2018/08/02

2018年度6月例会

2018年6月16日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。

報告は、同志社大学専任講師の大谷実氏による「ヴァイマル社会国家とシンティ・ロマ政策」と、本学文学部特任教授西岡芳文氏による「式占からお稲荷さんまで~日本陰陽道史の流れをたどる~」の二本です。



大谷実氏「ヴァイマル社会国家とシンティ・ロマ(1)政策」






 大谷実先生から「ヴァイマル社会国家とシンティ・ロマ政策」というタイトルで、ご自身の博士論文をもとにした報告がなされた。
 ナチス期にはシンティ・ロマを一方では「人種」として、他方では「反社会的分子」として迫害する絶滅政策が行われた。本報告では、その前提となる帝政・ヴァイマル期におけるシンティ・ロマ政策の形成と変遷に注目し、バイエルン警察行政の一次史料を用いて検討する。また、特に1926年発布のバイエルン法「ツィゴイナーおよび労働忌避者に関する法」の成立過程を検討することで、ドイツ史の連続性について論証し、マイノリティと近代社会の関係性について分析することを課題としている。
 まず、バイエルンの地理やドイツ警察組織についての基礎情報が提示された後、19世紀末から20世紀初頭にかけてシンティ・ロマ政策について説明された。ドイツ統一以前から、宗教改革以来の勤労精神の普及によって、放浪生活者は「怠け者」として排除されていたが、ドイツ統一以後は国民国家の形成と工業化を推進するために移動の自由が認められるようになり、例えばプロイセンでは他ラント出身の貧困者を追放することができなくなった。一方で、獲得の困難な帰属権を基盤とするバイエルンでは、貧困に基づく他ラント出身者の追放が可能であった。さらにミュンヘンの大都市化とそれに伴う人口の急増の影響から、警察組織の限られた人員で治安維持を行うため、写真・指紋の採取・「人種」の概念といった最新科学技術が導入され、ミュンヘン警察本部による管理と追放が行われるようになった。
 次に、第一次世界大戦時のバイエルンで、追放と管理から労働収容へと政策の方針転換が起こる過程を追う。要因の一つは、戦時に起きたシンティ・ロマと近隣住民の間に起こる諸問題に対して警察は無力であったこと、また総力戦体制が構築されるなかでシンティ・ロマを「敵国のスパイ」「兵役忌避者」と結びつける概念が育っていったことが挙げられる。このような状況の中、警察組織ヒエラルキーの各層が方針を打ち出す相互作用の中で、シンティ・ロマの隔離と強制労働の政策が形成された。
 終戦に伴い労働収容政策は終了したが、ヴァイマル期には各管区から戦時の政策を継続するよう強い要望が出され、財政難にもかかわらず再び導入されることになった。ただし、それは単なる再導入ではなく、大量失業といった当時の社会問題と関連づけられた、形を変えた上での再導入だった。それが「ツィゴイナーおよび労働忌避者に関する法」である。1926年のバイエルン議会での法案審議からは、「人種」としてのシンティ・ロマ概念が自明となっていること、大量失業と結び付けた活発な議論が行われたこと、法案の名称上「労働忌避者」と併記するよう変更が加えられたことから、シンティ・ロマが「人種」として、新たな社会問題と結び付けられるようになってきたさまがうかがえる。
 このようにヴァイマル期の政策は、ナチスの絶滅政策と規模や性質の違いはあるものの、シンティ・ロマを「人種」として定義し、「労働忌避者」とともに「反社会的分子」として社会から排除しようとした思想の面で通底していると考えられる。
そして、大谷先生は、マイノリティ集団にその生活様式から連想されるスティグマを付与し、社会問題と結び付け排除する思想、すなわち「怠惰な者」へのまなざしの問題は、例えば生活保護の不正受給者問題のように、現代日本においても散見され、近現代社会に普遍的な問題である、と締めくくられた。 

