2017/11/22

2017年度10月例会



  20171021日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
 報告は、上智大学国際教養学部教授であるスヴェン・サーラ氏による、「『上智大学史』に向けて現在の取り組みと今後の課題」、本学資料室臨時職員である浅野友輔氏による、「上智大学学生生活史の素描<学友会>から<学生会>へ」、本学文学部PDである堅田智子氏による、「上智学院第2代、第7代理事長クラウス・ルーメルの見た学生運動」でした。





 サーラ先生からは、「『上智大学史』に向けて現在の取り組みと今後の課題
と題した、上智大学で行われている「上智大学史」というプロジェクトに関した説明をしていただいた。

 上智大学に関したものは、『上智大学資料集』などを始めとした多くのものが作成されている中で、「学術的な」意味のあるものが今まで作成されていないと先生は仰っていた。そこで、先生のこのプロジェクトは1913年から2013年までの100年を目安にして、上智大学の正確かつ学術的に価値のある大学史を作成することが第一の目的であるとのこと。具体的には、上智大学の時代ごとの特色や、大学と国内、海外との組織との繋がりがどのようなものであったかを探るとのこと。100年記念の際、上智大学の100年の歩みをまとめたものが発行されたものの、学術的に有益かどうか疑問が残るものであったため、今回のプロジェクトは、有益性の高いものを作成したいとのことであった。

 今回の説明で特に興味深かったのが、第一次、第二次世界大戦の戦時期における上智大学内の在り方についてである。神父などを始めとした外国人が、時には追放されることなどがあったことから、大学が時代の情勢に影響を受けていたことが判明した。
 その他、浅野氏や堅田氏の発表へと繋がるような説明もなされており、大学史に関して知らない、もしくは興味のなかった人に、興味関心をもたせるような説明がなされていた。
 質疑応答の時間では、そもそも大学史の研究を1913年からスタートする意義は何であるか、などを始めとした議論がなされた。日本の大学認可制度の展開の中で、正式に大学として始まったのが1913年とのことで、この年からの大学史を作成していく重要性を熱く語って下さった。









浅野氏は「上智大学学生生活史の素描―「学友会」から「学生会」へ―」と題して報告を行い、上智大学内の学生組織の変遷を追った。これまで学内の学生組織については、学生による大学自治機構とされる「学生会」と、その前身と目される戦前の「学友会」が注目されてきたが、両組織の具体的な連続面は明らかではなかった。そこで氏は学生組織に関する規則や、学内外の報告書に注目し、「学友会」と「学生会」、および両組織の狭間の「修練報国団」の様態を分析した。

上智大学最初の学生組織で、1913年始動の「学友会」は全学生が会員となり、各部活動が置かれ、教員と共同でレクリエーション活動を行う大学自治機構として位置付けられた。そこでは学生主導の会議が運営されるとともに、他大学学友会との交渉など対外的な場において、教員のもつ他大学(例:東京外国語学校)とのつながりも活用されていた。
しかし、日本国内が戦時体制に向かうにつれて、「学友会」は組織変容を求められるようになる。19371939年に学内諸団体について文部省から問い合わせがあったが、その時点で学内に国防注力組織「旭鷲会」が存在しており、1941年には「学友会」が消滅。既存の部活動(班)を吸収し、学生と教職員に軍事教練や国防研究を励行させる「修練報国団」へと改編された。同団では、同組織の団長である学長の権限が強化され、学生は組織運営の主要メンバーから外されるなど諸権限を喪失したため、大学自治機構としての学生組織の在り方は否定されていく。

戦時中は上記の傾向が続き、学生による組織内会議運営・自治の復活は、戦後1946年の「学友会」再組織化を待たなければならなかった。「修練報国団」より代わった「学友会」は再度大学自治機構として位置づけられ、その性格は1950年発会の「学生会」にも継承されていった。
浅野氏は報告内で、以上の「学友会」から「修練報国団」、「学生会」に至るまでの流れは、他大学学生組織との間でも共通点・共時性を見出せることを指摘。各組織の動向について、同時代の国内外の教育・政治状況とも照らし合わせて幅広く史料を蒐集することを今後の課題とした。
質疑応答では、大学・文部省間の交渉に関する史料の残存状況や活用手法、「学友会」から「修練報国団」への変質時期における国内情勢の事実確認と、その同時代認識について質問がなされた。
 






