2013/11/04

2013年度10月例会開催

 20131026()、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、本学大学院に所属しております藤澤綾乃氏による「ローマ帝政期のユダヤ的複合建造物港湾都市オスティアを事例に」、並びに京都造形芸術大学で非常勤講師をされております渡辺滋氏による「平安中期における地域有力者の存在形態河内国における源訪を事例として」でした。

 

藤澤氏の報告では、ローマ近郊の港湾都市オスティアにおけるユダヤ的複合建造物を取り上げ、当該建造物を巡る建築学的論争とその問題点、更に報告者による新知見が加えられた。まず、内容への関心を深めるため、オスティアの歴史的変遷を再確認した。オスティアの起源は伝説によれば前7世紀であり、トラヤヌス帝期に商業都市として最盛期を迎えたと考えられているが、隣港ポルトゥス付近の都市発展の影響で5世紀以降徐々に退廃していった。当該建造物は1961年にオスティア市壁外で発見され、当時は地中海世界最古のシナゴーグすなわち1世紀の遺構として注目を集めた。しかし、発掘者Floriani Squarciapino Mariaによる最終報告書が提出されていないことから、以後の研究は困難を極めているという。報告者は、その後の研究者らの間で論説が二極化していることを踏まえ、その代表としてRunesson AndersWhite L. Michaelの説を取り上げた。前者は概ね発掘者の主張に賛同し、考古資料を基に建造物の初期形態を1世紀と捉え、且つシナゴーグであると認識している。対する後者はその根拠の不明瞭さを指摘し、初期は私的建造物として利用され、2世紀よりシナゴーグとして機能したと主張している。報告者はこれら論説の詳細を再検討し、いずれも確実な論証とはならないことを指摘した。実際、現存遺構においてユダヤ的要素を抽出できるのは4世紀以降であり、その時代の煉瓦層からは、トーラーを収めるエディコラやそれに付随するアーキトレーヴに刻まれたメノラー等のモチーフが確認できる。報告者は、当該建造物がシナゴーグとして機能したことの証を4世紀以降と定め、これまでの研究に対して異論を述べた。
 質疑応答では、当該建造物に関する追究の限界性を認識した上で、地中海世界における他シナゴーグとの比較や、オスティアにおけるキリスト教興隆との関連性など、比較研究への発展が求められた。また、4世紀以降シナゴーグとして機能したとすればそれ以前は何なのか、報告者自身の仮説が必要だという指摘もあり、熱く議論が交わされた。


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渡辺氏の発表では、国司制度をめぐる研究動向を踏まえ、古代的秩序の崩壊現象を性急に見出そうとする姿勢に疑問を呈し、実務を行う別の国司の存在によって地方の秩序が守られていくに至った社会状況が分析された。第1節では『平安遺文』三七二「長徳三年(997)六月十一日美努兼倫解」の史料から、源訪の社会的地位を持つ側面を読み取り、また第2節でも『揚名介事計歴事勘文』「長徳三年(997)法家問答」の史料から、源訪の社会的立場をより追求した。続く第3節では『小右記』長和四年(1015)四月五日条及び『長兼蝉魚抄』から、牧を巡る貴族同士の対立構造を炙り出し、同時に源訪の持つ社会的後ろ盾の所以を三条天皇に求められる可能性を示唆した。第4節では除目に纏わる複数の史料から、経済的動機と給主側の配慮という推薦の二形態の存在を導き出した。これらを踏まえ、「揚名国司」の存在は、称号を創出した秩序の中心的存在たる天皇との社会的・心理的距離を演出する装置と結論づけられた。
質疑応答では、中国大陸における地方長官の任命の様態と、この事例との差異が指摘され、「本貫地回避」という出身地への赴任を避ける制度が存在していたことも紹介された。そして環境史の観点からは、当時の畿内地域の牧および物流経済交通へと議論を発展させるべきだと指摘された。さらに、「揚名国司」と実態としての国司との併存状況下での、実権の存在位置に対する質問が出たが、報告者からは実権の分離が進んでいた状況の解説がされた。

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