2019/03/22

上智大学史学会第68回大会・公開講演

2018年11月18日(日)、第68回上智大学史学会大会が行われました。
以下に部会発表の題目・写真と、特別講演の要旨をご紹介します。

部会研究発表

第一部会(西洋史 於 共用室A 4階) 

坂口 万津子氏(上智大学大学院)
「ドミニコ会美術にみる聖トマス・アクィナス像の成立と流布について――《聖母子と諸聖人》および《聖トマス・アクィナスの勝利》を中心に――」


荻野 恵氏(上智大学・外務省研修所非常勤講師)

「ポルトガル再独立期における対英外交と国家理性――対スペイン和平条約への過程――」


高橋 晶彦氏(上智大学大学院)

「国家人民党におけるランバハ事件の意義」


萩尾 早紀氏(上智大学大学院)

「ドルフース・シュシュニック体制についての一考察――1933年コンコルダートと1934年五月憲法を中心に――」



伊東 龍介氏(上智大学大学院)

「アイヒマン裁判再考――アイヒマンの責任の所在の追究――」



第二部会(日本史 於 共用室C

宇仁菅 啓氏(上智大学大学院)
「室町殿の右大将拝賀行列について」


ブラボ・アルファロ・パブロ氏(上智大学大学院)

「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ第二次日本巡察(1590〜1592)巡察使の書簡から分かる日本布教状況」


山本 渉氏(一橋大学大学院)

「遷幸・官人・禁裏御料」


上田 良氏(上智大学大学院)

「第二次大熊財政末期と松方財政期における明治政府と佐渡鉱山との関係性の考察」


木下 有氏(上智大学大学院)

「ドイツ駐在陸軍武官電に見る独ソ開戦情報について」



第三部会(東洋史 於 共用室D 4階)

酒井 駿多氏(上智大学大学院)
「漢代の辺境支配と民」


宮古 文尋氏(上智大学非常勤講師)

「清末預備立憲開始前後の地方官制改革案」


久留島 哲氏(千葉大学大学院)

「19世紀後半の朝鮮における民衆統制策と対外危機――大院君執政期を中心に」



公開講演(於 上智大学7号館特別会議室)

樺山 紘一氏(東京大学名誉教授・印刷博物館館長)
「歴史学とミュージアムの往還」


2018年11月20日、上智大学史学大会で行われた特別講演会では、樺山紘一先生により「歴史学とミュージアムの往還—2つの知識・機構の並走のために」と題してお話しいただいた。
 先生は、国立西洋美術館や印刷博物館の館長を務められた経験から、歴史学とミュージアム(博物館、美術館)が共有する六本の「道」について話された。「道」とは両者の共通点や共有できる価値観のことだが、これらを通した歴史学とミュージアムの協力体制(いわば「往還」)が、人文諸科学の発展のために非常に重要なのである。
1、 啓蒙主義の申し子たち
 歴史学とミュージアムは、どちらも18世紀後半のヨーロッパにおいて、啓蒙主義の思想のもとに誕生した。たとえば、大英博物館は、元々、書物、絵画、植物、骨格標本などを含む雑多な個人的コレクションが国家に寄贈されたもので、これらを管理・展示する組織が世界初の博物館となったのであった。それは物事の知識を正確に把握・共有し、生活をより合理的なものにしようという啓蒙主義的な試みの一環だった。一方、歴史学の誕生の例としてはエデュアルド・ギボン『ローマ帝国衰亡史』が挙げられるが、こちらはイギリスの一般市民に、ローマ帝国の滅亡について論じるための共通認識を与えることを目的としていた。
2、 国家という枠組みの安住と不安
 19世紀初頭、ヨーロッパ各国で民主的近代国家の概念が誕生するが、歴史学とミュージアムはその枠組みの中で育まれた。フランスでは国立公文書館が整備され、国家という枠組みのもとに史料の収集・保存が可能になった。歴史学は、これら文書館とアーキビストの協力のもとに史料に基づいた分析を行い、その結果、国家に対する批判さえも可能となったのである。
 つぎに、取り扱う素材と方法について。
3、  MLA連携という問題提起と歴史学
 伝統的には、文書史料は歴史学が読み解くもの、モノ資料は博物館が管理するものであるという線引きがなされてきたが、いまや歴史学の研究対象はその線引きを飛び越え、広範な「史料」を取り扱うようになった。歴史学の発展のためには、博物館・図書館・文書館(Museum,Library, Archives)のMLA連携は避けて通れない道である。それぞれの制度や成立の歴史は違うが、これらが連携してこそ、歴史学的課題の解決につながるはずだ。
4、 文化財の在地原則博物館は、その収蔵品をどのように展示・保存すべきか、ということについて様々な意見がある。在地原則とは、文化財は本来それが置かれていた場所で展示すべきであるという考え方だが、これは必ずしも守られてはいないのが現状である。これら文化財が、元々どこに由来するかということを解き明かすのは、歴史学の役割なのではないだろうか。
5、 文化遺産の意味を問い直す 
 グローバル化のすすむ現代において、文化遺産のもつ意味合いにも吟味が必要になってきた。たとえば、現在ある民族博物館の多くは、支配国が植民地から持ち帰った物品によって構成されている。ポストコロニアルの時代である現在では、こうした業績が植民地主義に基づいたものであると批判されている。かつて植民地であった国々は、支配国の視点ではなく、自国の視点で彼らの歴史を見るために、文化遺産の返還を求めている。博物館も歴史学も、価値の再検討・再定義を迫られているのではないだろうか。
6、 教育的価値にてらして 
 歴史学にとっても、博物館にとっても、その利用者(来場者、一般読者)に目を向けることが必要である。必ずしも専門的知識を有しない彼らに、我々は研究や調査の成果をどのように説明し、その問いに応じるべきか。先生はその答えの一つとして、印刷博物館におけるこども向けの体験学習の例を挙げて語られた。
 質疑応答では、日本でのMLA連携への取り組みについて、また印刷博物館の運営についての質問と応答がなされ、豊かな意見交換の時となった。