堅田氏からは、「上智学院第2代、第7代理事長クラウス・ルーメルの見た学生運動」というタイトルで報告がなされた。
発表においては、まず、上智大学における学生運動の概要について説明があった。上智大学における学生運動は、19686月から運動を中心として始まり、全共闘系学生を中心として、断続的に校舎の占拠があった。これに対し1221日に大学側は、機動隊導入を要請し、その結果、バリケード封鎖は解除され、6か月間の臨時休校措置を行なうことによって、速やかな事態の収拾を図り、これが「上智モデル」として学生運動の鎮圧モデルとして国内に広まったということが、これまでの大学による公式見解である。

続いて、クラウス・ルーメル(Klaus Luhmer,1916-2011)と、学生運動との関わりについて説明があった。上智大学で第2代、7代理事長を務めたルーメルは、学生運動が全盛期を迎えた1868年当時、広報活動を担う渉外室主任であったが、学内で配付・掲示されていた大学側、学生側が作成したビラ、パンフレットなどの印刷物を個人的に収集していた。これらは現在、上智大学史資料室に所蔵され、彼の名を冠した「ルーメル・コレクション」という資料群も存在する。

ルーメルは、学生運動に対する自身の見解も残しており、のちの回想によると、そのメカニズムをスローガン、イデオロギー的背景、闘争方法から分析し、対話を通じて、学生運動を解決に導こうと努めていた。また、ルーメルにより収集された資料群を分析により、学生運動の期間についても、公式見解とは異なり、ルーメルは1964年から1973年頃までと認識していたのではないかとの堅田氏の分析も示された。

堅田氏は最後に、ルーメルの見解と併せて上智大学における学生運動を再検討した上で、大学側と学生側の協議によって、学生側が主張していたように、学生要覧の内容が改訂されたと、具体例が示された。学生運動の結果から現在の大学の姿に連なり、学生も知らず知らずのうちに受容している部分も多数あり、学生運動に関して見ていくことは、現在の学生生活を問い直す上で重要であると締めくくった。

質疑応答においては、上智のみならず、他大学とのつながりの中で改めて学生運動を見直すということは意義のあることだという意見や、校舎に籠城した学生の中に、他大学の学生がどれほどいたのかという質問、現在ではノンポリの学生が増えて、そもそも熱が失われているのではないかとの意見が出た。

2017/07/31

2017年度6月例会


 2017617日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
 報告は、上智大学大学院博士後期課程生である酒井駿多氏による、
「後漢後期における異民族政策の転換」、
 本学非常勤講師である堅田智子氏による、
「明治・大正時代における日本でのドイツ式高等教育の導入と実践
 ――獨逸学協会学校から上智大学へ――」でした。



 酒井氏からは「後漢期における対異民族制度―異民族統御官を中心に―」と題した、後漢後半期の軍事制度についての報告がなされた。
 酒井氏は、従来の後漢史は政治闘争や豪族論が中心で、異民族の大規模な中華侵入や、後漢軍制における異民族の位置が軽視されていることを問題点として挙げた。その上で、漢の研究者から後の時代へアプローチする必要性を説き、異民族の軍事利用と既存の軍制との摩擦や、それによる複雑な状況を主題に論を展開していった。

 まず、既存の軍制としては、軍縮後、邊都においては軍備の充実や細分化が見られ、地方防備においては後に軍権を獲得していく州刺史や、郡を治める太守が併存していたが、一方、実際は異民族統御官が辺境において重要な働きを成していたという。
 異民族統御官設置の背景には後漢後期の内徙策があった。
この策は、不安定な涼・并・幽州に烏桓や南匈奴を内徙することで、北匈奴との間に緩衝地帯を形成することなどを目的としていた。
 異民族統御官は前漢期には具体的な統治に関わっていなかったが、内徙等によって異民族が増加した後漢に入ってからは当該異民族を率いる権限、付随して近隣の軍兵を指揮する権限、更に、異民族統治に関わる権限まで持ち合わせるようになったという。
 後漢期は、このように異民族統御官を利用して異民族を軍事的に利用してきたものの、
のちに彼らによる反乱が頻発し、政府内で彼らを追い出そうとする殄滅派と引き続き利用しようとする恩信派との論争が起きたが、すでに北方・北西方での軍事は異民族の力に頼っていたため殄滅は不可能であった。

