2016/06/22

2016年度5月例会

2016年5月14日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院博士後期課程生である堅田智子氏による「アレクサンダー・フォン・シーボルトによる明治日本の近代メディア戦略」、本学准教授である児島由枝氏によるイタリア中世後期の墓碑彫刻図像 ―教皇クレメンス4世と教皇公証官リッカルド・アンニバルディの墓を中心に―でした。

 堅田氏からは、明治日本政府の外交官として活躍したドイツ人のアレクサンダー・フォン・シーボルトによる「近代メディア戦略」について報告がなされた。先行研究の多くが注目しているシーボルトの「外国新聞操縦」のみだけでなく、外国新聞操縦を含めた長期的スパンでのシーボルトの「近代メディア戦略」に関して解明が必要であるとし、その上でシーボルトによる「近代メディア戦略」とは具体的にどのようなものであったか、その特徴と限界などを問いとして挙げた。
 シーボルトの「近代メディア戦略」は、政府として調査すべき外字新聞を提案し、正院もしくは外務省に「新聞紙取調局」という専門機関を設置し「外国諸新聞紙取調」を行うことを求めたものであった。そして、シーボルトによる「近代メディア戦略」の特徴として、明治政府内の親ドイツ派である「ドイチェ・シューレ」をはじめとした様々な人々との連携や、当時の日本としては広報外交そのものが画期的であったこと、世論操作の対象が日本国民でなく列強諸国(特にドイツ)の国民にあったということなどが説明された。また、限界としては、ドイツ以外の他国への広がりがみられなかったこと、シーボルト個人の能力に対する依存によって継承性に欠けていたということなどが挙げられた。そして、シーボルトの「近代メディア戦略」それ自体はシーボルト自身の発案とは言い難いが、彼が体系化を行ったということ、明治政府に自らの実践をもって広報外交の有用性を示したということは明らかであり、シーボルトに代表される「近代メディア戦略」経験者が不在の日本政府が広報外交を実施することの有用性に気づいたのは、第一次世界大戦後のことであったとして報告を締めくくった。
 質疑応答では、報告で「メディア」という言葉を使用した意図や、シーボルト自身の日本に対する感情が一連の活動の中に表れてはいないかなどについて質問がなされた。報告者からは、新聞だけでなくこの時代の情報源であった雑誌も含むという意味で「メディア」という語句を使用したということ、またシーボルトの態度は単に事実を述べるというもので、彼自身の見解がみられるような発言はない、などの回答がなされ、他にも活発に意見交換が交わされた。



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児嶋氏の報告では、イタリア中世後期における教皇庁関係者の墓碑彫刻図像の変遷について述べられた。児嶋氏は画像を用いながら彫刻に現れている表象について説明し、4人の墓碑の例を挙げながら論を展開した。
13世紀半ば以降、西欧世界では大規模な墓碑が登場し、特にイタリアでは独自の古典的な彫刻様式が展開した。11世紀までの有力者の墓碑は、銘文が刻まれた墓石版が主流であった。しかし13世紀には記念碑的な壁面墓碑壁龕墓が登場し、死者の横臥像が横たわる棺、切妻型の屋根を載せた半円アーチ、天国へととりなす聖母マリアや守護聖人像が設置されるようになった。イタリアではさらに13世紀後半以降、ローマでアーチ天蓋をかけた二層構成壁面墓碑が登場し、教皇クレメンス4世の墓がその最初の例であるとされた。同教皇は棺上で死者の姿と、仲介者である聖母に神への取次ぎを祈願するという「死と生」2つの姿で表現されている。児嶋氏はこの表象が出現した背景として、煉獄思想の流布と関係があるのではないかと指摘した。
次のドゥ・ブレ枢機卿と教皇ボニファティウス8世の墓の例では取次ぎの場面が、従来の二次元的表現から現実的表現へ移行したという点で革新的であった。さらに教皇公証官リッカルド・アンニバルディの墓の例では、本人の横臥像だけでなく、葬儀ミサの様子が現実的に再現され、「死者の赦し」の儀式が始まろうとしている場面が表現されているのではないかと指摘した。児嶋氏はこれらの墓碑の表象が段々と現実世界の様子を再現するものになっていたとし、ここに人間的なルネッサンス美術の黎明が見て取れるのではないかと結論付けた。
質疑応答では二層構成壁面墓碑の様式が、古代ローマ時代のカタコンベ像と類似しており、古代以来の様式の影響を受けているのではないかと指摘された。

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