2017/05/10

2017年度前期院生総会・卒業論文発表会

 2017年度前期院生総会ならびに卒業論文発表会が4月22日に開催されました。
 新たに院生会へ加入した6名の新入生による熱のこもった発表が行われましたので、
以下、発表者氏名と所属ゼミ、ならびに卒論の題目を報告内容を紹介いたします。

宇仁菅啓(中澤ゼミ)
「中世の人々の身体と身体技法の多様性」

 本稿は、主に"多様性"を念頭に置いた二つのテーマから考察している。
 一つ目は身分や職能の差による身体、身体技法の多様性である。
現代でもスポーツ選手を見ても何のスポーツを行っているかによって身体やその技法には差が見られるし、職業病という言葉もある。これと同じことが中世の様々な身分や職能の人々にも見られたのではないか。
その点を本稿では職人という身分に注目、『七十一番職人歌合』という史料を主に参考にして考察した。
 二つ目は、走行法、歩行法についての中世の人々における多様性である。現在、我々は歩いたり走ったりする時は左右の手足を交互に出す。しかしこの技法は明治時代の政府の近代的な軍隊、労働者育成のための調練の結果なのであって、それ以前はナンバの動きも含む多様性があったと考えられる。その点について主に絵画史料を利用し考察した。 
 結論として、やはり身分や職能の差や、走行法、歩行法において、問題提起通り、多様性を確認した。
 しかし今回は反省点が多々ある。一つ目は絵画史料の扱いだ。本稿では絵画史料を詳細に読み込んだのであるが、描写されたものをそのまま写実的なものとして扱ったのである。通常、絵画史料の作者つまり絵師にはなんらかのイデオロギーがあり、そのため必ずしも写実的に描いたとは言えない。絵画史料自体の取り扱い方に今後気を付けなければならない。
 また、非常に絵画史料偏重で文字史料が使用できていない点もある。本来は絵画史料の描写を文字史料で根拠付けていくのが理想だが、文字史料が今回のようなテーマだと希少であまり見つけられなかったのである。文字史料も扱っていかないと根拠付けていくことができない。この点も今後の大きな課題である。
 修士一年目ではひたすら身体に関する文字史料の収集に努めようと考えている。


木下有(長田ゼミ)
「日本にとって日独伊三国同盟締結の目的はなんだったのか」

 本論文では、日独伊三国同盟締結までの経緯を追うことで、日本にとっての日独伊三国同盟締結の意味はなんであったのかを問うた。「アジア太平洋戦争」の原因の一つである日独伊三国同盟について、「挟撃」というキーワードで、ソ連・ドイツ・アメリカ・日本から見た三国同盟締結時の状況を考察した。
 ソ連にとっては、日本と独伊によるユーラシア大陸を挟んでの「挟撃」であり、日独伊防共協定の強化である。三国同盟の条文に「独ソ不可侵条約に影響を与えない」と、ソ連は三国同盟の対象ではないとうたっていても、ソ連は疑念を抱かざるを得ない。
 三国同盟が目的としたアメリカ牽制は、大西洋と太平洋に挟まれたアメリカをドイツと海軍国である日本が「挟撃」し、牽制するものである。
 しかしながら、潜水艦と少数のポケット戦艦しか保有しないドイツの海軍力では、
日本にとってメリットのないものであった。
 ドイツにとっては、アメリカの「第二次欧州大戦」への参戦を防止するため、
日本の海軍力を利用できるものであった。
 日本は、北にソ連、南にアメリカ(フィリピン)に挟撃される状態であった。
このような状況について、駐米大使となる前の野村吉三郎発言
(1940年8月26日の松岡外相との会談記録)を引用すれば、
1.支那事変は当分解決できない
2.ソ連は油断ならない
3.この状況で対米開戦すれば、長期戦となり、中ソに乗じられる
4.よって対米牽制には限界があり、対米協調策をとるべきである
5.アメリカはドイツとは協調しない(日本単独でないとアメリカは協調しない)
となり、
「ドイツを滿足せしめんが爲に日本海軍が此の際米國海軍と戰ふが如きは禁物なり」
となる。
 結論として、アメリカを牽制するという瀬戸際外交に必要な、対米戦争にならないぎりぎりの線を見誤るなど、松岡外相と外務省は対米情報収集において致命的な誤りを犯したといえる。
 質疑応答では、「なぜ野村吉三郎は正確な判断を下せたのか」との質問があった。
この問いを深く掘り下げていけば、当時の日本の指導者がなぜ誤った判断をしてしまったのかを解明するヒントになると思われ、今後の課題としたい。