 結論として酒井氏は、後漢末期に殄滅に舵を切ろうとした時にはかなりの異民族が中華に流入しており五胡十六国時代の異民族流入への土台ができていたこと、
外敵に対する防衛で異民族統御官が活躍し権限を増した一方、州刺史なども軍権を獲得するなど非常に中途半端な状況になったとしており、
後漢後半期の軍事制度は地方軍が広域な活動ができるように改変される過渡期であり、
そこで顕在化した異民族統御官と州刺史の権力干渉は三国時代以降に変容していくと締めくくった。

 質疑応答では、内徙された異民族への税といった経済面への疑問や、異民族同士の敵対関係はあったのか、異民族統御官内での優劣関係はあったのかなど活発な議論がなされた。
 中には、異民族という概念自体、現在の民族とは異なるのではないかという質問も飛び出した。




 堅田氏からは、「明治・大正時代における日本のドイツ式教育の導入と実践―獨逸学協会学校から上智大学へ―」というタイトルで報告がなされた。
 本研究の目的として、日独交流史の視点から、上智大学草創期のドイツ人SJの大学創設に至る動向を明らかにすることと、大学史、教育史の視点から、ドイツ人SJによりむすび
つけられた、上智大学と獨逸学協会学校の関係性を明らかにするという事が挙げられた。

 獨逸学協会は1881年に設立され、西周、桂太郎等が設立メンバーとして名を連ね、獨逸学協会学校を経営母体として運営したが、イエズス会の方針の下で、ドイツ的な教育機関を日本に置くことを目指した設立当初の上智大学との関係もまた、非常に深いものであった。
 まず、上智初代校長ヘルマン・ホフマンや、上智設立に携わったヴィルヘルム・エンゲレン、フリードリヒ・ヒリッヒ等が獨逸学協会学校においてドイツ語教師として勤務していたという事実は上智大学、獨協学園資料センター双方の史料から確認されること、
やはり上智の設立者の一人であるアンリ・ブシェーの日記には、獨逸学協会学校第6代目校長の長井長義が登場することが、今回の堅田氏の研究によって明らかになった。

 また、堅田氏は、獨逸学協会学校第4代目校長の大村仁太郎の目指したドイツ語教育、「人間の陶冶」に着目し、この交流の中で、「授業と『教育』、知識と『陶冶』の緊密な有機的結合」を目指したイエズス会、上智大学との理念の一致があったとした。
 そして、ドイツ式高等教育機関としての上智大学の活動にふれ、
「独日関係の黄金時代」の転換期の終焉を迎えて、その「ドイツ性」のあり方も変化していったことを述べて報告を締めくくった。

質疑応答では、上智大学は、大学令公布前に計画されたが、大学への昇格は計画段階から想定されていたのか、史料として用いられたホフマンの履歴書は誰が記したものなのか、上智大学におけるカトリック布教と教育の関係性はどのようなものであったかなどの質問がなされ、活発な意見交換が行われた。

2017/07/30

2017年度5月例会



2017513日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
報告は、上智大学大学院博士前期課程生である渡部敦寛氏による
「八世紀における諸王長官官司とその史的背景」、
本学教授である中澤克昭氏による「日本中世の肉食カースト」でした。






