書かれた史料のみを利用して、その記述を一般化できるのか、といった質問が出された。これらの指摘は、報告者が今後の課題としている「香」を巡る問題についても、大いに示唆に富むものとなるであろう。

○任海守衛(豊田ゼミ)

「北西ヨーロッパにおけるローマ軍の食糧供給」

任海守衛氏は論文集、Sue Stallibrass and Richard Thomas (eds.), Feeding the Roman Army:
the Archaeology of Production and Supply in NW Europe, Oxford, 2008.の翻訳論文要旨に関する
発表を行った。広大なローマ帝国の領土の征服と維持には軍隊の活躍があり、それには食糧の供給が欠かせなかったと考えられる。その古代ローマ時代の軍隊の北西ヨーロッパにおける食糧供給を、穀物と食肉を中心に研究したものである。この問題は、様々な最新の考古学研究から検証がなされている。欧語論文集の翻訳ということで、質疑応答では、「各論文の原題と論者名も明記すること」「(論文内容の性質上)植物名なども()付けで原語表記を記した方がよいのでは」「論文を読む際は批判対象を意識して読むべき」などのアドバイスがあった。

○櫻井麻美(児島ゼミ)

「―マニエリスム庭園に見られる「狂気」的表現―ボマルツォの「聖なる森」モニュメント解釈」

 
 櫻井麻美氏は、マニエリスムの一要素である「狂気」に注目し、それがどのような意味を持ち、具体化されるのかということに関心を持っている。よって卒業論文では、「狂気」的表現が特徴的にみられる、ボマルツォの「聖なる森Sacro Bosco」と呼ばれるマニエリスム庭園の個々のモニュメント解釈を中心として、庭園全体の意義を考察した。
報告では、先行研究を参考にしながら、造園者ヴィチーノが種々の奇怪なモニュメントの制作のために、当時の文学や古代の神話からアイデアを借用したこと、また庭園自体がヴィチーノの亡き妻のために捧げられたことなどを述べた。その上で、当該庭園はダンテの『神曲』のように、俗世の誘惑や悲しみを越えて「真実の愛」に至るという、自身の神話の世界を表現した可能性があると結論づけた。
質疑応答では、現在の庭園から造園当時の状態を如何にして復元するのかということに加え、「狂気」という言葉の意味を史料に基づき独自に定義づけていく必要性が指摘されるなど、活発な意見交換が行われた。報告者にとって、今後の研究において乗り越えるべき課題が多く見つかった議論であった。

○稲生俊輔(井上ゼミ)

「マックス・ウェーバーと東部農業労働者問題―ポーランド労働者とユンカー階級―」

 稲生俊輔氏はマックス・ウェーバー(Max Weber, 1864-1920)が、最初期(1892~1899年)に研究対象とした、プロイセンを中心とするドイツ東部農村の農業労働者問題について、報告を行った。従来の封建的な東部農村社会の崩壊と、それにより引き起こされるポーランド人労働者の流入、というウェーバーの問題理解について、彼の政治的主張の中心が、ポーランド人労働者への民族主義的な排斥から、ユンカーらが自身の経済的利益のために政治主張を貫こうとすることに対する批判へと移行していく様子が示された。
 質疑応答では、ウェーバーの著作を徹底的に分析しようとする報告者の試みへの評価があった一方、先行研究との差異が曖昧である点が指摘されたほか、ウェーバーの階級的出自とその交友関係、さらにはウェーバーと出自を同じくする同時代人からの反対意見について説明が求められた。また最後に、上層の知識人階級に属していたウェーバーと第二帝政期ドイツにおけるナショナリズムとの関係が、今後の課題として指摘された。














2012/04/15

2012年度史学科新入生歓迎学術講演会開催


414日(土)、史学科・上智大学史学会合同開催、史学科新入生歓迎学術講演会並びに懇親会が行われました。学術講演会講演者は、本年度より本学で教鞭をとられる長井伸仁准教授。講演タイトルは「個人の史料からみる歴史―近代フランスの場合―」。長井先生の研究を紹介されると同時に、これから歴史学を学ぼうとしている新入生に歴史学の方法論も紹介される興味深い内容でした。講演の内容は以下の通りです。

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「私たちが歴史的な存在となった時、何が私たちのことを証明するのか?」という問いかけとともに講演がはじまった。「任意のだれかの歴史をどのように知るのか?」「何を史料にするのか?」「史料をどのように用いて研究するのか?」と立て続けに質問を投げかけながら、新入生は初めて経験する学術講演に惹き込まれていく。実際に長井先生が研究された19世紀末フランスの戸籍簿(民事籍簿)を、史料として読む時間が与えられる。新入生にとって初めての歴史学研究の疑似体験。19世紀末フランスに生きたエチエンヌ・ペリションなる無名の人物の記録は、一読しただけでは何の面白味もない史料だ。しかし長井先生の解説とと
もに、史料から様々な情報を読み取ることができることを学ぶ。19世紀フランスの婚姻の習慣、署名から分析される識字率、人々の移動、社会的上昇などなど。貧しい石工であったエチエンヌ・ペリシャンが、1899年には莫大な資産を残してパリで死んだことを「相続申告記録」から読みとった時、会場の新入生に知的な興奮が広がった。

