2016/12/02

上智大学史学会第66回大会


 
20161120日(日)、上智大学7号館文学部共用室において、
上智大学史学会第66回大会が行われました。大会は以下の要領で開催されました。

 このブログでは、各部会研究発表および、上智大学史学科教授大澤正昭氏、
上智大学史学科非常勤講師大川裕子氏、東京外国語大学AA研共同研究員村上陽子氏
による公開講演の模様を掲載させて頂きます。


第一部会(日本史) :共用室C

・渡部敦寛 氏(上智大学大学院)

「律令制導入期の家政的集団編成に関する二、三の考察

一少子・トネリ・乳母―」



・西山裕加里 氏(上智大学大学院)
「平安時代における稲荷信仰の担い手」


・佐藤諒 氏(上智大学大学院)
「満州事変以後の「協調」の模索一列強との外交を中心に-」


・照井惇也 氏(一橋大学大学院)
「陸軍大臣の権能と軍事統制の試みに関する研究
一満洲事変期の関東軍統制を例に-」



第二部会(東洋史) :共用室D

・酒井駿多 氏(上智大学大学院)
「古代中国における西方異民族とその境界」


・岡野佳織 氏(上智大学大学院)
「外国人からみた中国女性像と中国人の反応 」


・若泉もえな 氏(一橋大学大学院)
「民国前期広東省地方政権の財政と商人層の動向」


・舒暢 氏(上智大学大学院)
1944年中国「河南民衆蜂起」の再検討 」





第三部会(西洋史): 共用室A


・藤澤綾乃 氏(慶應義塾大学大学院)
「古代末期ユダヤ・サマリア地方でのキリスト教伝播をめぐって」


・桑原真由美 氏(上智大学大学院)
「モデナ大聖堂における古代-古代石材の利用を中心に―」


・宮原愛佳 氏(上智大学大学院)
19世紀プロイセンの企業家F・ハルコルトの社会観再考」



・山手昌樹 氏(日本女子大学文学部研究員)
「ファシスト女子の声」
 




公開講演:上智大学7号館特別会議室

 14
30分からは公開講演が行われました。
 講演は上智大学史学科教授大澤正昭氏、上智大学史学科非常勤講師大川裕子氏、
東京外国語大学AA研共同研究員村上陽子氏による
「明清時代の二つの農書
―現地調査を踏まえて、その超克を考える―」でした。










2016/11/21

2016年度10月例会

 2016年10月29日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
 報告は、東京大学大学院人文社会系研究科准教授である長井伸仁氏による、
「上智大学の学徒出陣―その歴史と記憶―」、
上智大学国際教養学部名誉教授であるケイト・ワイルドマン・ナカイ氏による、
「戦前日本史のなかの上智大学―カトリック系大学の道のりはなにを語るか―」でした。






 長井氏は、「上智大学の学徒出陣—その歴史と記憶—」と題した報告を行った。
 1943年10月2日の「在学徴集延期臨時特例」によって、大学学生および高等学校・専門学校生徒は、それまでの徴集猶予措置を停止されて入隊するが、上智大学の学徒出陣や、大戦中の上智大学については未知の部分が大きい。
 『上智大学史資料集』(1980~93年)、創立50・75・100周年記念誌、いずれも学徒出陣についての記載はごくわずかである。
しかし、ソフィア会による調査で戦没者33名が特定されていたことが助けとなり、学籍簿や各種学生名簿、卒業証書授与簿などをもとに、当時の状況を明らかにするべく調査を試みた。
  
昭和18年度の在籍生は936名であったが、大学による公式の数値では昭和20年1月の時点で
429名が在籍しつつ「応召及び入営」と記録されている。
今回の調査では756名の出征を確認し、学部・学科や陸海軍の別、信仰についても言及した。
戦没者の割合は約9%であったこと、また戦後の復学者は391名、退学者は25名であったことや、戦時中の大学で挙行された式典等が報告された。
 1990年代以降、このような調査は大規模大学を中心におこなわれているが、上智大学では史料が多いにも関わらず、これまで研究されてこなかった。
その背景として、大学が学徒出陣にほとんど関心を寄せず、各種行事において等閑視してきたことが指摘できると結論した。

 質疑応答では、戦争の記憶を伝える元特攻隊員に、歴史学のメソッドを持ってアプローチするには残された時間は少ないという意見や、学徒出陣の調査を大学がする必要性の是非、
出征後に学生が置かれる立場の認識について等、様々な研究分野からの質疑が多くなされた。
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 ナカイ氏は戦前の大学史において、カトリック系大学であった上智大学がどのような経緯を辿ったかに関しての報告を行った。
 まず氏は、上智大学の戦前史を概観するにあたっての研究状況を明らかにし、
そこでは、上智大学についてドイツ語やラテン語で書かれている史料が多いこと、
またプロテスタント系の他大学と比較して研究が少ないことなどが問題として挙げられた。
 その上で、『上智大学史資料集』や大学史料室に保存されている書類などを使用し、
上智大学の創立の背景から戦時中までの状況を説明して分析した。

