2012/01/19

2011年度11月上智大学史学会第61回大会開催

20111113日(日)上智大学7号館文学部共用室において、上智大学史学会第61回大会が行われました。大会は以下の要領で開催されました。シンポジウムの内容については『上智史学』にて報告が行われます。このブログでは、各部会研究発表の模様を報告いたします。

午前 部会研究発表

第一部会(日本史)

・岩井優多氏(上智大学大学院)「「皇極紀常世信仰鎮圧記事」についての再検討」

・林直樹氏(上智大学大学院)「南北朝期における即位儀礼の変遷」

・アレンカール・アンジェリカ氏(上智大学大学院)‘Crossing Oceans and Saving Souls: A Comparative Studyon the Activities of the Jesuits in Japan and Brazil During the Second Half of the XVI Century (1549 to 1603) ‘

・野田晃生氏(筑波大学大学院)「太平洋戦争における傷痍軍人―視覚障害者を中心に―」

第二部会

浅野真知氏(国文学研究資料館)「中華民国初期の文書制度  -官庁の文件保存規則を中心として-

・兼田信一郎氏(獨協中学・高等学校)「白堅と岡部長景」

・平賀匡氏(上智大学大学院)「1935華北危機と汪兆銘」

玄瑛「「間島協約」前後の朝鮮人社会 -延辺地域を中心に-

第三部会

・酒巻諭史氏(上智大学史学会員)「元首政初期首都ローマにおけるDIVUSついての一考察」

・八國生紗也乃氏(同大学院博士前期課程)「サリンベネ・デ・アダムの『年代記』における皇帝フェデリーコ2世像」

・松尾里子氏(同大学院博士後期課程)「近世フランスにおける女子教育の波及-サン・シール学院から聖心会、聖母被昇天修道会へ-」

・堅田智子氏(同大学院博士前期課程)「外交官アレクサンダー・フォン・シーボルト-明治期の『外国新聞操縦』事例として-」

・吉野恭一郎氏(同史学会会員)「『トマス・ミュンツァー』を巡るE.ブロッホとS.クラカウアーの論争」

午後 シンポジウム

歴史教育の未来をひらく‐高大連携と歴史学‐

〈基調講演〉

服藤早苗氏(埼玉学園大学教授)

〈パネラー報告〉

戸川点氏(都立六本木高等学校)

藤本公俊氏(横須賀学院中学・高等学校)

安孫子郁子氏(実践女子学園中学校・高等学校)

〈司会〉

北條勝貴氏(上智大学准教授)

○日本史部会からの報告

・岩井優多氏 (上智大学大学院)

「「皇極紀常世信仰鎮圧記事」についての再検討」

岩井氏の報告では、常世信仰鎮圧の要点として、秦氏の治水事業とそれに伴う水神信仰の鎮圧の関連性が示され、古代中国の史書、説話集の記事に比較を踏まえた考証がなされた。また、日本書紀にみられる「虫」による災異予兆提示という記述形式についても検討が加えられた。今後、古代中国における災異記述との比較の進行が可能であることについても報告者、フロア双方より示された。

・林直樹氏 (上智大学大学院)

「南北朝期における即位儀礼の変遷」

林氏の報告では、北朝の即位儀礼に関して神器が南朝方にあり、北朝方に無い時期に行われた光明天皇即位儀礼の進行と、正当性確保がどのようになされたかについて論じられた。平安期に遡って即位儀礼の諸法について比較検討し、南北朝期の儀式の特異性が示され、会場からは北朝の即位儀式の進行過程に、足利将軍家側の政治権力や体面への作用との関連が含まれることについても言及がなされた。

・アレンカール・アンジェリカ氏 (上智大学大学院)

‘Crossing Oceans and Saving Souls: A Comparative Studyon the Activities of the Jesuits in Japan and Brazil During the Second Half of the XVI Century (1549 to 1603) ‘

アレンカール氏の報告では、イエズス会宣教師が、ヨーロッパより海を渡ってアフリカ、アメリカ、アジアにて布教活動を行うにあたっての、現地に対し彼らが抱いた印象や、直面した問題点、彼らの信仰上での最終目標であった魂の救済に達するための方法に

