2017年度前期院生総会ならびに卒業論文発表会が4月22日に開催されました。
新たに院生会へ加入した6名の新入生による熱のこもった発表が行われましたので、
以下、発表者氏名と所属ゼミ、ならびに卒論の題目を報告内容を紹介いたします。
以下、発表者氏名と所属ゼミ、ならびに卒論の題目を報告内容を紹介いたします。
宇仁菅啓(中澤ゼミ)
「中世の人々の身体と身体技法の多様性」
本稿は、主に"多様性"を念頭に置いた二つのテーマから考察している。
一つ目は身分や職能の差による身体、身体技法の多様性である。
現代でもスポーツ選手を見ても何のスポーツを行っているかによって身体やその技法には差が見られるし、職業病という言葉もある。これと同じことが中世の様々な身分や職能の人々にも見られたのではないか。
その点を本稿では職人という身分に注目、『七十一番職人歌合』という史料を主に参考にして考察した。
現代でもスポーツ選手を見ても何のスポーツを行っているかによって身体やその技法には差が見られるし、職業病という言葉もある。これと同じことが中世の様々な身分や職能の人々にも見られたのではないか。
その点を本稿では職人という身分に注目、『七十一番職人歌合』という史料を主に参考にして考察した。
二つ目は、走行法、歩行法についての中世の人々における多様性である。現在、我々は歩いたり走ったりする時は左右の手足を交互に出す。しかしこの技法は明治時代の政府の近代的な軍隊、労働者育成のための調練の結果なのであって、それ以前はナンバの動きも含む多様性があったと考えられる。その点について主に絵画史料を利用し考察した。
結論として、やはり身分や職能の差や、走行法、歩行法において、問題提起通り、多様性を確認した。
しかし今回は反省点が多々ある。一つ目は絵画史料の扱いだ。本稿では絵画史料を詳細に読み込んだのであるが、描写されたものをそのまま写実的なものとして扱ったのである。通常、絵画史料の作者つまり絵師にはなんらかのイデオロギーがあり、そのため必ずしも写実的に描いたとは言えない。絵画史料自体の取り扱い方に今後気を付けなければならない。
また、非常に絵画史料偏重で文字史料が使用できていない点もある。本来は絵画史料の描写を文字史料で根拠付けていくのが理想だが、文字史料が今回のようなテーマだと希少であまり見つけられなかったのである。文字史料も扱っていかないと根拠付けていくことができない。この点も今後の大きな課題である。
また、非常に絵画史料偏重で文字史料が使用できていない点もある。本来は絵画史料の描写を文字史料で根拠付けていくのが理想だが、文字史料が今回のようなテーマだと希少であまり見つけられなかったのである。文字史料も扱っていかないと根拠付けていくことができない。この点も今後の大きな課題である。
修士一年目ではひたすら身体に関する文字史料の収集に努めようと考えている。
木下有(長田ゼミ)
「日本にとって日独伊三国同盟締結の目的はなんだったのか」
本論文では、日独伊三国同盟締結までの経緯を追うことで、日本にとっての日独伊三国同盟締結の意味はなんであったのかを問うた。「アジア太平洋戦争」の原因の一つである日独伊三国同盟について、「挟撃」というキーワードで、ソ連・ドイツ・アメリカ・日本から見た三国同盟締結時の状況を考察した。
ソ連にとっては、日本と独伊によるユーラシア大陸を挟んでの「挟撃」であり、日独伊防共協定の強化である。三国同盟の条文に「独ソ不可侵条約に影響を与えない」と、ソ連は三国同盟の対象ではないとうたっていても、ソ連は疑念を抱かざるを得ない。
三国同盟が目的としたアメリカ牽制は、大西洋と太平洋に挟まれたアメリカをドイツと海軍国である日本が「挟撃」し、牽制するものである。
しかしながら、潜水艦と少数のポケット戦艦しか保有しないドイツの海軍力では、
日本にとってメリットのないものであった。
しかしながら、潜水艦と少数のポケット戦艦しか保有しないドイツの海軍力では、
