2016/01/14

上智大学史学会第65回大会

2015年11月22日(日)上智大学7号館文学部共用室において、上智大学史学会第65回大会が行われました。大会は以下の要領で開催されました。このブログでは、各部会研究発表および、上智大学名誉教授中井晶夫氏による公開講演の模様を載せさせて頂きます。


第一部会(日本史) :共用室C

・堅田智子 氏 (上智大学大学院)
「「法学徒」としてのアレクサンダー・フォン・シーボルト 
    ―条約改正交渉における外国人判事任用と帰化法をめぐって―」

・川村信三 氏 (上智大学教授)
「バチカン図書館古文書調査  ―マレガ・プロジェクトに参加して―」

・中村航太郎 氏 (上智大学大学院)
「平安期陰陽師の職能の伝習と修得  ―「相地」をめぐる変遷から―」







第二部会(東洋史) :共用室D

・酒井駿多 氏 (上智大学大学院)
「漢代の羌  ―主に分布と移動に関して―」

・松浦晶子 氏 (上智大学大学院)
「北宋中期の雅楽改定」

・厳琳 氏 (上智大学大学院)
「『夷堅志』に見える宋代の巫覡」

・中島良江 氏 (上智大学大学院)
「承徳の普陀宗乗之廟、万法帰一殿と、スウェン・ヘディンによる調査」







第三部会(西洋史) :共用室A

・奥山広規 氏 (広島商船高専非常勤講師)、西山要一 氏 (奈良大学名誉教授)、
 豊田浩志 氏 (上智大学教授)
「オスティア遺跡「七賢人の部屋」の文字情報をめぐって」

・石川柊 氏 (上智大学大学院)
「中世デンマークの対エストニア関係の変遷
 ―ルンド大司教エスキルの宣教計画を中心に―」

・宮原愛佳 氏 (上智大学大学院)
「F・ハルコルト著『下層階級の市民化と解放の障害についての所見』の考察
                     ―三月前期の「社会問題」に対する一市民の見解―」

・山﨑由紀 氏 (敬和学園大学准教授)
「1920年代初頭のアメリカにおける日系人カトリック宣教移譲をめぐる問題」







公開講演:上智大学7号館特別会議室

14時30分からは公開講演が行なわれました。講演は、上智大学名誉教授中井晶夫氏による「昭和20年代の上智大学史学科と私の研究の歩み ―スイスの第 1 次世界大戦関係史料を中心に―」でした。





2015/11/14

大学院入試説明会

 12月17日(水)に、上智大学7号館にて、上智大学院文学研究科史学専攻の入試説明会が開催されます。詳細は以下のポスターを参照してください。








2015/11/10

2015年度10月例会

2015年10月10日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学史学科の卒業生であり上智大学文学部保健体育研究室教授である師岡文男氏による「体育・スポーツ科学と歴史学」、史学科の卒業生であり学会員である井野睦子氏による「均等法以前、そしてサウジアラビアへ」でした。


 師岡文男氏は1976年に上智大学史学科を卒業され、今回は同氏が在学、教員として戻ってこられた1970年代の上智大学の姿を振り返り、大学院以降研究テーマとされ多くの活動を通じ携わってこられている体育学と、その研究の骨子として活きる歴史学の素養について語った。少年時代の体験からユースホステルという若者を中心とした人々の交流の場への強い関心を抱いてきた師岡氏は、上智大学に在籍した4年間に史学科内、さらには大学全体にも及ぶ学生・教員間の交流の輪を広げる新たな活動に意欲的に取り組まれてきた。史学科内では思想の有無・上下関係にとらわれず多くの学生との交流を通じ、「歴史学という基本を学び、その研究対象を探す」という生き方を知ったと語った。さらに当時学生運動が未だ尾を引く社会背景の中、大学祭を学生・教員全体が楽しめる場として企画・運営することに着手し、その中にはミス・ミスターコンテスト等現在も継承されている催しがあったことについても話された。
 また師岡氏は体育学の側面から、「スポーツ」がその語源から「娯楽」の意味合いを含み、その存在・歴史が身体運動に留まらず社会・時代背景と作用し変質しえるものであるとした。そしてスポーツを通じて得た協力・尽力・挫折などの経験は、情報氾濫に伴う「成功体験の保証の時代」である現代において人間らしさを支えるものとなりえ、この点でも上智大学のfor others with othersの精神と結びつくものがあると語った。こうした眼差しから、教員として母校に在籍される中で、フライングディスクを導入し学生がスポーツを楽しめる環境作りに着手され、後に学内に留まらず世界選手権のアジア初招致を実現させたことについても語られた。そしてスポーツに対し、二度の東京五輪で起こる日本の変化に着目する視点等、研究対象と向き合う上で、歴史学的な原理・過程を見据え史料に向き合うといった手段やセンスが大いに活かされていると語った。
 質疑応答では氏の在籍時の史学内での学生運動の余波について、さらに教員として携わった大きな出来事であった上智大学派遣のインドシナ難民保護施設へのボランティア参加の体験についても語られた。