今回は先日行われた上智大学史学会合同月例会における渡部敦寛氏の発表内容の概要と、その発表後に行われた議論について記していく。
まずテーマは「奈良時代にあたる8世紀の王族・貴族の大規模な家の内部構造」であり、そこから日本古代史という文脈の中での王族・貴族の家政機関を解明し、その歴史的意義を考察することがねらいとされている。
家政機関というのは、宮廷を管理する役職や、貴族に食事を提供する機関、そして行事や祭事の補助をする部署などのことを指している。
一般的なイメージとして、奈良時代の貴族は位が高く、優雅な生活をする一方で、
政治を中心的につかさどる人々であると、一枚岩のように解されているが、その王族・貴族というカテゴリー内部にも序列が存在しており、大きな主従関係や力関係の差もあらわれていたのである。

また、渡部氏によれば、諸王の中には、有名である長屋王家のような大きなものも存在していたが、それと同時代には多数の小さな諸王も存在しており、後者の史資料も収集し分析することで新たな歴史像が見えてくるのである。
なおレジュメにおいては、豊富な史資料数やその分析、また記号を用いての分類などの分かりやすいものが提示されている。

渡部氏は六国史をはじめとするデータから、主に「任用・登用のされ方」や「職務の特質」から、官司や家政機関を以下の四種類にカテゴライズしている。
「際立って諸王が補任されている役職・官司、すなわち世襲など特色ある人事がなされているもの」・「8世紀段階において諸王が補任されている官司」・「四等官クラスにしばしば技術保有者が含まれているか、特色ある人事がなされている機関」・「判断材料が充分でない官職」
といった四種である。
代表的な職務について述べると、前二種の中には「王族の名簿を管理するもの」や「鍛冶」や「雅楽」、「造営」といったものが含まれている一方で、後二種の中には「織物をするもの」や「土木や造園関係に携わるもの」や「造酒」、「医療技術を有する学者」、「宮廷の清掃を担当するもの」、「喪儀に携わるもの」が挙げられている。

以上のカテゴライズにより、渡部氏は、後二種の機関は「物的な充足を満たすことを目的とするごく小さな役所」であると分析し、権力関係・序列は前二種と後二種で大きく分かれていたと結論づけている。

 発表後の質疑応答では、「そもそも八世紀とタイトルづけた理由は何か?」と、
「本研究は定説の補完なのか。それとも再考をせまっているのか」
といった二つの点が挙げられた。
渡部氏は、まず前者に関して、9世紀になると任命されないポストもあるというメッセージを伝えるという点がねらいであると答えていた。
また、後者に関して「今現状は考え中であり、今後決定していく」と語っていた。
後者に対して「研究における自分の立ち位置や目的に関して、明確解析的なビジョンをもつことが望ましい」という指摘があった。






 中澤氏の報告では、まずこれまでの研究を概観した。
肉食の禁忌は巷間いわれるような仏教の影響でなく、神祇的肉食禁忌に発生の母胎があること。9世紀中葉から穢れ観念が肥大化し、獣肉食も穢れとして忌避されるようになったこと、
仏教の影響で牛馬を人間の生まれ変わりとする考え方が広まり、奈良時代までの牛馬食の伝統が途絶えたこと、
寺院内部の生活規則であった戒律が、外部にも適用されるようになったが、殺生・加工の場とその成果を消費する場が分離したため、前者を担う人々を「罪業」や「穢れ」と結び付け、差別するようになったこと、神仏習合の発達により、精進神が成立したこと、親王将軍宗尊親王を介して、獣肉穢れ観が東国にまで広がったとみられること。これらが、この報告の前提として確認された。

 この報告の視座として、以下の点が述べられた。
 肉食は中世の身分に対応し、魚貝を中心として、わずかに野鳥を食す天皇・公卿・殿上人、魚貝・野鳥のみならず、鹿・猪をも食す諸大夫・侍、さらに肉食忌避が薄弱だったと考えられる百姓・凡下と下人・所従という差異があった。
 こうした階層差は、貴族は善行を積んで往生できるが、「悪行」である殺生・肉食をする人々は地獄に堕ちるという考え方と結び付いている。
 肉食については、「抜け道」として「薬食い」とか「鹿食免」があり、実際には広く肉食が行なわれていたことが指摘されてきた。
しかし、身分・階層によって葛藤に差異があったことを見のがせない。