日本にとってメリットのないものであった。
ドイツにとっては、アメリカの「第二次欧州大戦」への参戦を防止するため、
日本の海軍力を利用できるものであった。
日本の海軍力を利用できるものであった。
日本は、北にソ連、南にアメリカ(フィリピン)に挟撃される状態であった。
このような状況について、駐米大使となる前の野村吉三郎発言
(1940年8月26日の松岡外相との会談記録)を引用すれば、
(1940年8月26日の松岡外相との会談記録)を引用すれば、
1.支那事変は当分解決できない
2.ソ連は油断ならない
3.この状況で対米開戦すれば、長期戦となり、中ソに乗じられる
4.よって対米牽制には限界があり、対米協調策をとるべきである
5.アメリカはドイツとは協調しない(日本単独でないとアメリカは協調しない)
となり、
「ドイツを滿足せしめんが爲に日本海軍が此の際米國海軍と戰ふが如きは禁物なり」
となる。
「ドイツを滿足せしめんが爲に日本海軍が此の際米國海軍と戰ふが如きは禁物なり」
となる。
結論として、アメリカを牽制するという瀬戸際外交に必要な、対米戦争にならないぎりぎりの線を見誤るなど、松岡外相と外務省は対米情報収集において致命的な誤りを犯したといえる。
質疑応答では、「なぜ野村吉三郎は正確な判断を下せたのか」との質問があった。
この問いを深く掘り下げていけば、当時の日本の指導者がなぜ誤った判断をしてしまったのかを解明するヒントになると思われ、今後の課題としたい。
―炭鉱社会が今現在に伝えているものと、旧産炭地の未来への展望―」
本報告では、かつて存在した炭鉱社会をテーマにした。そして「その炭鉱社会とはいかなるものであるか」、「それが今現在に伝えている歴史的意義は何か」、「旧産炭地の未来への展望」の主な三点の問いを設定している。その問いを解明していく具体的アプローチとして以下の手法をとっている。
簡潔に述べれば、「石炭産業やその資源の産出」といったハードな側面だけでなく、「石炭を産出していた炭鉱という社会で日々紡がれていた、そこに住む人々、人間同士の交流や、生活の営み」といったソフトな側面にも視点を当てるということである。
「歴史」というものは、視点を当てる対象を変えることで、異なった像も浮かび上がってくる。また人文科学という学問は、「連綿と続いているヒトとヒトとの関係性や、一人一人の営みについて考察し、今現在の技術革新という潮流にあっても、人の輪の重要性を率先して提唱していく」学問であると解釈している。
以上から今回、先述のアプローチをしたわけであるが、実際に日常生活史像に迫っていくことは字面以上に難しい。
今回の論文では「当時の映像や写真」、「実際に炭鉱内で働いていた労働者が描いた炭坑画」、「当時炭鉱社会に住んでいた人々の証言」などの一次史料も用いたが、信憑性の有無の面に加えて、断片的であるという面で、あつかい方が一筋縄ではないと考えさせられた。歴史的に見て、人々の日常生活は連綿と現在まで続いている「連続性」という特徴がある一方で、残されている資料は一つ一つが断片的であるという矛盾に陥ってしまう事例の一つであろう。
以上のような方法にて端島炭鉱と筑豊炭田の両炭鉱社会を分析してみて以下のことが分かった。
炭鉱は三菱や三井などの財閥が管轄する大手炭鉱と、中小炭鉱が存在していたが、総じて地上では日常生活に必要な物が揃い、教育や医療施設が整えられるなど、完結した都市空間が形成されていた。
また、石炭と運命を共にする、限りのあるコミュニティーであったが、やはり国家の産業発展の基盤となり、石炭産出の面では日本の心臓部をなしていると同時に、閉鎖性という特長を活かした人間関係や交流がある程度は実現されていた社会であったと考えられる。
以上のように成果と同時に課題も見つかったので、今後はその課題をふまえて研究に励んでいきたいと考えている。
