2014/12/13

大学院入試説明会

12月16日(火)に、上智大学7号館にて、上智大学院文学研究科史学専攻の入試説明会が開催されます。詳細は以下のポスターを参照してください。

2014年度10月例会



20141025日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院に所属しております任海守衛氏による「ローマ軍における食糧供給‐アルチェスターを事例に‐」、同じく稲生俊輔氏による19/20世紀転換期における全ドイツ連盟の海外組織についてでした。





任海氏の発表では、ローマ帝国が広大な領域を得た一因を、強力な軍隊とそれを支える整備された兵站であるとする前提のもと、まず史資料から、食事内容、供給、運搬方法といったローマ軍の食糧供給の概要が述べられ、次にそのケース・スタディとしてアルチェスターのローマ軍遺跡が取り上げられ、R.Thomas氏の研究を参考に、獣骨の残存状態から同遺跡での食肉の利用が説明された。
 文書史料と考古学資料の両者によれば、ローマ軍では、小麦をはじめとして、肉や魚介、野菜など様々なものが食されてあり、それらは現地での略奪、収集、強制購入、徴発、税金あるいは後背地からの輸送によって獲得されていた。獲得された食糧は分隊、軍団あるいは軍全体の輸送隊に加え、古代ローマ軍の特徴として兵士個人によっても運ばれていた。後方からの供給線は、共和政期には戦争時、帝政期には敵地領内に侵入するときに築かれた。
 食糧の補給基地でもあったと考えられるアルチェスターの遺跡は、軍隊が駐屯した期間が短かったために、比較的短期間の軍の影響が観察しやすく、また湿地帯であるために、食糧関係の遺物が残りやすい環境にある遺跡である。ここから出土した獣骨を用いて、家畜の種の残存率、骨の残存率、死亡時期、体のサイズの分析を行ったR.Thomas氏の研究から、任海氏は、同遺跡では、現地で獲得された家畜を生きたまま運び込み、その場で屠殺していただろうこと、また、家畜の種によって残存率や死亡年齢に違いが表れるのは、食肉以外の用途によるものだろうということを確認した。そして、アルチェスターの遺跡からは地中海地域でしか生産されない食品も出土していることを踏まえ、ローマ軍の食糧調達は基本的には現地で行われていたが、小麦の場合は供給線によって獲得する場合もあった、また、五賢帝以降のローマ軍の防御主体の傾向は、小麦だけでなく食肉の利用も一般化させ、そのために配給に関する史料に食肉の記述が現れるのが帝政後期なのではないか、と結論した。
 質疑応答では、ローマ以外の古代地中海国家と比較してのローマの食糧獲得方法の特徴を問うものや、現地での食糧の購入はローマ貨幣で行っていたのかという質問がなされ、特に後者については、貨幣の浸透していない地域での交易という問題に関して、古代中国の例なども交えた議論がなされた。



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つづいて、稲生氏が「19/20世紀転換期における全ドイツ連盟の海外組織について」の発表を行った。全ドイツ連盟(Alldeutscher  Verband、以下連盟と略記)とは、ヴィルヘルム期に成立したドイツの代表的な右派圧力団体である。従来は、連盟の国内活動が重点的に研究されていたが、海外のドイツ人の問題も連盟創設当初から意識された重要な問題であった。稲生氏は、なぜ連盟の海外組織がつくられねばならなかったか、連盟の機関紙「全ドイツ新聞(Alldeutsche Blätter)」を用いて調査した。
 その分析をもとに、3地域の海外組織を発表で取り上げた。まずサモア諸島では、1889年に独・英・米による島の領有権をめぐる争いが最高潮に達した。結果、3カ国の共同統治となったが、商人を中心とする同地の連盟組織は植民地獲得競争のさなかで他国の海軍力を懸念し、ドイツ政府・外務省の対応を弱腰と批判した。中東地域では、入植したドイツ人とそれを不当とするオスマントルコ政府間に軋轢が生じていた。それゆえ、シリア・パレスチナの組織は、ドイツ政府に保護を求めてたびたび機関紙に投稿した。また、南ブラジルの組織では、ブラジル政府がドイツ人意識を奪いつつあるという認識の下、正しい「ドイツ性」を涵養すべく、ドイツ人教師や私立学校の必要性を本国に要請した。このような海外支部の要求は、連盟議長らによって帝国議会で主張された。
 以上から、連盟は、海外組織の会員にとって本国の支援を要求する政治的チャンネルとして、また国内組織にとって各地に点在するドイツ人の世界的統合の象徴として、双方の思惑を満たす手段であったと、稲生氏は結論付けた。
 発表後には、ドイツ政府から連盟への統制や利用はなかったのかという質問や、海外支部独自の特徴に欠ける、本国と海外支部の関係に対立的な面もあったのではという疑問が挙がった。これらの指摘は、修論提出に向けて大いに生かされるのではないだろうか。