 また、殺生や肉食を正当化する「殺生・肉食善根(功徳)論」は、殺生を生業として行なわなければならない人々を救済する論理とされる。
しかし、当初そうした正当化の論理を求めたのは、殺生や肉食を忌避する貴族や上層の侍であり、後世、それが百姓・凡下にも流布したとみるべきである、といった見方が示された。

活発な質疑が行なわれ、「肉食=豪華な食事を食べない、という価値はいつ転換したのか」、ヨーロッパとの比較から「健全な肉体を維持するために肉食を是としなかったのか」、
「食用畜産が日本からなくなるのはいつか」、
「殺生をせざるを得ない下人・所従は、地獄・極楽という概念が広まるなか、
精神的に本当に救済されたのか」、
「都での世情不安の時代と殺生禁断との関係は」、「インドでバラモン教のアンチテーゼとして発達した仏教は当初から肉食禁忌でなかったのか」などの質問・意見がかわされた。



















2017/05/10

2017年度前期院生総会・卒業論文発表会

 2017年度前期院生総会ならびに卒業論文発表会が4月22日に開催されました。
 新たに院生会へ加入した6名の新入生による熱のこもった発表が行われましたので、
以下、発表者氏名と所属ゼミ、ならびに卒論の題目を報告内容を紹介いたします。

宇仁菅啓(中澤ゼミ)
「中世の人々の身体と身体技法の多様性」

 本稿は、主に"多様性"を念頭に置いた二つのテーマから考察している。
 一つ目は身分や職能の差による身体、身体技法の多様性である。
現代でもスポーツ選手を見ても何のスポーツを行っているかによって身体やその技法には差が見られるし、職業病という言葉もある。これと同じことが中世の様々な身分や職能の人々にも見られたのではないか。
その点を本稿では職人という身分に注目、『七十一番職人歌合』という史料を主に参考にして考察した。
 二つ目は、走行法、歩行法についての中世の人々における多様性である。現在、我々は歩いたり走ったりする時は左右の手足を交互に出す。しかしこの技法は明治時代の政府の近代的な軍隊、労働者育成のための調練の結果なのであって、それ以前はナンバの動きも含む多様性があったと考えられる。その点について主に絵画史料を利用し考察した。 
 結論として、やはり身分や職能の差や、走行法、歩行法において、問題提起通り、多様性を確認した。
 しかし今回は反省点が多々ある。一つ目は絵画史料の扱いだ。本稿では絵画史料を詳細に読み込んだのであるが、描写されたものをそのまま写実的なものとして扱ったのである。通常、絵画史料の作者つまり絵師にはなんらかのイデオロギーがあり、そのため必ずしも写実的に描いたとは言えない。絵画史料自体の取り扱い方に今後気を付けなければならない。
 また、非常に絵画史料偏重で文字史料が使用できていない点もある。本来は絵画史料の描写を文字史料で根拠付けていくのが理想だが、文字史料が今回のようなテーマだと希少であまり見つけられなかったのである。文字史料も扱っていかないと根拠付けていくことができない。この点も今後の大きな課題である。
 修士一年目ではひたすら身体に関する文字史料の収集に努めようと考えている。