 講演はさらに、政治家や軍人、もしくは抽象的な社会集団(貴族、農民など)の研究ではない、このような「名もなき人々」の一人一人に光を当てる研究の研究史解説へとつながる。世界大戦後に、人口問題を研究する必要があったフランスにおいて偶然に「家族史」の研究が誕生した。そこから「家族」の問い直しが行われ、乳児死亡率や結婚年齢、出産と産児制限の関係、家族の形態の実情など新たな事実がわかってきたことが紹介される。さらにそうした研究から、ステレオタイプに研究されてきた社会集団の歴史に対する問い直しも必要となることが説明される。講演の最後は、このような「個人の史料からみる歴史」を「大きな歴史(政治史など)」にどのようにつなげていくかが今後の課題であると結ばれた。

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 新入生にとって、歴史学を概観するとともに、歴史学そのものを体験することができる講演であったので、非常にたくさんの刺激を受けたことでしょう。これから始まる学業の生活に大いに活かされることを願います。

 講演会の後、恒例の懇親会が学生食堂にて行われました。

2012/01/19

2011年度11月上智大学史学会第61回大会開催

20111113日(日)上智大学7号館文学部共用室において、上智大学史学会第61回大会が行われました。大会は以下の要領で開催されました。シンポジウムの内容については『上智史学』にて報告が行われます。このブログでは、各部会研究発表の模様を報告いたします。

午前 部会研究発表

第一部会(日本史)

・岩井優多氏(上智大学大学院)「「皇極紀常世信仰鎮圧記事」についての再検討」

・林直樹氏(上智大学大学院)「南北朝期における即位儀礼の変遷」

・アレンカール・アンジェリカ氏(上智大学大学院)‘Crossing Oceans and Saving Souls: A Comparative Studyon the Activities of the Jesuits in Japan and Brazil During the Second Half of the XVI Century (1549 to 1603) ‘

・野田晃生氏(筑波大学大学院)「太平洋戦争における傷痍軍人―視覚障害者を中心に―」

第二部会

浅野真知氏(国文学研究資料館)「中華民国初期の文書制度  -官庁の文件保存規則を中心として-

・兼田信一郎氏(獨協中学・高等学校)「白堅と岡部長景」

・平賀匡氏(上智大学大学院)「1935華北危機と汪兆銘」

玄瑛「「間島協約」前後の朝鮮人社会 -延辺地域を中心に-

第三部会

・酒巻諭史氏(上智大学史学会員)「元首政初期首都ローマにおけるDIVUSついての一考察」

・八國生紗也乃氏(同大学院博士前期課程)「サリンベネ・デ・アダムの『年代記』における皇帝フェデリーコ2世像」

・松尾里子氏(同大学院博士後期課程)「近世フランスにおける女子教育の波及-サン・シール学院から聖心会、聖母被昇天修道会へ-」

・堅田智子氏(同大学院博士前期課程)「外交官アレクサンダー・フォン・シーボルト-明治期の『外国新聞操縦』事例として-」

・吉野恭一郎氏(同史学会会員)「『トマス・ミュンツァー』を巡るE.ブロッホとS.クラカウアーの論争」

午後 シンポジウム

歴史教育の未来をひらく‐高大連携と歴史学‐

〈基調講演〉

服藤早苗氏(埼玉学園大学教授)

〈パネラー報告〉

戸川点氏(都立六本木高等学校)

藤本公俊氏(横須賀学院中学・高等学校)

安孫子郁子氏(実践女子学園中学校・高等学校)

〈司会〉

北條勝貴氏(上智大学准教授)

○日本史部会からの報告

・岩井優多氏 (上智大学大学院)

「「皇極紀常世信仰鎮圧記事」についての再検討」

岩井氏の報告では、常世信仰鎮圧の要点として、秦氏の治水事業とそれに伴う水神信仰の鎮圧の関連性が示され、古代中国の史書、説話集の記事に比較を踏まえた考証がなされた。また、日本書紀にみられる「虫」による災異予兆提示という記述形式についても検討が加えられた。今後、古代中国における災異記述との比較の進行が可能であることについても報告者、フロア双方より示された。

・林直樹氏 (上智大学大学院)

