2018年5月12日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
報告は、上智大学大学院博士後期課程生である酒井駿多氏による、「後漢期の巴における民と蛮」、本学教授である長田彰文氏による、「台湾の『親日』の源流を探る―日本の台湾統治50年とその後の再考察」でした。
酒井駿多氏の報告は、「後漢の巴における蛮と民」と題して、後漢民族史における「蛮」の位置づけについて、現在の四川省のあたりに位置していた巴郡の異民族、特に巴氏と板楯蛮に検討を加えたものであった。
後漢史における従来の研究は、宦官・外戚による政治闘争の視点によるものが中心で、後の五胡十六国における異民族台頭につながる視点が弱いという問題点、後漢期における異民族呼称に多くのブレが見られるため、その曖昧さへの検討が必要という2つの課題があった。
氏はこれに対して、『後漢書』から虎を始祖とする稟君神話をもつ巴郡の蛮と、同じ巴郡の異民族でありながら、虎を殺して名を残す板楯蛮を提示し、この2つの関係性について述べられた。
この両者は現在同族ではないとする説が支配的であるが、『後漢書』の異民族の記述に関して、恣意性がみられる以上、板楯蛮と巴郡の他の蛮を別のものとして認識してもいいのかと疑問を呈した。そこで、後漢末に巴郡が分割される際、板楯蛮を含む蛮が、稟君を始祖とする「巴」の名前を重要視していたことを指摘し、稟君を始祖とすると記述された異民族は後漢期の段階ですでに巴郡にいなかったものの、巴郡の蛮の多くが、稟君伝説というルーツを共有していたことを確認した。そこから、巴郡のなかの異民族は、ほぼ別のものとして活動していたものがあったが、ルーツを同じとする点において、同族に近い関係性であったと結論付けた。さらに、巴の分割に関する史料から、蛮の漢人との交渉が後漢期からみられ、異民族内でも帰順するものと、異民族としてありつづけるものがいたことを述べ、異民族の内側においてもその在り方が多様であったことを述べられた。
質疑としては、巴が分かれたのち、それぞれの巴にどのような違いが生まれたのかというものや、『後漢書』が基づいた史料を確認すべきではないかという声、巴郡という地域に関して、河川が丘陵などの地形的な環境を踏まえた上で考えるべきなのではないかという声が上がった。
台湾の「親日」の源流を探る―日本の台湾統治50年とその後の再考察―
現在の日本と台湾の関係には、実際には歴史問題・領土問題が存在するが、世間における台湾のイメージは「親日」というたいへん単純かつ表面的なものにとどまっている。日本の台湾統治の実態および「親日」イメージの形成について、必要において朝鮮と比較しながら検討を行なう。
台湾は1895年、下関講和条約の締結により、日本に割譲された。日本は、台湾人に台湾在留か中国大陸への移住かを選択させた。在留を選んだ台湾人は、台湾を割譲した清国に「裏切られた」と感じた者も少なくなかったという。
同年4月23日、露仏独が遼東半島の清国への返還を日本に勧告し、日本はそれを受け入れた。翌月、台湾独立派が「台湾民主国」の独立を宣言するが、在台湾欧米領事たちは独立派への支援を断ってしまう。日本は、台湾へ出兵して陥落させ、独立派は、台湾を脱出して大陸へ逃走した。「台湾民主国」は崩壊してしまったが、台湾人は、ナショナリズムを身のうちに育てるようにもなった。
台湾総督府の注目すべき政策は、台湾総督府官制・総督武官制・台湾住民撫育政策、アヘン禁止などが挙げられる。1919年、朝鮮総督府官制が改正され、台湾の官制も武官制から文武両官制へ改正された。朝鮮総督が改正後も一貫して武官出身者のみ就任するポストであった一方、台湾では1936年までに総督を勤めた九人すべてが文官であった。
さらに、台湾総督(府)と朝鮮総督(府)には待遇の格差があり、後者のほうが重んじられていた。台湾総督は朝鮮総督に比べ宮中の席次が低かったほか、内閣総理大臣経由での上奏権はもっていなかった。中央政府が台湾総督への指示権限をもっていたことも大きな差である。
台湾の統治は「内地延長主義」と称されているが、住民との軋轢は決して消えはせず、抗日事件が散発的に起きた。1929年からは自治の成立を目指した運動が盛り上がるが、実現していない。なお、朝鮮の独立運動と台湾の独立運動との連帯は確認できない。
また、1930年代以降、朝鮮ほど徹底的ではなかったが、台湾でも「皇民化政策」が展開されている。第二次世界大戦末期には台湾でも男性の徴兵、女子の挺身隊・従軍慰安婦への動員が行なわれた。
台湾への空襲は苛烈であったが、上陸計画は見受けられない。皇族の訪問も頻繁であり、これは、朝鮮には見られない動向であった。
1945年8月、日本のポツダム宣言受諾にともなって9月には降伏文書へ調印し、台湾においても、台湾総督の安藤利吉と中華民国・連合国代表の陳儀が10月に降伏文書へ調印する。台湾は中華民国へ復帰することとなった。台湾では日本統治期を「日治(統治)時期」、あるいは否定的に「日據(占領)時期」と称する。台湾内でも「反日」の中台統一派と「親日」の台湾独立派、そして圧倒的大多数の中間層が混在しており、立場は多様である。日台関係では、慰安婦問題をはじめとする歴史的責任、尖閣諸島の領土問題などが不可視化されがちであり、台湾での「親日」のみが語られがちである。日本社会はいま一度、台湾統治の負の面もはっきり認識する必要性があるであろう。
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