2012/06/03

2012年度5月例会開催

2012年5月26日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智史学会に所属しております吉野恭一郎氏によるヴァイマル期における「周縁的」知識人の思想―ジークフリート・クラカウアーによるミクロロギーの試み―」、本学教授である大澤正昭氏による「南宋の在地有力者・豪民―『清明集』を手がかりに―」でした。
 
 

 吉野氏の報告は、ヴァイマル期において、ヘーゲル的観念論が主流である中、これとは一線を画す「周縁的」知識人であったジークフリート・クラカウアー(Siegfriedkracauer,1889-1966)を研究対象に、彼を「普遍的・絶対的価値基準の喪失」の当事者と措定して、その思想的経緯を思想史の観点から追ったものである。


 クラカウアーは、1921年から1933年まで、ヴァイマル共和国の三大紙の一つである『フランクフルター・ツァイトゥング』の編集者として活躍し、文芸欄において、文化批評や社会分析を多数発表した。吉野氏は、クラカウアーの思想遍歴について、①1920年代前半の「方向性の模索」②1920年代半ばの「論争・他者への批判」、③1920年代後半の「実践」④1920年代末から1933年までの「挫折」、と四期に分け、それぞれの時期にクラカウアーが執筆した著作を史料に、彼の思想の分析を試みた。そして、先行研究で指摘されていた世俗主義、現実主義のクラカウアー像を否定し、「絶対性」、「普遍性」に対する強い希求心をもっており、幾度となくこれらを言葉で描こうとした新たなクラカウアー像を提示した。また、フランクフルト学派特有の批判力の強さをもちつつも、一方で同じ問題意識に立つ同時代の文化的潮流、特に現代芸術に対する関心の薄さがあり、理想形を明らかにするベンヤミン(WalterBenjamin,1892-1940)やアドルノ(Theodor Adorno, 1903-1969)らとの差異を明らかにした。

 最後に氏は、クラカウアーはもっとも「ヴァイマル的混乱」を体現し、「自由」、「民主主義」以上のものを提示できない中道左派的弱点を象徴する人物であり、ジレンマの代弁者であったと結論づけた。

 質疑応答では、クラカウアーの思想を歴史的文脈でいかに語るのか、哲学論文とのすみ分けについて説明が求められた。歴史学的考察を加えるためにも、クラカウアーの社会的位置付けが不可欠であるとの指摘もあった。また、ジャーナリストであるクラカウアーをそもそも、思想家とすることは可能なのかとの質問もあった。そして、クラカウアーの論壇での行き詰まりの原因について補足説明を求められたが、吉野氏は、クラカウアーが自らの弱点を意識するようになったからこそ、言葉を紡ぐことができなくなったのではないかとの分析を提示した。

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 前近代中国は通説上、唐代以前が貴族社会であり、宋代以降地主・佃戸制社会に変化していくとされる。大澤氏の報告では、この転換が生じる上でカギとなるのが両者の中間に位置する階層であると考え、その中でも特に史料上「豪民」と表記される在地有力者の実態について、南宋代の判語(裁判判決)集である『名公書判清明集』を主な材料として検討した。宋代史料上で大土地所有者を示す語には豪民以外にも「官戸」「形勢戸」等があるが、その実態については不明確な点も多く、議論が分かれるところである。『清明集』にあらわれる彼らの活動を見ていくと、豪民は王朝に反抗する勢力ではなく、むしろ地域に根ざして官権力を巧妙に利用し、自らの利益を得ようとする集団であった。行政実務の一端を担い、また共同体が存在しないと言われる社会に於いてその役割の一部を負うことで或る程度民の支持も得ており、官の統治にとって必要悪的な側面があった。この中では豪民同士の勢力争いも少なからず生じており、その為に各豪民の勢力が拮抗し領主化志向が阻害されていた。官権力はこれらを統治に利用していたものであり、従来考えられていたような宋朝による一元的支配は実際には存在しなかったのではないかと結論づけている。
 

 質疑応答では「前近代中国に共同体はない」とする従来説に対する懐疑的意見や「共同体」の定義を問う意見が出された。また判語という官権力の一方的な立場で書かれた史料をベースにすることで、豪民の本来の姿がかえって見えなくなる危険もあるといった指摘がなされた。 なお本報告のベースとなった論文が『東洋学報』に、また関連のものとして『清明集』所載の判語の主な舞台となった福建路の現地調査報告が『上智史学』にそれぞれ後日掲載予定である。