師岡文男氏は1976年に上智大学史学科を卒業され、今回は同氏が在学、教員として戻ってこられた1970年代の上智大学の姿を振り返り、大学院以降研究テーマとされ多くの活動を通じ携わってこられている体育学と、その研究の骨子として活きる歴史学の素養について語った。少年時代の体験からユースホステルという若者を中心とした人々の交流の場への強い関心を抱いてきた師岡氏は、上智大学に在籍した4年間に史学科内、さらには大学全体にも及ぶ学生・教員間の交流の輪を広げる新たな活動に意欲的に取り組まれてきた。史学科内では思想の有無・上下関係にとらわれず多くの学生との交流を通じ、「歴史学という基本を学び、その研究対象を探す」という生き方を知ったと語った。さらに当時学生運動が未だ尾を引く社会背景の中、大学祭を学生・教員全体が楽しめる場として企画・運営することに着手し、その中にはミス・ミスターコンテスト等現在も継承されている催しがあったことについても話された。
また師岡氏は体育学の側面から、「スポーツ」がその語源から「娯楽」の意味合いを含み、その存在・歴史が身体運動に留まらず社会・時代背景と作用し変質しえるものであるとした。そしてスポーツを通じて得た協力・尽力・挫折などの経験は、情報氾濫に伴う「成功体験の保証の時代」である現代において人間らしさを支えるものとなりえ、この点でも上智大学のfor others with othersの精神と結びつくものがあると語った。こうした眼差しから、教員として母校に在籍される中で、フライングディスクを導入し学生がスポーツを楽しめる環境作りに着手され、後に学内に留まらず世界選手権のアジア初招致を実現させたことについても語られた。そしてスポーツに対し、二度の東京五輪で起こる日本の変化に着目する視点等、研究対象と向き合う上で、歴史学的な原理・過程を見据え史料に向き合うといった手段やセンスが大いに活かされていると語った。
質疑応答では氏の在籍時の史学内での学生運動の余波について、さらに教員として携わった大きな出来事であった上智大学派遣のインドシナ難民保護施設へのボランティア参加の体験についても語られた。
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在学中の印象的な体験として、アンセルモ・マタイス先生の企画したインド・ヨーロッパ移動合宿が挙げられた。その合宿での移動中にイラン・イスラム革命が勃発し、予定していたテヘランではなくエジプトに着陸することになってしまったが、そのような状況において、エジプト滞在の助けとなったのが、イエズス会のネットワークであった。また、この移動合宿の参加者は、半年以上かけて事前の勉強会を行い、ともに過ごすことで人間関係を築いていったこと、そしてスペインでは、マタイス先生のご兄弟のご家庭に分宿して家族ぐるみで交流を深めたことなどが語られた。
次に、当時の女子学生の就職状況について述べた。当時は均等法施行以前のため、特に四年制大学の女子には厳しい状況であり、また就職したとしても結婚後に退職する人が大多数の時代であったが、公務員や外資系企業などに就職した同級生達は現在も活躍していることが語られた。また、留学や海外駐在など何らかの形で海外に出る人も多く、井野氏も家族の仕事の都合で海外に出ることになったと述べた。
サウジアラビアでの生活については、外国人がまとまって居住するコンパウンドでの生活について述べた。2001年の同時多発テロを機に、コンパウンドがテロの標的になるようになり、非常時への備えは常に意識していたという。また、コンパウンドでは様々な国から多様な背景を持った人々が暮らしており、そのような環境に順応し、多様性を受け入れることができたのは、上智大学在学中に得た経験のお陰であると語った。
最後に、上智大学の恩師や卒業生のネットワークについて、海外駐在時や帰国後など、あらゆる場面で互いに助け合うことができたため、このことは非常に強みであると語った。
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