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 井野睦子氏は1981年に上智大学を卒業された。今回は、在学時の体験や当時の女子学生の状況、そして、ご家族の赴任に同行して滞在していたサウジアラビアでの生活について語った。 
 在学中の印象的な体験として、アンセルモ・マタイス先生の企画したインド・ヨーロッパ移動合宿が挙げられた。その合宿での移動中にイラン・イスラム革命が勃発し、予定していたテヘランではなくエジプトに着陸することになってしまったが、そのような状況において、エジプト滞在の助けとなったのが、イエズス会のネットワークであった。また、この移動合宿の参加者は、半年以上かけて事前の勉強会を行い、ともに過ごすことで人間関係を築いていったこと、そしてスペインでは、マタイス先生のご兄弟のご家庭に分宿して家族ぐるみで交流を深めたことなどが語られた。 
 次に、当時の女子学生の就職状況について述べた。当時は均等法施行以前のため、特に四年制大学の女子には厳しい状況であり、また就職したとしても結婚後に退職する人が大多数の時代であったが、公務員や外資系企業などに就職した同級生達は現在も活躍していることが語られた。また、留学や海外駐在など何らかの形で海外に出る人も多く、井野氏も家族の仕事の都合で海外に出ることになったと述べた。 
 サウジアラビアでの生活については、外国人がまとまって居住するコンパウンドでの生活について述べた。2001年の同時多発テロを機に、コンパウンドがテロの標的になるようになり、非常時への備えは常に意識していたという。また、コンパウンドでは様々な国から多様な背景を持った人々が暮らしており、そのような環境に順応し、多様性を受け入れることができたのは、上智大学在学中に得た経験のお陰であると語った。 
 最後に、上智大学の恩師や卒業生のネットワークについて、海外駐在時や帰国後など、あらゆる場面で互いに助け合うことができたため、このことは非常に強みであると語った。

2015/08/16

2015年度7月例会

2015年7月11日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学史学科の卒業生であり前史学科ソフィア会会長である日下幸雄氏による「断簡雑話」、史学科の卒業生であり学会員である林紀美子氏による「上智初期女子学生とその後」でした。



 日下氏は、自身の歴史観とともに、半生を振り返った。もともと歴史が好きで、頼山陽の『日本外史』などを読んでいた。当時読んだ歴史の概説書は各王朝等の業績を年代順に書き著したものが多く、読み物としては、『三国志演義』や歴史小説の方が面白く感じた。しかし我々は、このような文学作品を読む際、クリティックをしながら資料を読まなければならないと述べた。文学の視点から見た歴史は、ある程度当時の時代背景を踏まえたうえで、実に理解しやすく物事が描かれている。ところが、歴史学者は、記録や証拠などの裏付けができない限り断定はできない。我々は、歴史小説を読むことで、その時代を理解しようとしてしまうが、小説内の細かな出来事や言葉は、事実とは無関係である。歴史家は、文献史学を志す以上、文献に基づいて歴史を証明しなければならないため、知れば知るほど、歴史を確定、断言していくのは難しいと述べた。
 次に、日下氏が「歴史」の面白さを本当に理解したきっかけである、ハーバート・ノーマンの『日本における近代国家の成立』との出会いを述べた。この著作は、年代順に積み上げていく歴史記述とは異なり、歴史を機能的に捉え、考察していく方法で記されていた。氏は院生時代にこの本と出会い、機能的な考え方を身につけることで、歴史学への向き合い方を理解できたとした。
 大学院での研究テーマは、日本はヨーロッパ文明をいかに受容してきたかという問いであった。社会学者のハーバート・スペンサーの著作を中心に、日本人にスペンサー等の著作が読まれていたのではないかと考え研究を進めた。結果としては、当初の目論見は外れ、日本では、スペンサーの本が読まれた形跡や、影響がなかった。江戸末から明治の初期の日本は、船の作り方や、鉄砲の仕組み等の実学的なものへの興味が向いており、ヨーロッパ文化の社会学的な部分を吸収するにはまだ早い段階であったという結論に達した。
 上智大学には、非常に感謝しており、for others with others の考えをつくづく実感し、我が大学がそういった理念を掲げていることに誇りに思っていると述べた。