ついて論じられた。宣教師たちは現地の文化レベルをみて、そこに信仰を広めるだけの土壌があるかを判断して布教の方針を変えて

おり、現地の習慣に自身を適応させる「順応」の程度、過程もブラジル、日本という二国間で異なっていたという。又、報告者及びフロアからは従来、日本での「順応」に消極的な態度をとっていたことで、過少評価を受けていた宣教師カブラルの思想の再考の余地が示された。

・野田晃生氏 (筑波大学大学院)

「太平洋戦争における傷痍軍人―視覚障害者を中心に―」

野田氏の報告では、戦時下の日本にて戦場での傷がもとで障害を負った傷痍軍人の、被傷後の生活や、彼らの社会的立場について彼ら自身の口述記録をもとに論じられた

。報告から傷痍軍人の講演、陳述が、戦時下にあって戦意高揚に利用された面や、彼らの雇用の受け皿となる工場、機関が存在したことが明らかとなった。傷痍軍人自身からの聞き取りというオーラル・ヒストリー形成と、当時の政治情勢の中での彼らの役割を並行して考えることを両立させ、特定の個人と集団の発見・認知が示された報告であった。

○東洋史部会からの報告


・浅野真知(国文学研究資料館)

「中華民国初期の文書制度  -官庁の文件保存規則を中心として-

日本では今年「公文書管理規則」が設けられたが、20世紀初頭に発足した中華民国政府においても、官庁の文書に関しては保存・破棄について様々な規則が設けられていた。本年は辛亥革命より丁度百年という節目の年でもあり、中華民国における文書管理制度と日本の現行制度との比較検討を行う良い契機であるとして、現存する中華民国政府司法部・外交部・教育部それぞれの文件保存規則の内容を解説いただいた。

中国には前近代から既に各種文書の保存や破棄に関する規則があり、こういった規定を設けること自体は必ずしも近代以降の発想ではない。故に百年前のものである民国政府の規則も、文書種類別の保管期限の設定や破棄の際の手続きなど、一般公開に関するもの等を除き日本の現行制度にある要点をほぼ網羅していると言える。ただし、中国で前近代に官公庁文書を厳密に管理していたのは後の歴史書編纂に資するためであり、

民国政府の制度もその精神を引き継いだ側面があるという点で日本の現行制度とは異なっていると考えられるということである。

フロアからは、文書管理制度や公文呈式と政治状況の変化の関連性をより明確に描き出すことで更に有意義な研究になるのではないかといった見解が多く聞かれた。

・兼田信一郎(獨協中学・高等学校)

「白堅と岡部長景」

 報告者が偶然に入手した「石鼓文」(中国最古の金石史料)全面拓に白堅から岡部長景に宛てた書翰が添付されていたことを契機に、両者の関係、およびこの「石鼓文」拓本をやりとりすることとなった背景を考察した報告である。

 白堅については近年高田時雄氏の詳細な研究が出ているが、それによると中国文物を日本に売り込むブローカーであったと考えられる。また民国臨時政府内政部秘書や反共団体の幹部を務めたこともあり、交友関係は多岐に渡ったとみられる。他方岡部長景は華族出身の外交官僚であり、長期にわたり日本の対中国文化事業に従事した人物である。この両者の橋渡し役となったのは、日満文化協会の創設に尽力した水野梅暁という人物ではないかと報告者は考察している。

「石鼓文」拓本と書翰は19403月付で送られているが、当時岡部・水野は華北での文化政策に関心を持ち、白堅は臨時政府に所属していた。当時「石鼓文」の原本は日本軍の侵攻を受けて一時行方不明になっており、白堅はその拓本を岡部に贈呈することで、華北諸文物の保護が喫緊の課題であること、その為に一層の交流を図りたい意志を示そうとしたのではないかと結論づけている。

主題となった書翰には「石鼓文」原本の一時消失について恐らく初出と考えられる記述があり、フロアよりは「石鼓文」原本が所在不明になった経緯や白堅の立場について更に詳細な掘り下げを望む意見が相継いだ。

・平賀匡(上智大学大学院)「1935華北危機と汪兆銘」

 1933年の塘沽停戦協定後、日華関係はいったん、親善への動きを見せたが、日本が華北進出への動きを徐々に加速させたため19356月には華北危機に突入することになる。この華北危機直前・直後において、国民政府のトップとナンバー2であった蒋介石・汪兆銘の両者の関係について、台湾所蔵の史料などを中心に検討した報告である。