2014/07/02

2014年度6月例会

 2014621日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院に所属しております堅田智子氏による「アレクサンダー・フォン・シーボルトの日本皇室観」、本学非常勤講師である大川裕子氏による「中国古代の地域と開発(水利と地域開発)――銭塘江流域を例に――」でした。




堅田氏は、「アレクサンダー・フォン・シーボルトの日本皇室観」と題し、報告を行った。アレクサンダー・フォン・シーボルトは、いわゆる御雇外国人であり、明治政府外交官として活動した。氏は、シーボルトが1895年にドイツ語圏読者向けの雑誌上に発表した論文「日本の皇室の過去と現在」( “Der kaiserliche Hof von Japan einst und jetzt.” )の分析から、シーボルトがどのような日本皇室観を持っていたのか、それをどのように表しヨーロッパに発信したのかを明らかにしようと試みた。
シーボルトのこの論文は、いち早く日本の皇室をヨーロッパに紹介した点で史料的価値が高く、その内容は、歴史や国民との関係など天皇・皇室について幅広くかつ詳細に書かれたものであった。例えば、皇室の起源を古事記、日本書紀を史料に説明し、日本国民にとり天皇は人間的特性が与えられた「神」と説明し、キリスト教的神との差別化を図った。また、シーボルトは、大政奉還以降の天皇をKaiserとドイツ帝国皇帝を想起させる語で表し、皇室改革の成果や、質素倹約で勤勉、また国内政策に尽力する天皇と皇后像からドイツの影響を多分に強調した。
以上の分析を通じ、氏はこの論文から「実証主義的姿勢を貫いた、広報官としてのシーボルト」像、ドイツ人であり明治政府外交官でもある「外部、内部の二面性を有すシーボルト」像を見出し、論文執筆には、他の著作や外交姿勢と同様に、「ヨーロッパ世論を親日的に『操縦』する必要性」があったと結論した。
本報告は、日本史と西洋史、古代史と近代史と多岐にわたる内容であったため、国家神道的天皇以外の捉え方との関連性についての指摘や、神聖ローマ帝国皇帝はむしろ「神の代理人」とみなされていた事実との整合性をどのようにシーボルトは解釈したかなど、様々な研究分野からの質疑が多くなされた。


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大川氏の報告では古代中国の江南地方の水利と開発について述べられた。氏は地図を用いながら、文献史料には表れづらい銭塘江周辺の地理的条件を説明し、その時代ごとの海岸線や水利技術などを吟味した上で、後漢から北宋まで銭塘江周辺に存在した巨大な湖である鑑湖に焦点を置いて論を展開した。
これまで想定されてきた鑑湖の姿というのは主に宋代の史料によって復元されたものであるが、大川氏は後漢時代の鑑湖の姿は北宋の記述からは復元できないと主張し、後漢時代の鑑湖を再検証する必要性を説いた。そこで巨大湖が形成されるまでの水利発展段階を示して検証を進め、漢代ではその最初の段階にあたる連続海塘が作られた事例がほとんど見られないことを指摘した。また、技術的にも開発限界に達していたことなども挙げて、後漢時代の巨大鑑湖建設というのは後世の仮託であると結論づけて、新たに後漢時代の紹興平野図復元案を提示した。
このような鑑湖の例を踏まえて、古代中国での水利事業の実態はより慎重に見極める必要があるとした。加えて、江南地域の中でも先進的な水利技術による農業と、いわゆる「火耕水耨」と呼ばれるような未発達な農業が混在していたことなどを挙げ、自然条件等を含めた、より詳細な地域格差の分析も重要になってくるという今後の研究の指針を定めた。
質疑応答では水利事業を考えるうえで、技術・開発という側面だけでなく地域内での利害や政治的意図などからも考えていく必要があるのではないかという指摘があり、本研究の多方向性が示された。また、海水の逆流現象に関して『続高僧伝』等にも僧侶の話と絡めて伝承が存在するという指摘があり、信仰との関係についても深い議論がなされた。