最後に今後は、炭鉱と同じ鉱山カテゴリーである金銀山をテーマにし、本論文で行なった分析やアプローチを更に発展させる形で、研究を進めていき、良い研究業績を残せるよう日々頑張っていきたいと思っている。
この問いを深く掘り下げていけば、当時の日本の指導者がなぜ誤った判断をしてしまったのかを解明するヒントになると思われ、今後の課題としたい。
上田良(長田ゼミ)
「時空を越えて語り継がれる炭鉱社会の記憶について―炭鉱社会が今現在に伝えているものと、旧産炭地の未来への展望―」
簡潔に述べれば、「石炭産業やその資源の産出」といったハードな側面だけでなく、「石炭を産出していた炭鉱という社会で日々紡がれていた、そこに住む人々、人間同士の交流や、生活の営み」といったソフトな側面にも視点を当てるということである。
「歴史」というものは、視点を当てる対象を変えることで、異なった像も浮かび上がってくる。また人文科学という学問は、「連綿と続いているヒトとヒトとの関係性や、一人一人の営みについて考察し、今現在の技術革新という潮流にあっても、人の輪の重要性を率先して提唱していく」学問であると解釈している。
以上から今回、先述のアプローチをしたわけであるが、実際に日常生活史像に迫っていくことは字面以上に難しい。
今回の論文では「当時の映像や写真」、「実際に炭鉱内で働いていた労働者が描いた炭坑画」、「当時炭鉱社会に住んでいた人々の証言」などの一次史料も用いたが、信憑性の有無の面に加えて、断片的であるという面で、あつかい方が一筋縄ではないと考えさせられた。歴史的に見て、人々の日常生活は連綿と現在まで続いている「連続性」という特徴がある一方で、残されている資料は一つ一つが断片的であるという矛盾に陥ってしまう事例の一つであろう。
以上のような方法にて端島炭鉱と筑豊炭田の両炭鉱社会を分析してみて以下のことが分かった。
炭鉱は三菱や三井などの財閥が管轄する大手炭鉱と、中小炭鉱が存在していたが、総じて地上では日常生活に必要な物が揃い、教育や医療施設が整えられるなど、完結した都市空間が形成されていた。
また、石炭と運命を共にする、限りのあるコミュニティーであったが、やはり国家の産業発展の基盤となり、石炭産出の面では日本の心臓部をなしていると同時に、閉鎖性という特長を活かした人間関係や交流がある程度は実現されていた社会であったと考えられる。
以上のように成果と同時に課題も見つかったので、今後はその課題をふまえて研究に励んでいきたいと考えている。
最後に今後は、炭鉱と同じ鉱山カテゴリーである金銀山をテーマにし、本論文で行なった分析やアプローチを更に発展させる形で、研究を進めていき、良い研究業績を残せるよう日々頑張っていきたいと思っている。
ブラボ・アルファロ・パブロ(川村ゼミ)
「16世紀の日本におけるイエズス会の宣教」
本報告では、16世紀の日本におけるイエズス会の宣教活動(1549年から1598年まで)がどのような流れで行われ、どのような宣教方針が採られたか、その上でイエズス会士がどのような問題に直面したかということについて述べられた。
16世紀におけるイエズス会の日本宣教は四つの期間に分けることができる。最初の期間は1549年から1551年まで、フランシスコ・ザビエルの日本滞在期であり、宣教活動の始まりとなっている。
次の期間は1551年のザビエルの出航で始まり、コスメ・デ・トーレスの指導と宣教方針でイエズス会の宣教が発展し、1569年にルイス・フロイスが織田信長に謁見したことで終わる。
それから、1569年から1582年までの期間は織田信長の政権とイエズス会の宣教の最も繁栄した時期となった。
この期間はフランシスコ・カブラルとアレッサンドロ・ヴァリニャーノの敵対が含まれ、そして天正遣欧少年使節派遣を経て、1582年に本能寺の変での織田信長の死亡で終わる。
最後の期間は1582年から始まり、豊臣秀吉の政権とキリシタンへの敵意、