 質疑応答においては、政治状況を踏まえた上での考察の必要性、シンティ・ロマ側・地域住民の視点を捉えた史料やオーラル・ヒストリー手法の使用可能性、第一次世界大戦という総力戦のプレッシャーとの関係について指摘が出され、意見が交わされた。また、同時期に発展した人種衛生学や社会ダーウィニズムとの関わり、シンティ・ロマの国籍や生活スタイルについて質問がなされ、盛況のうちに幕を閉じた。

(1)シンティ・ロマ:(英)「ジプシー」、(独)「ツィゴイナー」と呼ばれた人びと




西岡芳文氏「式占からお稲荷さんまで~日本陰陽道史の流れをたどる~」





 報告者が式占研究の道に足を踏み入れたのは、古文書に残らない世界の広がりに注目したことが発端である。中世の「情報」に焦点を当て、単語の変遷を追う「語史」を叙述してきた。
 公家日記やその紙背文書に、「口舌物忌」「口舌闘諍」などの単語で頻出する「口舌」という言葉がある。これらは占いの用語であった。天皇の身体の安否など国家の大事を占う「軒廊御占」は、怪異が発生した場合に行われる占いである。
 怪異事件に際し、過去の実例を調べてまとめたものを勘例という。たとえば賀茂別雷社の橋の上に羽アリがたかった場合は、「天下口舌」(内乱につながるような国家的なトラブル)の可能性があると記載されている。
 卜とは甲羅を用いる亀卜、占とは陰陽道に由来する「式占」である。中世において易経は五〇歳を過ぎなければ学んではいけないとされた敷居の高い占いで、実用化に至っていない。その反面式占は怪異の日時から占うものなので再現性が高く、当時の人からすれば科学的・客観的に思われ、国家の占いに利用されていた。平安・鎌倉~室町まではこのような占いが続いていく。
 そののち「式占」の知識は室町時代後期に断絶し、陰陽師が式占を用いた事実さえ知られなくなっていった。その後陰陽師研究に注目が集まるようになったのは八〇年代のことであった。報告者は平安・鎌倉時代の古記録から朝廷で行われていた占いが「六壬式占」であることを確認し、さらに漢籍のうち「術数類」に残る式占にまつわるテキストを分析した。金沢文庫に残った史料から式盤のようなものを発見。その後「聖天式法」という書物から占いに用いる式盤であると確認した。

 ダキニ天を中心に白い狐に乗った五人の神が描かれた神像について分析を行った。神が乗る狐は、神社では稲荷明神、仏教ではダキニ天のシンボルである。
 これらの神像群を見ると、下の方に稲を背負った稲荷神の姿が確認される。この稲荷神とダキニ天の女神の関係は何なのか。金沢文庫の所蔵する史料群のうち、「頓成悉地盤法次第」という密教式に神仏をまつる方法を書いた書物から、式盤を用いてダキニ天をまつる修法を記述したものが見つかった。また、式盤の作り方を書いた史料も確認された。史料に従って復元してみると、この式盤は天・人・地の3パーツが回転する道具で、陰陽師の式盤の形を取りながら、目的はダキニ天の灌頂であることが分かった。狐信仰と陰陽道は今までなぜ結びつくのか説明されてこなかったが、背後には日本中世のダキニ法と陰陽
道の接続があった。陰陽道とダキニ天を結ぶモチーフとして、狐はもてはやされるようになったのである。

 質疑応答では「陰陽師断絶の理由は何か」など質問が出た。
中世では安倍や賀茂、のちに土御門などの家が占いの技術を独占しているが、家同士の諍いの時テキストが分散、応仁の乱で若狭などに逃げていく最中で散逸してしまった。秀吉の時期などには迫害も受けていたようである、とのことだった。
 定説では陰陽道は陰陽五行説を利用して日本で形成されたと言われているが、中国の北宋時代の文献には「陰陽師」という言葉が出てくる。陰陽道の思想がいかにして形作られてきたのか、今後の研究の進展にも期待したくなる発表であった。