木下有(長田ゼミ)
「日本にとって日独伊三国同盟締結の目的はなんだったのか」

 本論文では、日独伊三国同盟締結までの経緯を追うことで、日本にとっての日独伊三国同盟締結の意味はなんであったのかを問うた。「アジア太平洋戦争」の原因の一つである日独伊三国同盟について、「挟撃」というキーワードで、ソ連・ドイツ・アメリカ・日本から見た三国同盟締結時の状況を考察した。
 ソ連にとっては、日本と独伊によるユーラシア大陸を挟んでの「挟撃」であり、日独伊防共協定の強化である。三国同盟の条文に「独ソ不可侵条約に影響を与えない」と、ソ連は三国同盟の対象ではないとうたっていても、ソ連は疑念を抱かざるを得ない。
 三国同盟が目的としたアメリカ牽制は、大西洋と太平洋に挟まれたアメリカをドイツと海軍国である日本が「挟撃」し、牽制するものである。
 しかしながら、潜水艦と少数のポケット戦艦しか保有しないドイツの海軍力では、
日本にとってメリットのないものであった。
 ドイツにとっては、アメリカの「第二次欧州大戦」への参戦を防止するため、
日本の海軍力を利用できるものであった。
 日本は、北にソ連、南にアメリカ(フィリピン)に挟撃される状態であった。
このような状況について、駐米大使となる前の野村吉三郎発言
(1940826日の松岡外相との会談記録)を引用すれば、
1.支那事変は当分解決できない
2.ソ連は油断ならない
3.この状況で対米開戦すれば、長期戦となり、中ソに乗じられる
4.よって対米牽制には限界があり、対米協調策をとるべきである
5.アメリカはドイツとは協調しない(日本単独でないとアメリカは協調しない)
となり、
「ドイツを滿足せしめんが爲に日本海軍が此の際米國海軍と戰ふが如きは禁物なり」
となる。
 結論として、アメリカを牽制するという瀬戸際外交に必要な、対米戦争にならないぎりぎりの線を見誤るなど、松岡外相と外務省は対米情報収集において致命的な誤りを犯したといえる。
 質疑応答では、「なぜ野村吉三郎は正確な判断を下せたのか」との質問があった。
この問いを深く掘り下げていけば、当時の日本の指導者がなぜ誤った判断をしてしまったのかを解明するヒントになると思われ、今後の課題としたい。



上田良(長田ゼミ)
「時空を越えて語り継がれる炭鉱社会の記憶について
―炭鉱社会が今現在に伝えているものと、旧産炭地の未来への展望―」


 本報告では、かつて存在した炭鉱社会をテーマにした。そして「その炭鉱社会とはいかなるものであるか」、「それが今現在に伝えている歴史的意義は何か」、「旧産炭地の未来への展望」の主な三点の問いを設定している。その問いを解明していく具体的アプローチとして以下の手法をとっている。
 簡潔に述べれば、「石炭産業やその資源の産出」といったハードな側面だけでなく、「石炭を産出していた炭鉱という社会で日々紡がれていた、そこに住む人々、人間同士の交流や、生活の営み」といったソフトな側面にも視点を当てるということである。
 「歴史」というものは、視点を当てる対象を変えることで、異なった像も浮かび上がってくる。また人文科学という学問は、「連綿と続いているヒトとヒトとの関係性や、一人一人の営みについて考察し、今現在の技術革新という潮流にあっても、人の輪の重要性を率先して提唱していく」学問であると解釈している。
 以上から今回、先述のアプローチをしたわけであるが、実際に日常生活史像に迫っていくことは字面以上に難しい。
 今回の論文では「当時の映像や写真」、「実際に炭鉱内で働いていた労働者が描いた炭坑画」、「当時炭鉱社会に住んでいた人々の証言」などの一次史料も用いたが、信憑性の有無の面に加えて、断片的であるという面で、あつかい方が一筋縄ではないと考えさせられた。歴史的に見て、人々の日常生活は連綿と現在まで続いている「連続性」という特徴がある一方で、残されている資料は一つ一つが断片的であるという矛盾に陥ってしまう事例の一つであろう。
 以上のような方法にて端島炭鉱と筑豊炭田の両炭鉱社会を分析してみて以下のことが分かった。
 炭鉱は三菱や三井などの財閥が管轄する大手炭鉱と、中小炭鉱が存在していたが、総じて地上では日常生活に必要な物が揃い、教育や医療施設が整えられるなど、完結した都市空間が形成されていた。
 また、石炭と運命を共にする、限りのあるコミュニティーであったが、やはり国家の産業発展の基盤となり、石炭産出の面では日本の心臓部をなしていると同時に、閉鎖性という特長を活かした人間関係や交流がある程度は実現されていた社会であったと考えられる。
 以上のように成果と同時に課題も見つかったので、今後はその課題をふまえて研究に励んでいきたいと考えている。
 最後に今後は、炭鉱と同じ鉱山カテゴリーである金銀山をテーマにし、本論文で行なった分析やアプローチを更に発展させる形で、研究を進めていき、良い研究業績を残せるよう日々頑張っていきたいと思っている。