2018年10月例会要旨

2018年10月20日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。

山野弘樹「「言語論的展開」を歴史化する――「ラングの言語学」から「ディスクールの言語学へ」

東京大学大学院(総合文化研究科)に所属する山野弘樹氏の発表は、日本における「歴史の物語論」の展開を史学史的に整理しつつ、そこから炙り出された言語論的転回の前提を乗り越える視座をバンヴェニストの言語学から検討することを通して、「現代歴史学」における歴史研究の実践と哲学・言語学の議論を「ディスクール」の観点から接続することを目的とするものであった。
 まず、氏は日本における「歴史の物語論」の展開を史学史の観点から整理することを通して、現代歴史学における〈「主体」の復権〉の系譜において、「パーソナル・ナラティブ」論が議論の主軸にあることを示した。これまでポストモダンの歴史学によって行われてきた実証史学批判の要諦は、ソシュールによって主張された「記号の恣意性」を歴史研究の場面に当てはめることによって、「史料」を媒介とした「過去」の認識の正確性に異議を申し立てるところに存する。しかし氏は、バンヴェニストによるソシュールの「記号の恣意性」をめぐる批判、つまり、シニフィアンとシニフィエの繋がりは文化的な必然性を有しているという議論を提示することで、ポストモダンの歴史学がこれまで依拠してきた「脱構築」的議論の「前提」を相対化することを図った。こうした学際的な議論は、90年代から2010年代にかけて行われてこなかったものである。
 質疑応答においては、「歴史研究」のあり方をめぐる学際的な議論がなされることになった。まず、言語学の観点から「言語論的転回」を正面から受け止め、それを克服するという氏の発表において、社会学の観点を導入する有意義性が指摘された。また、文化人類学の観点から「存在論的転回」の議論が提示され、これまで西洋中心主義的であった歴史研究のあり方を脱する必要性があることが指摘された。こうした「実在」への志向性は、哲学の分野においても「新実在論」として展開されているものである。しかし、こうした動向は〈現存する存在〉に回帰する思想運動に他ならず、〈過去の存在〉に肉薄するものではない。そのため、文化人類学や哲学における「実在論」の運動が歴史研究にいかにして理論的に貢献するのかという点に関しては、慎重な議論がなされるべきであろう。さらに、これまでの歴史研究が人間中心主義であることについての批判も寄せられた。このように学際的な視野から議論がなされることによって、これからの「歴史研究」のあり方をめぐる多種多様な提言がなされることになった。