2014/06/04

2014年度5月例会

 2014517日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院に所属しております劉珊珊氏による「清末新政時期における新式学校の教育負担」、本学准教授である北條勝貴氏による「環東シナ海の動物表象をめぐるラフ・スケッチ―2013年度の調査・研究から」でした。

                                                       
劉氏の報告では、清末に進められた新式学校の設立という政策が、民衆にとってどのような負担を生じさせたのかという点について論じた。新政による課税が毀学運動を引き起こしたとする先行研究を紹介し、教育政策が民衆の負担となっていることを確認した。その一方で、学堂経費や財政負担の具体的な部分に関しては未だ詳細な研究が為されていないことを指摘した。
劉氏は研究の切り口として、学校経費が2つに分類できることを提示した。1つは民衆から教育税として徴収されて行政的に処理されるもの、もう1つは地域住民や児童に課された学費等である。これらの負担を詳細に見ていくために、広東省の教育税の内訳を示し、そのうえで広東の各地域における人口・就学人口・就学率・学堂経費・教育税をデータとしてまとめ、比較検討した。その結果、学堂経費のうち教育税負担割合が多い地区は義務教育が発展しづらい傾向にあったとした。また、就学率も非常に低かったことから、ごく一部の子弟のためにすべての民衆から徴税していることが民衆の反感を招く原因の一つとなったのではないかと結論づけた。
 質疑応答では、教育税による負担だけが民衆にとっての負担ではないという指摘がなされ、非正規な形で徴収された部分による負担も合わせて見ていくことで、より当時の民衆負担の実態に近づけるのではないかという展望が示された。また、当時の民衆の学校教育に対する認識が現代や当時の日本と比べてどのようなものであったのかという議論も起こり、民衆と教育政策を見ていく上での新たな見解が示されたと言える。
  
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 北條氏の報告は、氏が昨年8月~9月に中国雲南省麗江市~大理市にて行った少数民族調査の概要を踏まえ、『以烏鴉叫声占卜』(いうあきょうせいせんぼく)という納西(なし)族の東巴(とんぱ:シャーマン的存在)経典の読み解きを軸に行われた。
 この『以烏鴉叫声占卜』は、東巴文字といわれる絵文字で記録されている、鳥(カラス)の鳴き声が発せられた時間・様態・方向・場所などによって憂事・吉凶を占う卜書である。報告では、まず北條氏入手写本と『納西東巴古籍訳注全集』所収の『以烏鴉叫声占卜』とを比較しつつその概要を、氏による日本語試訳の提示を交えつつ紹介された。そして、この経典の由来として、チベットで鴉鳴(あめい)占卜の枠組みが出来、その影響から漢文の鴉鳴占卜書が生まれ、東巴経典の鴉鳴占卜書はチベットから直接か漢文を介するかして成り立っている、との見解が敦煌文書として現存する鴉鳴占卜書との内容比較等を通して示された。また、日本列島における鳥鳴きの習俗の存在を挙げ、漢籍陰陽書雑書民俗化という流れが推定される日本に残る烏鳴きの習俗との比較による、神話・伝承における動物表象の検討という方向性が提起された。
 質疑応答では、「カラス」という鳥に対する認識の地域差への考慮といった具体的な質問や、「動物表象」や「動物(自然)と人間」といった理論的枠組みに当てはめることに対して自覚的であるかといった意見が挙がり、報告者からはそれぞれに対応する事例を示しつつ回答がなされた。





2014/05/12

2014年度前期院生総会・卒業論文発表会


2014年度前期院生総会ならびに卒業論文発表会が420日に開催されました。新たに院生会へ加入した6名の新入生による熱のこもった発表が行われましたので、以下、発表者氏名と所属ゼミ、並びに卒論の題目と報告内容を紹介いたします。