ブラボ・アルファロ・パブロ(川村ゼミ)
16世紀の日本におけるイエズス会の宣教」
 本報告では、16世紀の日本におけるイエズス会の宣教活動(1549年から1598年まで)がどのような流れで行われ、どのような宣教方針が採られたか、その上でイエズス会士がどのような問題に直面したかということについて述べられた。
 16世紀におけるイエズス会の日本宣教は四つの期間に分けることができる。最初の期間は1549年から1551年まで、フランシスコ・ザビエルの日本滞在期であり、宣教活動の始まりとなっている。
 次の期間は1551年のザビエルの出航で始まり、コスメ・デ・トーレスの指導と宣教方針でイエズス会の宣教が発展し、1569年にルイス・フロイスが織田信長に謁見したことで終わる。
 それから、1569年から1582年までの期間は織田信長の政権とイエズス会の宣教の最も繁栄した時期となった。
この期間はフランシスコ・カブラルとアレッサンドロ・ヴァリニャーノの敵対が含まれ、そして天正遣欧少年使節派遣を経て、1582年に本能寺の変での織田信長の死亡で終わる。
 最後の期間は1582年から始まり、豊臣秀吉の政権とキリシタンへの敵意、
そしてイエズス会の宣教が衰退し、他の修道会が日本に到着し、サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教が起こり、1598年に豊臣秀吉の死亡で終わる。
 質疑応答では、主に織田信長とイエズス会の関係について様々な意見が述べられた。
加えて、イエズス会の宣教方針の一つの「適応主義」に関して質問が寄せられ、
イエズス会士が説教の時どのように仏教の観念を使っていたかについて具体的な例を挙げた。


伊東龍介(井上ゼミ)
「ナチズム成立の要因~歴史的事実と思想家の解釈を手掛かりにして~」

 本報告は、ナチス・ドイツの成立要因を思想家の解釈を基にして考察を試みた。
特にワイマール共和国成立期から、ナチ党が独裁政権を得るまでを対象とし、プロパガンダや選挙結果など、詳細に渡って分析することで、ナチスの「合法的」行為に着目した。 
 別の章では、H・アーレント『全体主義の起原』、K・ヤスパース『われわれの戦争責任について』、E・フロム『自由からの逃走』などを扱い、これらの研究者の解釈を分析することで、ドイツ人のもつ「全体主義的な性格」やドイツ国が全体主義の育つ土壌であったと考察した。
 総括として、ナチス・ドイツの成立要因を三つ挙げた。
 一つ目は、ワイマール共和国時代の政治における小党乱立状態であり、右派左派関係なく「ヴェルサイユ条約の破棄」や「マルクス主義者の打破」といった同じ目標を掲げていたという、ある種の八方塞がりな状況にあるという点。
 二つ目は、従来のナチス研究でも述べられているように、ナチ党の「合法的」かつ巧みな政治戦略によるという点。
 三つ目は、ドイツ国民の中に、強い権力にすがることで安心感を得るような「権威主義的」な性格にあるという点。
 以上の要因が成立に大きく起因していると考えられると結論を出した。
本稿のように、ナチズムの根幹にせまる場合、あらゆる分野からのアプローチが必要であるということが分かる。
 質疑応答では、本稿において、従来の研究とどのように異なった解答が得られたのか、という指摘がなされた。
本稿では、従来の解釈を踏襲することが多く、単にうまく「まとめ」られただけに過ぎないのではないかとも言える。
 今後は、広すぎるテーマをあつかうのではなく、狭い領域を扱い、オリジナルな解答を出せるように邁進していく。