そしてイエズス会の宣教が衰退し、他の修道会が日本に到着し、サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教が起こり、1598年に豊臣秀吉の死亡で終わる。
次の期間は1551年のザビエルの出航で始まり、コスメ・デ・トーレスの指導と宣教方針でイエズス会の宣教が発展し、1569年にルイス・フロイスが織田信長に謁見したことで終わる。
それから、1569年から1582年までの期間は織田信長の政権とイエズス会の宣教の最も繁栄した時期となった。
この期間はフランシスコ・カブラルとアレッサンドロ・ヴァリニャーノの敵対が含まれ、そして天正遣欧少年使節派遣を経て、1582年に本能寺の変での織田信長の死亡で終わる。
最後の期間は1582年から始まり、豊臣秀吉の政権とキリシタンへの敵意、
そしてイエズス会の宣教が衰退し、他の修道会が日本に到着し、サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教が起こり、1598年に豊臣秀吉の死亡で終わる。
質疑応答では、主に織田信長とイエズス会の関係について様々な意見が述べられた。
加えて、イエズス会の宣教方針の一つの「適応主義」に関して質問が寄せられ、
イエズス会士が説教の時どのように仏教の観念を使っていたかについて具体的な例を挙げた。
加えて、イエズス会の宣教方針の一つの「適応主義」に関して質問が寄せられ、
イエズス会士が説教の時どのように仏教の観念を使っていたかについて具体的な例を挙げた。
伊東龍介(井上ゼミ)
「ナチズム成立の要因~歴史的事実と思想家の解釈を手掛かりにして~」
本報告は、ナチス・ドイツの成立要因を思想家の解釈を基にして考察を試みた。
特にワイマール共和国成立期から、ナチ党が独裁政権を得るまでを対象とし、プロパガンダや選挙結果など、詳細に渡って分析することで、ナチスの「合法的」行為に着目した。
別の章では、H・アーレント『全体主義の起原』、K・ヤスパース『われわれの戦争責任について』、E・フロム『自由からの逃走』などを扱い、これらの研究者の解釈を分析することで、ドイツ人のもつ「全体主義的な性格」やドイツ国が全体主義の育つ土壌であったと考察した。
特にワイマール共和国成立期から、ナチ党が独裁政権を得るまでを対象とし、プロパガンダや選挙結果など、詳細に渡って分析することで、ナチスの「合法的」行為に着目した。
別の章では、H・アーレント『全体主義の起原』、K・ヤスパース『われわれの戦争責任について』、E・フロム『自由からの逃走』などを扱い、これらの研究者の解釈を分析することで、ドイツ人のもつ「全体主義的な性格」やドイツ国が全体主義の育つ土壌であったと考察した。
総括として、ナチス・ドイツの成立要因を三つ挙げた。
一つ目は、ワイマール共和国時代の政治における小党乱立状態であり、右派左派関係なく「ヴェルサイユ条約の破棄」や「マルクス主義者の打破」といった同じ目標を掲げていたという、ある種の八方塞がりな状況にあるという点。
二つ目は、従来のナチス研究でも述べられているように、ナチ党の「合法的」かつ巧みな政治戦略によるという点。
三つ目は、ドイツ国民の中に、強い権力にすがることで安心感を得るような「権威主義的」な性格にあるという点。
以上の要因が成立に大きく起因していると考えられると結論を出した。
本稿のように、ナチズムの根幹にせまる場合、あらゆる分野からのアプローチが必要であるということが分かる。
一つ目は、ワイマール共和国時代の政治における小党乱立状態であり、右派左派関係なく「ヴェルサイユ条約の破棄」や「マルクス主義者の打破」といった同じ目標を掲げていたという、ある種の八方塞がりな状況にあるという点。
二つ目は、従来のナチス研究でも述べられているように、ナチ党の「合法的」かつ巧みな政治戦略によるという点。
三つ目は、ドイツ国民の中に、強い権力にすがることで安心感を得るような「権威主義的」な性格にあるという点。