上田良(長田ゼミ)
「時空を越えて語り継がれる炭鉱社会の記憶について
―炭鉱社会が今現在に伝えているものと、旧産炭地の未来への展望―」


 本報告では、かつて存在した炭鉱社会をテーマにした。そして「その炭鉱社会とはいかなるものであるか」、「それが今現在に伝えている歴史的意義は何か」、「旧産炭地の未来への展望」の主な三点の問いを設定している。その問いを解明していく具体的アプローチとして以下の手法をとっている。
 簡潔に述べれば、「石炭産業やその資源の産出」といったハードな側面だけでなく、「石炭を産出していた炭鉱という社会で日々紡がれていた、そこに住む人々、人間同士の交流や、生活の営み」といったソフトな側面にも視点を当てるということである。
 「歴史」というものは、視点を当てる対象を変えることで、異なった像も浮かび上がってくる。また人文科学という学問は、「連綿と続いているヒトとヒトとの関係性や、一人一人の営みについて考察し、今現在の技術革新という潮流にあっても、人の輪の重要性を率先して提唱していく」学問であると解釈している。
 以上から今回、先述のアプローチをしたわけであるが、実際に日常生活史像に迫っていくことは字面以上に難しい。
 今回の論文では「当時の映像や写真」、「実際に炭鉱内で働いていた労働者が描いた炭坑画」、「当時炭鉱社会に住んでいた人々の証言」などの一次史料も用いたが、信憑性の有無の面に加えて、断片的であるという面で、あつかい方が一筋縄ではないと考えさせられた。歴史的に見て、人々の日常生活は連綿と現在まで続いている「連続性」という特徴がある一方で、残されている資料は一つ一つが断片的であるという矛盾に陥ってしまう事例の一つであろう。
 以上のような方法にて端島炭鉱と筑豊炭田の両炭鉱社会を分析してみて以下のことが分かった。
 炭鉱は三菱や三井などの財閥が管轄する大手炭鉱と、中小炭鉱が存在していたが、総じて地上では日常生活に必要な物が揃い、教育や医療施設が整えられるなど、完結した都市空間が形成されていた。
 また、石炭と運命を共にする、限りのあるコミュニティーであったが、やはり国家の産業発展の基盤となり、石炭産出の面では日本の心臓部をなしていると同時に、閉鎖性という特長を活かした人間関係や交流がある程度は実現されていた社会であったと考えられる。
 以上のように成果と同時に課題も見つかったので、今後はその課題をふまえて研究に励んでいきたいと考えている。
 最後に今後は、炭鉱と同じ鉱山カテゴリーである金銀山をテーマにし、本論文で行なった分析やアプローチを更に発展させる形で、研究を進めていき、良い研究業績を残せるよう日々頑張っていきたいと思っている。



ブラボ・アルファロ・パブロ(川村ゼミ)
「16世紀の日本におけるイエズス会の宣教」
 本報告では、16世紀の日本におけるイエズス会の宣教活動(1549年から1598年まで)がどのような流れで行われ、どのような宣教方針が採られたか、その上でイエズス会士がどのような問題に直面したかということについて述べられた。
 16世紀におけるイエズス会の日本宣教は四つの期間に分けることができる。最初の期間は1549年から1551年まで、フランシスコ・ザビエルの日本滞在期であり、宣教活動の始まりとなっている。
 次の期間は1551年のザビエルの出航で始まり、コスメ・デ・トーレスの指導と宣教方針でイエズス会の宣教が発展し、1569年にルイス・フロイスが織田信長に謁見したことで終わる。
 それから、1569年から1582年までの期間は織田信長の政権とイエズス会の宣教の最も繁栄した時期となった。
この期間はフランシスコ・カブラルとアレッサンドロ・ヴァリニャーノの敵対が含まれ、そして天正遣欧少年使節派遣を経て、1582年に本能寺の変での織田信長の死亡で終わる。
 最後の期間は1582年から始まり、豊臣秀吉の政権とキリシタンへの敵意、
そしてイエズス会の宣教が衰退し、他の修道会が日本に到着し、サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教が起こり、1598年に豊臣秀吉の死亡で終わる。
 質疑応答では、主に織田信長とイエズス会の関係について様々な意見が述べられた。
加えて、イエズス会の宣教方針の一つの「適応主義」に関して質問が寄せられ、
イエズス会士が説教の時どのように仏教の観念を使っていたかについて具体的な例を挙げた。