山本妙子「18世紀パリの信仰と結社――イエズス会施設の貴顕信心会を事例とし
て」


10月20日の月例会では、山本妙子氏からご自身の博士論文の一部を取り上げた報告がなされた。
 本報告は、「篤信家」(Dévots)と呼ばれた近世フランスの宗教的・政治的有力者たちと、彼らの主な活動の場の一つであった宗教結社を分析することで社会を捉えなおす、宗教社会史の視角を持つものである。篤信家たちは、「聖人たちの世紀」と呼ばれる17世紀、信徒と聖職者から構成される宗教結社に集い、慈恵活動や布教活動を通じて、カトリック刷新運動を牽引するとともに、多様なネットワークを都市社会において構築していった。
 本報告の研究対象は、1630年ごろ、イエズス会盛式誓願会員施設に設立されたマリア信心会である。この団体は、1660年代に王権により解散させられた秘密結社である聖体会(Compagnie du Saint-Sacrement)とともにパリの篤信家の有力な活動拠点を形成した。マリア信心会は、1563年にイエズス会によってローマ学院の優秀な生徒の会として創設され、年齢、社会階層別に設立され、ヨーロッパや宣教地に広く普及した。本研究対象は、このマリア信心会の中でも貴族、高位聖職者をはじめ都市の名士が所属する貴顕信心会(Congrégation desMessieurs)にあたる。
 フランスでは、17世紀後半より篤信家たちの勢力が後退し、18世紀にはマリア信心会は、高等法院によるイエズス会解散へ向かって、全体的に衰退すると考えられてきた。パリの貴顕信心会の18世紀初頭の入会者数の減少もその一例として説明されてきた。ところが、この入会者数低迷は一時的であり、その数は1730年代から回復する。報告者は、この点に注目し、入会者の社会的構成を調べ、この衰退ないし変容の政治的・社会的背景を探った。
 はじめに、マリア信心会の創設とその特徴について対抗宗教改革の文脈を交えて説明された。さらに具体的に、パリの貴顕信心会の組織・理念・活動の特徴を考察し、17世紀の貴顕信心会の構成人員の傾向について実例を挙げつつ解説された。聖体会のメンバーとの重複や親族関係、海外宣教事業、慈善事業へ関与などが特徴として挙げられた。入会者数の最盛期は1670年代から訪れる。ここでは非公認組織であった聖体会が解散した後も、篤信家たちは、王権の監督下で活動の可視化、ネットワークの再編成が進められたことが指摘された。この頃の入会者のうち最も多かったのが最高諸法院の司法官僚であった。
 次に、18世紀に貴顕信心会が迎えた転機について、入会者層に関する表・グラフを含めた資料を提示しつつ解説された。分析の結果、大勅書『ウニゲニトゥス』(1713)をめぐってジャンセニストとイエズス会の論争・対立が顕著となった18世紀前半、パリではジャンセニストの大司教によりイエズス会が活動禁止となり、これが貴顕信心会の入会者減少の直接的原因だったことが判明した。活動禁止が解かれた後の入会者の社会的構成としては、高位聖職者の入会数が急激に増加し、イエズス会との対立が激しくなる高等法院をはじめ最高諸法院の司法官僚の入会は激減したことが明らかになった。人物誌的分析からは、貴顕信心会への加入は親イエズス会、反ジャンセニストの立場表明の意味も持っていたと考えられる。一方で、この時期に入会する司法官僚の傾向、貴族の居住地との関係や新しい社交形態の普及にも言及した上で、この会員層の変容には宗教的問題が大きく影響したことが述べられた。
 結論部では、17世紀には貴顕信心会のイエズス会のネットワークが社会事業に有効なものとして用いられたが、18世紀にはジャンセニストとの論争を契機に、そのイメージが一部においてネガティブなものへと変容したことが指摘された。しかしながら、血縁・人脈を用いて宗教生活と社会生活を連結させた篤信家たちの人的ネットワークは、世代を超えて継続していたことが示された。また、貴顕信心会の入会者層の変化は、対抗宗教改革の時代から、カトリック内部対立の時代への変化も反映していることを示唆し、発表を締めくくられた。
 質疑応答では、「貴顕信心会」という和訳について、またマリア信心会の詳細(他信心会との関係、脱会者の有無、会費など)についてフロアからの質問が出た。さらに信心会における聖職者の参加、その立ち位置について意見交換がなされ、盛況のうちに幕を閉じた。