以上の要因が成立に大きく起因していると考えられると結論を出した。
本稿のように、ナチズムの根幹にせまる場合、あらゆる分野からのアプローチが必要であるということが分かる。
質疑応答では、本稿において、従来の研究とどのように異なった解答が得られたのか、という指摘がなされた。
本稿では、従来の解釈を踏襲することが多く、単にうまく「まとめ」られただけに過ぎないのではないかとも言える。
今後は、広すぎるテーマをあつかうのではなく、狭い領域を扱い、オリジナルな解答を出せるように邁進していく。
本稿では、従来の解釈を踏襲することが多く、単にうまく「まとめ」られただけに過ぎないのではないかとも言える。
今後は、広すぎるテーマをあつかうのではなく、狭い領域を扱い、オリジナルな解答を出せるように邁進していく。
高橋晶彦(井上ゼミ)
「ドイツ国家人民党の思想的変遷とフーゲンベルク」
ドイツのワイマール共和国時代に存在した国家人民党は、特に右寄りのブルジョワ政党であり、政府反対派としての活動を目に見える形で行い、ヒトラー内閣成立において、極めて重大な役割を果たした。
しかし、最終的な運命は、他の政党と同じくナチ党の一党支配体制のなかで淘汰されるというものになった。
こうした事情から、ナチ党を、ワイマール時代の新ナショナリズム的要素の現れと見た場合、国家人民党にはそれと対比して、旧ナショナリズムの権化、伝統的保守主義の結集とみられる傾向にあるように思われる。
これについて、国家人民党の政治的活動や、思想面での変遷を見分しつつ、実際のところこの党の立ち位置がいかなるものであったのかという事について、考察したのが本論文であるとした。
しかし、最終的な運命は、他の政党と同じくナチ党の一党支配体制のなかで淘汰されるというものになった。
こうした事情から、ナチ党を、ワイマール時代の新ナショナリズム的要素の現れと見た場合、国家人民党にはそれと対比して、旧ナショナリズムの権化、伝統的保守主義の結集とみられる傾向にあるように思われる。
これについて、国家人民党の政治的活動や、思想面での変遷を見分しつつ、実際のところこの党の立ち位置がいかなるものであったのかという事について、考察したのが本論文であるとした。
実際のところ国家人民党は、詳細にみると、非常に起伏のある活動を行っており、
思想面についても、当初の伝統的保守派が指導する混沌状態から、フーゲンベルクの独自の方針による指導という状態まで、大きく変動している。
このような事情を考慮して、この党が、ナチスと対比しての伝統的保守派という立ち位置になるのは仕方のないことだとしても、単純な政府反対派、旧ナショナリズムの権化とは一概には言えないものと考えられ、その取扱いには更なる注意が払われるべきではないかと考える。
さらに進んで、ワイマール時代の他の政党と同じく、状況の変動に左右された、一つの政党に過ぎなかったとすることも可能であるように考えると述べた。
思想面についても、当初の伝統的保守派が指導する混沌状態から、フーゲンベルクの独自の方針による指導という状態まで、大きく変動している。
このような事情を考慮して、この党が、ナチスと対比しての伝統的保守派という立ち位置になるのは仕方のないことだとしても、単純な政府反対派、旧ナショナリズムの権化とは一概には言えないものと考えられ、その取扱いには更なる注意が払われるべきではないかと考える。
さらに進んで、ワイマール時代の他の政党と同じく、状況の変動に左右された、一つの政党に過ぎなかったとすることも可能であるように考えると述べた。
質疑応答においては、国家人民党の弱体化には組織面での問題があったのではないか、フーゲンベルクの思想というものは、当時としても異質だったのではないかというような指摘がなされた。
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