伊東龍介(井上ゼミ)
「ナチズム成立の要因~歴史的事実と思想家の解釈を手掛かりにして~」

 本報告は、ナチス・ドイツの成立要因を思想家の解釈を基にして考察を試みた。
特にワイマール共和国成立期から、ナチ党が独裁政権を得るまでを対象とし、プロパガンダや選挙結果など、詳細に渡って分析することで、ナチスの「合法的」行為に着目した。 
 別の章では、H・アーレント『全体主義の起原』、K・ヤスパース『われわれの戦争責任について』、E・フロム『自由からの逃走』などを扱い、これらの研究者の解釈を分析することで、ドイツ人のもつ「全体主義的な性格」やドイツ国が全体主義の育つ土壌であったと考察した。
 総括として、ナチス・ドイツの成立要因を三つ挙げた。
 一つ目は、ワイマール共和国時代の政治における小党乱立状態であり、右派左派関係なく「ヴェルサイユ条約の破棄」や「マルクス主義者の打破」といった同じ目標を掲げていたという、ある種の八方塞がりな状況にあるという点。
 二つ目は、従来のナチス研究でも述べられているように、ナチ党の「合法的」かつ巧みな政治戦略によるという点。
 三つ目は、ドイツ国民の中に、強い権力にすがることで安心感を得るような「権威主義的」な性格にあるという点。
 以上の要因が成立に大きく起因していると考えられると結論を出した。
本稿のように、ナチズムの根幹にせまる場合、あらゆる分野からのアプローチが必要であるということが分かる。
 質疑応答では、本稿において、従来の研究とどのように異なった解答が得られたのか、という指摘がなされた。
本稿では、従来の解釈を踏襲することが多く、単にうまく「まとめ」られただけに過ぎないのではないかとも言える。
 今後は、広すぎるテーマをあつかうのではなく、狭い領域を扱い、オリジナルな解答を出せるように邁進していく。


高橋晶彦(井上ゼミ)
「ドイツ国家人民党の思想的変遷とフーゲンベルク」

 ドイツのワイマール共和国時代に存在した国家人民党は、特に右寄りのブルジョワ政党であり、政府反対派としての活動を目に見える形で行い、ヒトラー内閣成立において、極めて重大な役割を果たした。
 しかし、最終的な運命は、他の政党と同じくナチ党の一党支配体制のなかで淘汰されるというものになった。
 こうした事情から、ナチ党を、ワイマール時代の新ナショナリズム的要素の現れと見た場合、国家人民党にはそれと対比して、旧ナショナリズムの権化、伝統的保守主義の結集とみられる傾向にあるように思われる。
 これについて、国家人民党の政治的活動や、思想面での変遷を見分しつつ、実際のところこの党の立ち位置がいかなるものであったのかという事について、考察したのが本論文であるとした。
 実際のところ国家人民党は、詳細にみると、非常に起伏のある活動を行っており、
思想面についても、当初の伝統的保守派が指導する混沌状態から、フーゲンベルクの独自の方針による指導という状態まで、大きく変動している。
 このような事情を考慮して、この党が、ナチスと対比しての伝統的保守派という立ち位置になるのは仕方のないことだとしても、単純な政府反対派、旧ナショナリズムの権化とは一概には言えないものと考えられ、その取扱いには更なる注意が払われるべきではないかと考える。
 さらに進んで、ワイマール時代の他の政党と同じく、状況の変動に左右された、一つの政党に過ぎなかったとすることも可能であるように考えると述べた。
 質疑応答においては、国家人民党の弱体化には組織面での問題があったのではないか、フーゲンベルクの思想というものは、当時としても異質だったのではないかというような指摘がなされた。



2017/01/31

上智大学史学会第66回大会公開講演



  2016年11月20日(日)14時30分から上智大学7号館特別会議室において開催されました、
上智大学史学科教授大澤正昭氏、上智大学史学科非常勤講師大川裕子氏、
東京外国語大学AA研共同研究員村上陽子氏による、
上智大学史学会第66回大会公開講演の模様を掲載させて頂きます。