「南北朝期における即位儀礼の変遷」

林氏の報告では、北朝の即位儀礼に関して神器が南朝方にあり、北朝方に無い時期に行われた光明天皇即位儀礼の進行と、正当性確保がどのようになされたかについて論じられた。平安期に遡って即位儀礼の諸法について比較検討し、南北朝期の儀式の特異性が示され、会場からは北朝の即位儀式の進行過程に、足利将軍家側の政治権力や体面への作用との関連が含まれることについても言及がなされた。

・アレンカール・アンジェリカ氏 (上智大学大学院)

‘Crossing Oceans and Saving Souls: A Comparative Studyon the Activities of the Jesuits in Japan and Brazil During the Second Half of the XVI Century (1549 to 1603) ‘

アレンカール氏の報告では、イエズス会宣教師が、ヨーロッパより海を渡ってアフリカ、アメリカ、アジアにて布教活動を行うにあたっての、現地に対し彼らが抱いた印象や、直面した問題点、彼らの信仰上での最終目標であった魂の救済に達するための方法に

ついて論じられた。宣教師たちは現地の文化レベルをみて、そこに信仰を広めるだけの土壌があるかを判断して布教の方針を変えて

おり、現地の習慣に自身を適応させる「順応」の程度、過程もブラジル、日本という二国間で異なっていたという。又、報告者及びフロアからは従来、日本での「順応」に消極的な態度をとっていたことで、過少評価を受けていた宣教師カブラルの思想の再考の余地が示された。

・野田晃生氏 (筑波大学大学院)

「太平洋戦争における傷痍軍人―視覚障害者を中心に―」

野田氏の報告では、戦時下の日本にて戦場での傷がもとで障害を負った傷痍軍人の、被傷後の生活や、彼らの社会的立場について彼ら自身の口述記録をもとに論じられた

。報告から傷痍軍人の講演、陳述が、戦時下にあって戦意高揚に利用された面や、彼らの雇用の受け皿となる工場、機関が存在したことが明らかとなった。傷痍軍人自身からの聞き取りというオーラル・ヒストリー形成と、当時の政治情勢の中での彼らの役割を並行して考えることを両立させ、特定の個人と集団の発見・認知が示された報告であった。

○東洋史部会からの報告


・浅野真知(国文学研究資料館)

「中華民国初期の文書制度  -官庁の文件保存規則を中心として-

日本では今年「公文書管理規則」が設けられたが、20世紀初頭に発足した中華民国政府においても、官庁の文書に関しては保存・破棄について様々な規則が設けられていた。本年は辛亥革命より丁度百年という節目の年でもあり、中華民国における文書管理制度と日本の現行制度との比較検討を行う良い契機であるとして、現存する中華民国政府司法部・外交部・教育部それぞれの文件保存規則の内容を解説いただいた。

中国には前近代から既に各種文書の保存や破棄に関する規則があり、こういった規定を設けること自体は必ずしも近代以降の発想ではない。故に百年前のものである民国政府の規則も、文書種類別の保管期限の設定や破棄の際の手続きなど、一般公開に関するもの等を除き日本の現行制度にある要点をほぼ網羅していると言える。ただし、中国で前近代に官公庁文書を厳密に管理していたのは後の歴史書編纂に資するためであり、

民国政府の制度もその精神を引き継いだ側面があるという点で日本の現行制度とは異なっていると考えられるということである。

フロアからは、文書管理制度や公文呈式と政治状況の変化の関連性をより明確に描き出すことで更に有意義な研究になるのではないかといった見解が多く聞かれた。

・兼田信一郎(獨協中学・高等学校)

「白堅と岡部長景」

 報告者が偶然に入手した「石鼓文」(中国最古の金石史料)全面拓に白堅から岡部長景に宛てた書翰が添付されていたことを契機に、両者の関係、およびこの「石鼓文」拓本をやりとりすることとなった背景を考察した報告である。

 白堅については近年高田時雄氏の詳細な研究が出ているが、それによると中国文物を日本に売り込むブローカーであったと考えられる。また民国臨時政府内政部秘書や反共団体の幹部を務めたこともあり、交友関係は多岐に渡ったとみられる。他方岡部長景は華族出身の外交官僚であり、長期にわたり日本の対中国文化事業に従事した人物である。この両者の橋渡し役となったのは、日満文化協会の創設に尽力した水野梅暁という人物ではないかと報告者は考察している。

「石鼓文」拓本と書翰は19403月付で送られているが、当時岡部・水野は華北での文化政策に関心を持ち、白堅は臨時政府に所属していた。当時「石鼓文」の原本は日本軍の侵攻を受けて一時行方不明になっており、白堅はその拓本を岡部に贈呈することで、華北諸文物の保護が喫緊の課題であること、その為に一層の交流を図りたい意志を示そうとしたのではないかと結論づけている。