○桒原真由美(児嶋ゼミ)

「モデナ大聖堂外壁の図像プログラム」

   本報告は、十二世紀前半に建設されたモデナ大聖堂ファサード中央ポータルの図像プログラムにおいて、古代起源のイメージが果たしていた役割について考察したものである。報告では、古代起源のイメージが旧約聖書や新約聖書の文脈の中で再構成されたものであることを説明し、彫像や絵画の影響力を増幅するために行われてきた中世の慣行や、自治都市の形成期といった社会的な背景との関連性から、古代起源のイメージの役割について論じた。反省点として、古代起源の図像のソースや制作当時における解釈について掘り下げることができなかったことを挙げ、今後は十二世紀の北イタリアにおける古代芸術の受容について研究していきたいと述べた。
 質疑応答では、聖堂全体の図像プログラムについても論じた方が良いといった指摘があった。また、地図や図表を用いて地理的な位置づけや聖堂全体の構成を示す必要があること、先行研究と自身の見解を整理して記述すべきであること、報告の構成が分かりやすいよう章立てや体裁の工夫が必要であること、参考文献の記載方法に誤りがあることについて指導があった。


○厳琳(大澤ゼミ)

「『太平廣記』と『夷堅志』に見られる神仙、神、鬼」 


 厳琳氏の卒業論文のテーマは「『太平廣記』と『夷堅志』に見られる神仙、神、鬼」である。『太平廣記』と『夷堅志』 に見られる神仙、神、鬼それぞれに注目し、その相違点を比べつつ、時代ごとの三者のあり方の変化を分析した。結果として、まず神仙の類型には大きな変化がなかったが、神仙に対する認識が変化した。次に神について、最も変化があったのは冥界の神と民間の神であった。しかし、鬼の変化は少なかった。時代の変遷に従って、仏教と道教が発展と融合を続けたことや、社会経済が発展し、社会道徳基準が変化していったこと、またそもそもの話の出所の違いが、この変化が起こった原因と言える。
 質疑応答での意見を受け、反省すべき点は以下の三つある。今回の検討で述べた細かい数値は概算したため、誤差が存在している。また、『太平廣記』と『夷堅志』における神仙、神、鬼の話を検討したが、まだ触れていない細かな部分があるため、疑問を多く残している。そして、『太平廣記』と『夷堅志』に限らず、唐代以前の神仙、神、鬼にも注目し、唐代までの連続性も検討すべきである。今後の方向として、宋代までの死後世界の神に絞り、そのあり方を検討していきたい。


○宮原愛佳(井上ゼミ)

「プロイセン三月前期における大衆貧困状況(パウペリスムス)」

 宮原氏は、三月革命前期にプロイセンで発生した「大衆貧困状況(パウペリスムス)」についての発表を行った。「パウペリスムス」とは、十九世紀前半に発生した、それ以前とは異なると考えられた貧困のことである。しかし、これは十八世紀以前の貧困との連続性が強く見出される現象であった。
 当時、人々は「パウペリスムス」や「プロレタリア」を深刻な問題と見なした。発表では、まず統計や著作などから当時の貧困状況を紹介し、それを引き起こした下層人口は「パウペリスムス」発生以前にどのように存在していたか、マルサスの人口論を用いながら、都市手工業・農村・農村家内工業別に考察した。その結果、人口数が保たれるように社会制度が働いていた一方で、興隆した農村家内工業が人口増加を促し、十八世紀末には既に「パウペリスムス」の前提を形成していたと説明した。そして、十九世紀前半のプロイセン改革による様々な自由化を通じて、各地域・職業分野における社会構造が変化し、下層民の増加に拍車をかけたと結論づけた。
 質疑応答では、より詳細な説明を求めて下層民の定義に関して質問があがった。その他には、修士論文のテーマにと考えている同時代人の企業家に対して、方法・史料に関する質問が集中した。また、その人物を扱う意義を考えるべきである、との意見が出された。このような意見は、これから研究を始める新入生にとって主題を見つめ直す機会となったことだろう。



○ジョ・チョウ(山内ゼミ)