・大澤正昭氏(上智大学史学科教授)
 大川裕子 氏(上智大学史学科非常勤講師)
 村上陽子 氏(東京外国語大学AA研共同研究員)
 
「明清時代の二つの農書――現地調査を踏まえて、環境的制約とその超克を考える――」

本講演では現在問題とされる中国の食糧問題を出発点とし、明清時代の二つの農書と現地調査を手がかりに中国前近代農法の到達点を明らかにしたうえで、農業の再評価をしてみることが主題とされた。
 まず、大澤氏から今回取り扱う『農言著実』と『補農書』に関する概略が示され、前者が乾燥強風地域である黄土高原での農業について書かれた農書であり、後者は一般には湿潤とされる太湖デルタ地域について書かれた農書であることを確認した。
 それを踏まえた上で『農言著実』の舞台である陝西省の三原県については村上氏から、
『補農書』の舞台である桐郷周辺については大川氏から、それぞれ現地調査の内容について地図や写真等を交えながら報告が為された。
 北部の調査に関しては『農言著実』に記述されるような農具・作物などが三原県付近の農村に残存していたため実りの多い調査となった一方で、南部の浙江省の桐郷周辺では開発による地形の変化や伝統農法の後退などにより史料とのすり合わせが難しい部分もあり、課題の残る調査となったという見解が示された。

 その後、大澤氏から現地調査の成果と農書の記述に関する具体的な考察がなされ、
それぞれの地域での個別の環境に対応するために様々な技術が生み出されていたことが指摘された。
 しかし、南部に関しては『沈氏農書』と『補農書』の間でも前者が水害、後者が旱害の克服を主要な課題としている点などから、湿潤な江南地域というイメージのみに縛られず、より細かい地域ごとの環境の差異に目を向けることが必要であると指摘された。
最後に、大澤氏は二つの農書に関して、前近代農法の到達点として多肥集約農業などの優れた技術が紹介されているという共通点がある一方で、作物や社会的分業の度合いに関しては南北で大きく異なる点があるとし、双方が「糞多力勤」を志向しながらも色合いの異なる農業経営が為されていたことを確認した。

 その上で現状の中国が抱える食糧問題については持続可能な再生産構造をより高度な次元で模索していくことが必要であろうとし、今後の研究や社会に対して新たな展望を示す形で講演は締められた。

2016/12/02

上智大学史学会第66回大会


 
2016年11月20日(日)、上智大学7号館文学部共用室において、
上智大学史学会第66回大会が行われました。大会は以下の要領で開催されました。

 このブログでは、各部会研究発表および、上智大学史学科教授大澤正昭氏、
上智大学史学科非常勤講師大川裕子氏、東京外国語大学AA研共同研究員村上陽子氏
による公開講演の模様を掲載させて頂きます。


第一部会(日本史) :共用室C

・渡部敦寛 氏(上智大学大学院)

「律令制導入期の家政的集団編成に関する二、三の考察

一少子・トネリ・乳母―」



・西山裕加里 氏(上智大学大学院)
「平安時代における稲荷信仰の担い手」


・佐藤諒 氏(上智大学大学院)
「満州事変以後の「協調」の模索一列強との外交を中心に-」


・照井惇也 氏(一橋大学大学院)
「陸軍大臣の権能と軍事統制の試みに関する研究
一満洲事変期の関東軍統制を例に-」



第二部会(東洋史) :共用室D

・酒井駿多 氏(上智大学大学院)
「古代中国における西方異民族とその境界」


・岡野佳織 氏(上智大学大学院)
「外国人からみた中国女性像と中国人の反応 」


・若泉もえな 氏(一橋大学大学院)
「民国前期広東省地方政権の財政と商人層の動向」


・舒暢 氏(上智大学大学院)
「1944年中国「河南民衆蜂起」の再検討 」





第三部会(西洋史): 共用室A


・藤澤綾乃 氏(慶應義塾大学大学院)
「古代末期ユダヤ・サマリア地方でのキリスト教伝播をめぐって」


・桑原真由美 氏(上智大学大学院)
「モデナ大聖堂における古代-古代石材の利用を中心に―」


・宮原愛佳 氏(上智大学大学院)
「19世紀プロイセンの企業家F・ハルコルトの社会観再考」



・山手昌樹 氏(日本女子大学文学部研究員)
「ファシスト女子の声」
 




公開講演:上智大学7号館特別会議室

 14
時30分からは公開講演が行われました。
 講演は上智大学史学科教授大澤正昭氏、上智大学史学科非常勤講師大川裕子氏、
東京外国語大学AA研共同研究員村上陽子氏による
「明清時代の二つの農書
―現地調査を踏まえて、その超克を考える―」でした。