 塘沽停戦協定後日中両国は関係改善の交渉を続けたが、両者は満州国の取り扱いについて双方譲歩することができず、形勢は徐々に中国側不利となっていた。こういった状況下でも汪兆銘は平和的解決を目指したが、国民政府内では方針を改めるべきという意見も出始めた。その中にあって19356月に河北事件が発生し、これを契機として蒋介石はそれまでの対日宥和方針を抗日へと転換するに至った。此処において汪兆銘と蒋介石との間の溝は埋めがたいものとなり、同年11月の汪兆銘狙撃事件へと発展した。

 しかし外交文書を詳細に検討すると、河北事件以前から日華交渉の過程にはかなり激しい応酬がみられる。恐らくこれは蒋介石が中心となって策定したものであり、汪兆銘の立場は河北事件以前から既に微妙なものとなっていたのではないかというのが報告者の見解である。

 本報告は台湾留学の成果報告を兼ねるものであるが、フロアからは新出の史料の提示など現地に赴いたからこそ可能となるような研究を求める声もあった。

・玄瑛(上智大学大学院)

「「間島協約」前後の朝鮮人社会 -延辺地域を中心に-

 現在の中国・延辺朝鮮族自治州がかつて「間島」と呼ばれていた時期のうち、1909年間島協約成立期の当地の状況について分析・考察する修士論文の予備報告である。

 間島地域は清代から越界朝鮮人開墾民が不法に入植している場所であったが、19世紀末に清が領域権を主張して開墾に着手し、朝鮮人の招撫と同化政策を進めていった。1905年第二次日韓協約で日本が朝鮮の外交権を奪取すると、朝鮮人保護の名目で日本の臨時派出所が間島に設置されることになる。日本は当地の朝鮮人に対しインフラ整備など懐柔策をもってあたり、その影響力を強めようとした。しかし日本の間島領有は清の抵抗や列国の批難から困難な状況であり、やがて間島領有を放棄して満州への権益獲得を図る方針に転換する。この中で締結されたのが間島協約である。しかしその細目に関しては、商埠地の警察権などで日中間の意見がまとまらず合意が成立しない部分もあった。

 のち日本の韓国併合により移住朝鮮人の立場も変化し、日本が間島朝鮮人に対し統治権を行使する可能性も出てきたため、中国側も支配維持のため懐柔策をとるようになる。当地の朝鮮人は一定の経済力を確保しつつあったものの、土地所有などでは中国側に従属しており、こういった状況は日本にとり間島進出のみならず朝鮮支配をも危うくする要素であったといえる、としている。

 報告者は当地の移住朝鮮族3世でもあり、フロアからは日中両国の政策だけでなく実際の人々の生活実態にフォーカスするなど、間島における朝鮮人の主体性をもっと見たいという意見などが出された。

○西洋史部会からの報告

 西洋史部門では順に、酒巻諭史氏(上智大学史学会員)の「元首政初期首都ローマにおけるDIVUSについての一考察」、八國生紗也乃氏(同大学院博士前期課程)の「サリンベネ・デ・アダムの『年代記』における皇帝フェデリーコ2世像」、松尾里子氏(同大学院博士後期課程)の「近世フランスにおける女子教育の波及-サン・シール学院から聖心会、聖母被昇天修道会へ-」、堅田智子氏(同大学院博士前期課程)の「外交官アレクサンダー・フォン・シーボルト-明治期の『外国新聞操縦』事例として-」、

吉野恭一郎氏(同史学会会員)の「『トマス・ミュンツァー』を巡るE.ブロッホとS.クラカウアーの論争」の五つの発表が行われた。

 史学科教員及び院生のほか、学部生や他大学からの出席もあり、各発表後には時間的制約もある中で活発な質疑応答がなされた。今回発表された諸研究は、我が国ではあまり先行研究がなされてこなかったものが多かったが、他大学で一部類似する研究をしている出席者からの質問もあり、発表者自身も、別の視点から自身の研究を見つめる機会を得たようで、実り多い発表会となった。