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 林紀美子氏は1964年に上智大学を卒業され、今回は上智大学の女子学生について、そしてご自身のことについて語った。林氏は在学中、西洋史、特にイスラエル建国史に興味を持ち、ドイツ語を選択していた。このドイツ語クラスは経済学科など史学科以外の学科と混合したクラスで、このクラスでは女子生徒は数人であった。しかし、1964年の史学科は3分の2が女子生徒であり、それまでの年とは異なり女子生徒が非常に多かったことを、大島館など当時の女子生徒の生活についての話を交えて語った。また、当時の史学科の同級生の女性の現在についても話された。コロンビア在住で画家になった友人や、ハワイ在住で夫がロシア正教の司祭で本を出版した友人、弓道の家元の出身で結婚・子育の後に実家に保存されていた古文書を現代語訳している友人など、その活躍を語った。
 また、林氏自身の人生は波乱に富んだものであった。上智大学在学中にイスラエルについて専門に学んだこともあり、イスラエルに留学した。10カ月間語学学校に通ったが途中で第三次中東戦争が始まり、急いでイスラエルを出国し、戦争が終わるまで1カ月程キプロスに滞在したという。そしてその後はドイツへ留学した。ドイツに決めた理由には日本の商社が多かったこと、当時成長していたドイツ経済の解明、自身の卒業論文においてナチス時代のドイツを取り扱ったこと、などが挙げられた。西ベルリンの大学に通ったが、現地は3分の1が学生、3分に1が年金で暮らしており、学生はとても優遇される場所であったことなどユーモアを交え語った。そして1970年に帰国し、上智の学生時代に社会科とドイツ語の教員免許を取っていたこともあり、約20年間、日本語教師として活躍された。


2015/07/20

2015年度6月例会

2015年6月20日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院博士後期課程生である杉浦廣子氏による「李覯における『天』観の再評価」、本学の学会員であり現在早稲田大学で助手をされている柳下惠美氏による「イザドラ・ダンカンの舞踊芸術の形成とその普及」でした。


杉浦氏からは、北宋の儒学者である李覯の天人観について報告がなされた。先行研究において、李覯の思想は『荀子』の影響が強く、『孟子』に批判的な正名派寄りの思想と考えられることが多いという点を挙げ、李覯の思想を考えるうえで、『荀子』の「天」理解と人性論とのかかわりをより細かく見ていく必要があると杉浦氏は説明した。検討の結果、李覯は基本的には儒教本来の「天」観を継承したうえで、神秘主義に偏りすぎた部分を正していったことがわかった。また、人民の教化に関しても、『荀子』に基づいて「礼」を規範とした教化を考えているが、その実現のために打ち出された富国強兵策などを考慮すると、『孟子』的な要素が多分に含まれていることも否定できないとした。先行研究で類似性が指摘されていた王安石の『周礼』に基づく新法政策との関わりについても、出発点が富国であるか民衆教化であるかという違いがあることを示された。
総括として、李覯の思想は単に『荀子』を支持し、『孟子』を排撃するという単純な構造ではなく、当時の宋王朝が直面していた政治的・宗教的な問題への対処として、さまざまな諸子思想を取り入れることで、新たな潮流を模索していたと考える必要があると結論付け、李覯の思想研究をより深めていく意義を提示した。
質疑応答では、李覯等当時の儒家が道教などの諸宗教からも影響を受けているとするならば、宋代の各宗教の状況も同時に細かく検討していく必要があるのではないかという指摘があった。断片的なエピソードとしては見受けられるものの、経典レベルでの関係に関してはより深く検証していかなければならないとした。また、李覯の政界での立ち位置についての質疑もなされ、李覯に関する研究をどのように位置づけるかなど、研究史においても有意義な意見交換が交わされた。


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アメリカ人舞踊家イザドラ・ダンカンIsadora Dunkan(1877-1927)は、19世紀末から20世紀にかけて活動した近代ダンスの始祖であり、裸足で踊るスタイルが特徴的な人物である。柳下恵美氏は、博士論文「イザドラ・ダンカンの舞踏芸術の形成とその普及―彼女と継承者たちの国際的公演・教育活動を中心に―」(三部構成)のうち、第一部にあたるダンカンの舞踊芸術の構築と国際的な公演活動を中心に報告した。
 10代前半から舞踊を披露していたイザドラは、1899年にロンドンに活動の拠点を移し、サロンで自身の舞踊に対する評価を獲得していった。彼女は、大英博物館のギリシアの壺から、ギリシア的な舞踊を考案した。裸足の舞踊が有名なダンカンだが、当時はまだサンダルを履いており、1900-1902年のパリ時代に川上貞奴の踊りを見て裸足の舞踊が確立したということを、柳下氏は資料調査により実証した。パリの一座を去ってドイツなどでソロ公演を始めたダンカンは、公演活動や舞踊理論の講演により、自身の踊りを「芸術」へと昇華させることに成功し、「聖者イザドラ」と呼ばれた。1908年のアメリカでの公演も大成功に終わった。しかし、ロシア移住後の1922年には、自らの言動により、西側世界から共産主義者との烙印を押され、アメリカ公演の後半やヨーロッパ帰還後のドイツ公演は失敗している。1927年に行ったパリのモガドール劇場での公演を最後に、ダンカンは事故により50歳でこの世を去った。
 質疑応答では、ダンカンの時代のアメリカの舞踊がどのようなものだったかという質問や、ダンカンが追い求めた「自然」は、その思想潮流が後年ナチズムにも流れていく歴史を考慮すると、問題がなかったのか等について指摘があった。それに対する応答として、アメリカの舞踏は大道芸のような余興であったと、映像を示しながら紹介し、また、ダンカンの支援者には実際にナチス党員もいたことを説明した。