高橋晶彦(井上ゼミ)
「ドイツ国家人民党の思想的変遷とフーゲンベルク」

 ドイツのワイマール共和国時代に存在した国家人民党は、特に右寄りのブルジョワ政党であり、政府反対派としての活動を目に見える形で行い、ヒトラー内閣成立において、極めて重大な役割を果たした。
 しかし、最終的な運命は、他の政党と同じくナチ党の一党支配体制のなかで淘汰されるというものになった。
 こうした事情から、ナチ党を、ワイマール時代の新ナショナリズム的要素の現れと見た場合、国家人民党にはそれと対比して、旧ナショナリズムの権化、伝統的保守主義の結集とみられる傾向にあるように思われる。
 これについて、国家人民党の政治的活動や、思想面での変遷を見分しつつ、実際のところこの党の立ち位置がいかなるものであったのかという事について、考察したのが本論文であるとした。
 実際のところ国家人民党は、詳細にみると、非常に起伏のある活動を行っており、
思想面についても、当初の伝統的保守派が指導する混沌状態から、フーゲンベルクの独自の方針による指導という状態まで、大きく変動している。
 このような事情を考慮して、この党が、ナチスと対比しての伝統的保守派という立ち位置になるのは仕方のないことだとしても、単純な政府反対派、旧ナショナリズムの権化とは一概には言えないものと考えられ、その取扱いには更なる注意が払われるべきではないかと考える。
 さらに進んで、ワイマール時代の他の政党と同じく、状況の変動に左右された、一つの政党に過ぎなかったとすることも可能であるように考えると述べた。
 質疑応答においては、国家人民党の弱体化には組織面での問題があったのではないか、フーゲンベルクの思想というものは、当時としても異質だったのではないかというような指摘がなされた。



2017/01/31

上智大学史学会第66回大会公開講演



  20161120日(日)1430分から上智大学7号館特別会議室において開催されました、
上智大学史学科教授大澤正昭氏、上智大学史学科非常勤講師大川裕子氏、
東京外国語大学AA研共同研究員村上陽子氏による、
上智大学史学会第66回大会公開講演の模様を掲載させて頂きます。








大澤正昭氏(上智大学史学科教授)
 大川裕子 氏(上智大学史学科非常勤講師)
 村上陽子 氏(東京外国語大学AA研共同研究員
 
「明清時代の二つの農書――現地調査を踏まえて、環境的制約とその超克を考える――」

本講演では現在問題とされる中国の食糧問題を出発点とし、明清時代の二つの農書と現地調査を手がかりに中国前近代農法の到達点を明らかにしたうえで、農業の再評価をしてみることが主題とされた。
 まず、大澤氏から今回取り扱う『農言著実』と『補農書』に関する概略が示され、前者が乾燥強風地域である黄土高原での農業について書かれた農書であり、後者は一般には湿潤とされる太湖デルタ地域について書かれた農書であることを確認した。
 それを踏まえた上で『農言著実』の舞台である陝西省の三原県については村上氏から、
『補農書』の舞台である桐郷周辺については大川氏から、それぞれ現地調査の内容について地図や写真等を交えながら報告が為された。
 北部の調査に関しては『農言著実』に記述されるような農具・作物などが三原県付近の農村に残存していたため実りの多い調査となった一方で、南部の浙江省の桐郷周辺では開発による地形の変化や伝統農法の後退などにより史料とのすり合わせが難しい部分もあり、課題の残る調査となったという見解が示された。

 その後、大澤氏から現地調査の成果と農書の記述に関する具体的な考察がなされ、
それぞれの地域での個別の環境に対応するために様々な技術が生み出されていたことが指摘された。
 しかし、南部に関しては『沈氏農書』と『補農書』の間でも前者が水害、後者が旱害の克服を主要な課題としている点などから、湿潤な江南地域というイメージのみに縛られず、より細かい地域ごとの環境の差異に目を向けることが必要であると指摘された。
最後に、大澤氏は二つの農書に関して、前近代農法の到達点として多肥集約農業などの優れた技術が紹介されているという共通点がある一方で、作物や社会的分業の度合いに関しては南北で大きく異なる点があるとし、双方が「糞多力勤」を志向しながらも色合いの異なる農業経営が為されていたことを確認した。

 その上で現状の中国が抱える食糧問題については持続可能な再生産構造をより高度な次元で模索していくことが必要であろうとし、今後の研究や社会に対して新たな展望を示す形で講演は締められた。