2016/11/21

2016年度10月例会

 2016年10月29日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
 報告は、東京大学大学院人文社会系研究科准教授である長井伸仁氏による、
「上智大学の学徒出陣―その歴史と記憶―」、
上智大学国際教養学部名誉教授であるケイト・ワイルドマン・ナカイ氏による、
「戦前日本史のなかの上智大学―カトリック系大学の道のりはなにを語るか―」でした。






 長井氏は、「上智大学の学徒出陣—その歴史と記憶—」と題した報告を行った。
 1943年10月2日の「在学徴集延期臨時特例」によって、大学学生および高等学校・専門学校生徒は、それまでの徴集猶予措置を停止されて入隊するが、上智大学の学徒出陣や、大戦中の上智大学については未知の部分が大きい。
 『上智大学史資料集』(1980~93年)、創立50・75・100周年記念誌、いずれも学徒出陣についての記載はごくわずかである。
しかし、ソフィア会による調査で戦没者33名が特定されていたことが助けとなり、学籍簿や各種学生名簿、卒業証書授与簿などをもとに、当時の状況を明らかにするべく調査を試みた。
  
昭和18年度の在籍生は936名であったが、大学による公式の数値では昭和20年1月の時点で
429名が在籍しつつ「応召及び入営」と記録されている。
今回の調査では756名の出征を確認し、学部・学科や陸海軍の別、信仰についても言及した。
戦没者の割合は約9%であったこと、また戦後の復学者は391名、退学者は25名であったことや、戦時中の大学で挙行された式典等が報告された。
 1990年代以降、このような調査は大規模大学を中心におこなわれているが、上智大学では史料が多いにも関わらず、これまで研究されてこなかった。
その背景として、大学が学徒出陣にほとんど関心を寄せず、各種行事において等閑視してきたことが指摘できると結論した。

 質疑応答では、戦争の記憶を伝える元特攻隊員に、歴史学のメソッドを持ってアプローチするには残された時間は少ないという意見や、学徒出陣の調査を大学がする必要性の是非、
出征後に学生が置かれる立場の認識について等、様々な研究分野からの質疑が多くなされた。
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 ナカイ氏は戦前の大学史において、カトリック系大学であった上智大学がどのような経緯を辿ったかに関しての報告を行った。
 まず氏は、上智大学の戦前史を概観するにあたっての研究状況を明らかにし、
そこでは、上智大学についてドイツ語やラテン語で書かれている史料が多いこと、
またプロテスタント系の他大学と比較して研究が少ないことなどが問題として挙げられた。
 その上で、『上智大学史資料集』や大学史料室に保存されている書類などを使用し、
上智大学の創立の背景から戦時中までの状況を説明して分析した。

本報告では戦前高等教育の中での上智大学の位置と、国家と宗教の問題の二点からのアプローチに重きを置いている。
前者については、大学側が政府の高等教育への制度変更に応じて対応していたこと、
学生確保のため商学科を設置したことなどから、その時々の時勢に合わせて上智大学が現実的に動いていたということがうかがえるとした。
後者については、政府の宗教と教育の分割原則に沿って、戦前は大学として公にはキリスト教教育を廃し、学術的姿勢のみを表したこと、
それが後においてカトリシズムを全面に打ち出したものに変化したことが指摘された。
 また大学が戦時の神社参拝などを、宗教行為でなく世俗的儀礼として解釈するようになった事件の多義的な意味について言及した。

 質疑応答では、大学敷地内に開かれた聖堂を作ろうとする動きがあったのか、
政府との妥協的態度は仕方なく示されたものだったのかなどについて、
さらにイエズス会の行動の理由などに関しても活発に議論が交わされた。


2016/09/09

2016年度7月例会


2016年7月2日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
報告は、上智大学大学院博士後期課程生であるHernandez Vazquez, Victor Manuel 氏による、「The project of a secular church in Japan. The Jesuit seminars 1580-1614」、上智大学史学科の卒業生であり一橋大学で特任講師をされている中村江里氏による、
「日本帝国陸軍における『戦争神経症』―アジア・太平洋戦争とトラウマをめぐる政治」でした。