2015/06/17

大学院入試説明会

 7月8日(水)に、上智大学7号館にて、上智大学院文学研究科史学専攻の入試説明会が開催されます。詳細は以下のポスターを参照してください。





2015/06/13

2015年度5月例会

  2015年5月30日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学史学科の卒業生であり学会員である元川士郎氏による「近世ポルトガルの異端審問制とその社会的影響―ある新キリスト教徒の審問とその後―」、本学名誉教授である磯見辰典氏による「私とベルギー」でした。




元川氏の報告は、1536年に導入されたポルトガルの異端審問制について論じる内容のものであった。元川氏は、まずポルトガルへの異端審問制導入の過程について論じ、導入要因としてスペインのユダヤ人追放令によるポルトガルへのユダヤ教徒の大量流入を挙げた。そして、ポルトガルの異端審問制がユダヤ人の追放を目的とするスペインの異端審問制と異なり、同化政策を目的としていた点に注目し、17世紀のリスボンの商人であったフェルナオン・アルヴァレス・メロの異端審問の判決申し渡しの儀式(アウト・ダ・フェ)を具体的に取り上げて論じた。その上で、裁判におけるメロの行動から、ポルトガルの異端審問制の導入目的や中世異端審問制との相違点、異端審問制が遺した影響などについて考察していた。また、ユダヤ系カトリック教徒をポルトガルの新キリスト教徒として位置づけ、最終的には、国民の統合やナショナリズムの醸成を促進し、大規模な暴動や宗教間の争いなどの発生を抑制したことを、異端審問制がポルトガルにおいて遺した影響として主張した。
質疑応答では、実際の異端審問に関与したのはどの教団であったのかという質問や、同化していた人々を排除することにどのような意味があるのかといった様々な質問がなされた。報告者からはそれぞれについて、アウト・ダ・フェでは主な教団としてドミニコ会が関与していたことや、異端審問制には異端を同化させる目的だけでなく財産没収の側面もあったなどといった回答がなされた。


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 磯見氏はまず、ベルギーに出会うまでの道のりを語った。名古屋の幼年学校を経て、上智大学の史学科へ入学した磯見氏は、方向性に迷いながらも当初はキリシタン史に積極的に取り組んだと言う。最終的には、その語学力を活かして、本格的にフランス史の世界へと移ることになる。それから教員として上智大学に戻ったのち、留学先に関し神父たちから強い薦めを受け、磯見氏はベルギーに渡ることとなった。

 次に、留学先ベルギーのルーヴァン・カトリック大学での思い出が語られた。ここで磯見氏は恩師エミール・ルース氏に出会う。ルース氏は磯見氏に多大な学問上の影響を与えることとなった。この学恩の一例として、三十年戦争勃発時の神聖ローマ皇帝であったマティアス(在位1612~19)の研究へ導かれたことが挙げられた。またかつてルース氏が会長を務めていた議会制度史学会との長きにわたる関わりについても、磯見氏は恩師の記憶とともに感慨深げに回想した。磯見氏のベルギーとの関係はこの後、戦前に長く駐日ベルギー大使を務めたバッソンピエールの手記の翻訳や、共著『日本・ベルギー関係史』の出版など、多様なかたちで結実することとなる。
 またさらに史学科の卒業生との交流を現在でも大切にしていることも強調された。来場していたOG・OBの方々からも磯見氏の思い出が挙げられ、50歳を過ぎてから始めた劇団「くるま座」の演劇活動、また再建と発展に貢献した大学サッカー部に関する当時の事情も語られた。ほぼ30名にも及ぶ来場者たちはこうした貴重な回顧に終始耳を傾けた。上智大学史学会創立65周年の節目にあたり、その足跡を振り返る企画における最初の講演としてもたいへん意義深いものとなった。