主題となった書翰には「石鼓文」原本の一時消失について恐らく初出と考えられる記述があり、フロアよりは「石鼓文」原本が所在不明になった経緯や白堅の立場について更に詳細な掘り下げを望む意見が相継いだ。

・平賀匡(上智大学大学院)「1935華北危機と汪兆銘」

 1933年の塘沽停戦協定後、日華関係はいったん、親善への動きを見せたが、日本が華北進出への動きを徐々に加速させたため19356月には華北危機に突入することになる。この華北危機直前・直後において、国民政府のトップとナンバー2であった蒋介石・汪兆銘の両者の関係について、台湾所蔵の史料などを中心に検討した報告である。

 塘沽停戦協定後日中両国は関係改善の交渉を続けたが、両者は満州国の取り扱いについて双方譲歩することができず、形勢は徐々に中国側不利となっていた。こういった状況下でも汪兆銘は平和的解決を目指したが、国民政府内では方針を改めるべきという意見も出始めた。その中にあって19356月に河北事件が発生し、これを契機として蒋介石はそれまでの対日宥和方針を抗日へと転換するに至った。此処において汪兆銘と蒋介石との間の溝は埋めがたいものとなり、同年11月の汪兆銘狙撃事件へと発展した。

 しかし外交文書を詳細に検討すると、河北事件以前から日華交渉の過程にはかなり激しい応酬がみられる。恐らくこれは蒋介石が中心となって策定したものであり、汪兆銘の立場は河北事件以前から既に微妙なものとなっていたのではないかというのが報告者の見解である。

 本報告は台湾留学の成果報告を兼ねるものであるが、フロアからは新出の史料の提示など現地に赴いたからこそ可能となるような研究を求める声もあった。

・玄瑛(上智大学大学院)

「「間島協約」前後の朝鮮人社会 -延辺地域を中心に-

 現在の中国・延辺朝鮮族自治州がかつて「間島」と呼ばれていた時期のうち、1909年間島協約成立期の当地の状況について分析・考察する修士論文の予備報告である。

 間島地域は清代から越界朝鮮人開墾民が不法に入植している場所であったが、19世紀末に清が領域権を主張して開墾に着手し、朝鮮人の招撫と同化政策を進めていった。1905年第二次日韓協約で日本が朝鮮の外交権を奪取すると、朝鮮人保護の名目で日本の臨時派出所が間島に設置されることになる。日本は当地の朝鮮人に対しインフラ整備など懐柔策をもってあたり、その影響力を強めようとした。しかし日本の間島領有は清の抵抗や列国の批難から困難な状況であり、やがて間島領有を放棄して満州への権益獲得を図る方針に転換する。この中で締結されたのが間島協約である。しかしその細目に関しては、商埠地の警察権などで日中間の意見がまとまらず合意が成立しない部分もあった。

 のち日本の韓国併合により移住朝鮮人の立場も変化し、日本が間島朝鮮人に対し統治権を行使する可能性も出てきたため、中国側も支配維持のため懐柔策をとるようになる。当地の朝鮮人は一定の経済力を確保しつつあったものの、土地所有などでは中国側に従属しており、こういった状況は日本にとり間島進出のみならず朝鮮支配をも危うくする要素であったといえる、としている。

 報告者は当地の移住朝鮮族3世でもあり、フロアからは日中両国の政策だけでなく実際の人々の生活実態にフォーカスするなど、間島における朝鮮人の主体性をもっと見たいという意見などが出された。

○西洋史部会からの報告

 西洋史部門では順に、酒巻諭史氏(上智大学史学会員)の「元首政初期首都ローマにおけるDIVUSについての一考察」、八國生紗也乃氏(同大学院博士前期課程)の「サリンベネ・デ・アダムの『年代記』における皇帝フェデリーコ2世像」、松尾里子氏(同大学院博士後期課程)の「近世フランスにおける女子教育の波及-サン・シール学院から聖心会、聖母被昇天修道会へ-」、堅田智子氏(同大学院博士前期課程)の「外交官アレクサンダー・フォン・シーボルト-明治期の『外国新聞操縦』事例として-」、

吉野恭一郎氏(同史学会会員)の「『トマス・ミュンツァー』を巡るE.ブロッホとS.クラカウアーの論争」の五つの発表が行われた。

 史学科教員及び院生のほか、学部生や他大学からの出席もあり、各発表後には時間的制約もある中で活発な質疑応答がなされた。今回発表された諸研究は、我が国ではあまり先行研究がなされてこなかったものが多かったが、他大学で一部類似する研究をしている出席者からの質問もあり、発表者自身も、別の視点から自身の研究を見つめる機会を得たようで、実り多い発表会となった。