 Victor氏の報告では、日本の平信徒向け教会に関する研究計画について、中でも1580年から1614年の日本のイエズス会のセミナリヨに関連して述べられた。

氏は、最初に日本におけるイエズス会史を概説した。
世紀には戦乱や豊臣秀吉のキリスト教迫害などの影響により、厳しい状況に置かれていたにも関わらず、イエズス会は日本人信者を増加させていった。
 イエズス会は1570年~1580年に平信徒向けの教会を作り、日本人司祭の育成計画を進めようとしていた。
拠点となるセミナリヨは日本に三か所作られ、最初に有馬、次に豊後、そして都(京都)である。計画の中心地は1570年に大村藩によって開港された長崎港であった。
藩主の大村純忠から許可を得、日本で最初の司教座が出来て、宣教の拠点となり、最大のキリシタン都市として迫害の際にはシェルターとしての役割も果たした。
 セミナリヨでの教育は、司教を頂点とした教区組織、教会裁判権を確立させたが、1614年~1617年にセミナリヨの解体や信徒の集団の解体が行われた。
禁教以降も信仰を続けていた人々はいたが、建物や文書は残っておらず、その文書が破棄されたという記録すら残っていない。また、イエズス会は報告書を毎年ローマに送っていたが、これに関しても禁教以降のものは残っていない。
 上記のような状況を踏まえて氏は平信徒向け教会の日本人司祭の育成の実態に関して迫ろうとしていると述べた。

 研究のアプローチとしては、
①宣教師や各地の司教、ポルトガル商人、イエズス会の報告書簡など幅広い史料を利用して、様々な立場の人々のセミナリヨや日本での宣教などに対する見方に注目する、
②特に17世紀初頭の状況に焦点を当て、日本で出版されたキリスト教教義を扱った書物をもとにセミナリヨではどのような教育が行われていたのか、戦や迫害の中でのセミナリヨの役割は何だったのかを解明する、
③特例である長崎の他、都や有馬なども含めて地域ごとの教育戦略の比較を行う、
の3点が挙げられた。

 質疑応答ではカヴラルとヴァリニャーノの2人の宣教師の日本に対する見方の違いに関する質疑や、研究の方向性をさらに明確化していくための指摘がなされ、議論がなされた。

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中村氏は自身の博士論文をもとにした、「
日本帝国陸軍と「戦争神経症」−アジア・太平洋戦争とトラウマをめぐる政治−」
という題目の報告を行った。
学部時代から関心があったこと、欧米と比べ日本の研究はまだ少ないこと、
以上の二点より研究を進めるに至った。

 博士論文において中村氏は、
「時中から戦後にかけての、(元)兵士の精神疾患を取り巻く言説や構造と実態を明らかにし、戦争と精神疾患あるいは心的外傷に関する集合的記憶の不在につながる
歴史的背景」について考察し、本報告においては主に各章の概要に沿う形の報告であっ
た。

  第1章では、日本における軍事心理学の分類について分析し、その中で対象となった者について第2章以降述べられた。
 第2章では特に戦時中の精神神経症がどのように位置付けられていたのか・その特徴について、第3章は一般の患者とは区別された傷痍軍人の中で、精神神経疾患患者の職業保護等はほとんど行われなかったことなど、傷痍軍人の中でも精神神経疾患患者と身体の傷を負った患者との区別について述べられた。

 第4章では内地還送された患者、戦場において精神疾患を発症した兵士について分析を行い、第5章においては新発田陸軍病院を一つの事例として、その病床日誌の詳細な分析をもとに、より具体的な精神神経疾患患者の姿について述べられた。
 第6章の前には補論が設けられ、「ヒステリー」と日本軍兵士の「男らしさ」の関係について述べ、続く第6章においては精神疾患患者の恩給について述べた。
 第7章では主に終戦後の患者について注目し、戦中の入院体験を恥と考え、黙秘することや、家族との関係について述べられた。

 最後に本論文の意義として、「医療アーカイブズを利用した精神疾患患者の実態解明」と「「戦争神経症」を様々な時空間で考察したこと」が挙げられた。

  質疑応答では主に教員を中心に、戦地や年齢の差異や、患者の全体的な総数、
非戦闘員や職業別の発症率や用語の定義など、様々な質問がなされた。

2016/06/22

2016年度5月例会

2016年5月14日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院博士後期課程生である堅田智子氏による「アレクサンダー・フォン・シーボルトによる明治日本の近代メディア戦略」、本学准教授である児島由枝氏による「イタリア中世後期の墓碑彫刻図像 ―教皇クレメンス4世と教皇公証官リッカルド・アンニバルディの墓を中心に―」でした。