「新選組の人気について」

 ジョ氏は、江戸時代末期、旧幕府軍の一員として幕府のために最後まで戦った新選組という組織に対し、長い間、新政府軍に敗れた新選組は、賊軍や幕府の犬などの悪役とされて、彼らに関しての作品も非常に少なかったことを指摘したうえで、近年、新選組の人気が上がり、彼らを主題としての作品も次々と出てきており、なぜ現代の人々は新選組に共感して、新選組ブームを起こしたのかということを分析した。発表では、新選組の隊士たち自身の魅力と、司馬遼太郎の新選組についての作品の影響、この二つの面から人気の原因を考察した。まず、新選組の主な隊士を紹介し、彼らの多くは若い年で亡くなっており、人気の原因は政治信条ではなく、ひたむきな姿であるという説を紹介した。つづいて、司馬遼太郎の新選組に関する作品と、新選組の人気との関係を考察し、司馬が事実に基づき新選組の人物を美化し、小説の中で構築した新選組像が、多くの人々を魅了したとした。司馬遼太郎の作品をきかっけに、人々が新選組に興味をもつようになり、新選組の隊士のことをもう一度読み上げることで、彼らが日本を変えようとする信念をもち、最後まで幕府のために戦った姿に共感したことが、人々を魅了した原因ではないかと分析した。
 質疑応答では、発表者の用いた史料や、「司馬史観」といわれる司馬遼太郎の歴史観についても議論され、今後の研究において、留学生である発表者が「日本にいること」を最大限生かしていくことが望まれた。


○中村航太郎(北條ゼミ)

「陰陽道という選択へ――卜筮を信ずべき朝議を中心に――」

 中村氏は『続日本後紀』嵯峨上皇遺詔記事を中心史料とし、承和九年(八四二)七月丁未条の遺詔における「無信卜筮、無拘俗事」表記、及び承和一一年(八四四)八月乙酉条にて、藤原良房ら臣下により「卜筮所告、不可不信」とし嵯峨遺詔が反故にされた意味に注目し、当時のうらないの置かれた状況・印象を手掛かりに、「筮」と表記される陰陽寮占を探ることで、陰陽道の成立要因を考察した。
 質疑応答では、大陸伝来の諸要素を基盤に成立した陰陽道や史書に引用される漢籍を扱っているのであれば、中国でそれらがどのように考えられていたのかというアプローチも必要ではないかとの指摘や、「陰陽道の成立」や「うらない」などの定義付けの説明などが求められた。
 今後の課題・展望では、嵯峨遺詔の解釈の多くを先行研究に頼っているが、そもそもその認識が適切なのかという点があり、それらを批判的に検討するとともに、視野を拡げて「国風化」という、対象時期の政治状況を考慮に入れることで、選択される側である陰陽道自体だけでなく、選択する側の政治的社会的背景を含めた、陰陽道の成立要因を考察していきたいとのことであった。


○酒井駿多(大澤ゼミ)

「両漢交代期における地方豪族の影響力」

 酒井駿多氏の卒業論文では、漢代豪族論に関する先行研究を整理した結果、豪族研究の発展にはより細かい時代区分と地域比較が必要だと考察したため、今回のようなテーマを設定した。具体的には、赤眉の乱から約二十年の間に各地で成立した諸勢力と地方豪族の関係を見ていくことで、地域ごとにどのような差が表れるかということを分析する手法をとる。その結果、以下の二点の結論に至った。第一に、農民叛乱や災害の被害が大きい地域の豪族ほど、大きな軍事力を持った勢力を積極的に求める傾向にあるということ。第二に、河北淮北などの東部の豪族に比べ、隴西や蜀などの西部の豪族たちのほうが、支配集団に対する影響力が大きいということである。地域ごとに影響力に差が出た要因としては農民叛乱の被害や異民族との関係などを挙げた。
 質疑応答では豪族という存在をどのように定義づけるかという点について質問が出た。今回の論文では広く大土地経営を行っている存在や、広い範囲で族的結合が確認できる存在などを豪族として定義した。しかし、いわゆる大商人などの経済的に大きな影響を与え得る存在についても、在地性と絡めてもう少し深めてみることは地域社会を知るうえで重要なことであると言える。その点は正史以外の史料を積極的に利用することで新たな視点を開きたい。