 堅田氏からは、明治日本政府の外交官として活躍したドイツ人のアレクサンダー・フォン・シーボルトによる「近代メディア戦略」について報告がなされた。先行研究の多くが注目しているシーボルトの「外国新聞操縦」のみだけでなく、外国新聞操縦を含めた長期的スパンでのシーボルトの「近代メディア戦略」に関して解明が必要であるとし、その上でシーボルトによる「近代メディア戦略」とは具体的にどのようなものであったか、その特徴と限界などを問いとして挙げた。
 シーボルトの「近代メディア戦略」は、政府として調査すべき外字新聞を提案し、正院もしくは外務省に「新聞紙取調局」という専門機関を設置し「外国諸新聞紙取調」を行うことを求めたものであった。そして、シーボルトによる「近代メディア戦略」の特徴として、明治政府内の親ドイツ派である「ドイチェ・シューレ」をはじめとした様々な人々との連携や、当時の日本としては広報外交そのものが画期的であったこと、世論操作の対象が日本国民でなく列強諸国(特にドイツ)の国民にあったということなどが説明された。また、限界としては、ドイツ以外の他国への広がりがみられなかったこと、シーボルト個人の能力に対する依存によって継承性に欠けていたということなどが挙げられた。そして、シーボルトの「近代メディア戦略」それ自体はシーボルト自身の発案とは言い難いが、彼が体系化を行ったということ、明治政府に自らの実践をもって広報外交の有用性を示したということは明らかであり、シーボルトに代表される「近代メディア戦略」経験者が不在の日本政府が広報外交を実施することの有用性に気づいたのは、第一次世界大戦後のことであったとして報告を締めくくった。
 質疑応答では、報告で「メディア」という言葉を使用した意図や、シーボルト自身の日本に対する感情が一連の活動の中に表れてはいないかなどについて質問がなされた。報告者からは、新聞だけでなくこの時代の情報源であった雑誌も含むという意味で「メディア」という語句を使用したということ、またシーボルトの態度は単に事実を述べるというもので、彼自身の見解がみられるような発言はない、などの回答がなされ、他にも活発に意見交換が交わされた。



・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
児嶋氏の報告では、イタリア中世後期における教皇庁関係者の墓碑彫刻図像の変遷について述べられた。児嶋氏は画像を用いながら彫刻に現れている表象について説明し、4人の墓碑の例を挙げながら論を展開した。
13世紀半ば以降、西欧世界では大規模な墓碑が登場し、特にイタリアでは独自の古典的な彫刻様式が展開した。11世紀までの有力者の墓碑は、銘文が刻まれた墓石版が主流であった。しかし13世紀には記念碑的な壁面墓碑壁龕墓が登場し、死者の横臥像が横たわる棺、切妻型の屋根を載せた半円アーチ、天国へととりなす聖母マリアや守護聖人像が設置されるようになった。イタリアではさらに13世紀後半以降、ローマでアーチ天蓋をかけた二層構成壁面墓碑が登場し、教皇クレメンス4世の墓がその最初の例であるとされた。同教皇は棺上で死者の姿と、仲介者である聖母に神への取次ぎを祈願するという「死と生」2つの姿で表現されている。児嶋氏はこの表象が出現した背景として、煉獄思想の流布と関係があるのではないかと指摘した。
次のドゥ・ブレ枢機卿と教皇ボニファティウス8世の墓の例では取次ぎの場面が、従来の二次元的表現から現実的表現へ移行したという点で革新的であった。さらに教皇公証官リッカルド・アンニバルディの墓の例では、本人の横臥像だけでなく、葬儀ミサの様子が現実的に再現され、「死者の赦し」の儀式が始まろうとしている場面が表現されているのではないかと指摘した。児嶋氏はこれらの墓碑の表象が段々と現実世界の様子を再現するものになっていたとし、ここに人間的なルネッサンス美術の黎明が見て取れるのではないかと結論付けた。
質疑応答では二層構成壁面墓碑の様式が、古代ローマ時代のカタコンベ像と類似しており、古代以来の様式の影響を受けているのではないかと指摘された。