本報告では戦前高等教育の中での上智大学の位置と、国家と宗教の問題の二点からのアプローチに重きを置いている。
前者については、大学側が政府の高等教育への制度変更に応じて対応していたこと、
学生確保のため商学科を設置したことなどから、その時々の時勢に合わせて上智大学が現実的に動いていたということがうかがえるとした。
後者については、政府の宗教と教育の分割原則に沿って、戦前は大学として公にはキリスト教教育を廃し、学術的姿勢のみを表したこと、
それが後においてカトリシズムを全面に打ち出したものに変化したことが指摘された。
 また大学が戦時の神社参拝などを、宗教行為でなく世俗的儀礼として解釈するようになった事件の多義的な意味について言及した。

 質疑応答では、大学敷地内に開かれた聖堂を作ろうとする動きがあったのか、
政府との妥協的態度は仕方なく示されたものだったのかなどについて、
さらにイエズス会の行動の理由などに関しても活発に議論が交わされた。


2016/09/09

2016年度7月例会


201672日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
報告は、上智大学大学院博士後期課程生であるHernandez Vazquez, Victor Manuel 氏による、「The project of a secular church in Japan. The Jesuit seminars 1580-1614」、上智大学史学科の卒業生であり一橋大学で特任講師をされている中村江里氏による、
「日本帝国陸軍における『戦争神経症』―アジア・太平洋戦争とトラウマをめぐる政治」でした。




 Victor氏の報告では、日本の平信徒向け教会に関する研究計画について、中でも1580年から1614年の日本のイエズス会のセミナリヨに関連して述べられた。

氏は、最初に日本におけるイエズス会史を概説した。
世紀には戦乱や豊臣秀吉のキリスト教迫害などの影響により、厳しい状況に置かれていたにも関わらず、イエズス会は日本人信者を増加させていった。
 イエズス会は1570年~1580年に平信徒向けの教会を作り、日本人司祭の育成計画を進めようとしていた。
拠点となるセミナリヨは日本に三か所作られ、最初に有馬、次に豊後、そして都(京都)である。計画の中心地は1570年に大村藩によって開港された長崎港であった。
藩主の大村純忠から許可を得、日本で最初の司教座が出来て、宣教の拠点となり、最大のキリシタン都市として迫害の際にはシェルターとしての役割も果たした。
 セミナリヨでの教育は、司教を頂点とした教区組織、教会裁判権を確立させたが、1614年~1617年にセミナリヨの解体や信徒の集団の解体が行われた。
禁教以降も信仰を続けていた人々はいたが、建物や文書は残っておらず、その文書が破棄されたという記録すら残っていない。また、イエズス会は報告書を毎年ローマに送っていたが、これに関しても禁教以降のものは残っていない。
 上記のような状況を踏まえて氏は平信徒向け教会の日本人司祭の育成の実態に関して迫ろうとしていると述べた。

 研究のアプローチとしては、
①宣教師や各地の司教、ポルトガル商人、イエズス会の報告書簡など幅広い史料を利用して、様々な立場の人々のセミナリヨや日本での宣教などに対する見方に注目する、
②特に17世紀初頭の状況に焦点を当て、日本で出版されたキリスト教教義を扱った書物をもとにセミナリヨではどのような教育が行われていたのか、戦や迫害の中でのセミナリヨの役割は何だったのかを解明する、
③特例である長崎の他、都や有馬なども含めて地域ごとの教育戦略の比較を行う、
3点が挙げられた。

 質疑応答ではカヴラルとヴァリニャーノの2人の宣教師の日本に対する見方の違いに関する質疑や、研究の方向性をさらに明確化していくための指摘がなされ、議論がなされた。

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中村氏は自身の博士論文をもとにした、「
日本帝国陸軍と「戦争神経症」アジア・太平洋戦争とトラウマをめぐる政治
という題目の報告を行った。
学部時代から関心があったこと、欧米と比べ日本の研究はまだ少ないこと、
以上の二点より研究を進めるに至った。

 博士論文において中村氏は、
時中から戦後にかけての、(元)兵士の精神疾患を取り巻く言説や構造と実態を明らかにし、戦争と精神疾患あるいは心的外傷に関する集合的記憶の不在につながる
歴史的背景」について考察し、本報告においては主に各章の概要に沿う形の報告であっ
た。

  第1章では、日本における軍事心理学の分類について分析し、その中で対象となった者について第2章以降述べられた。
 第2章では特に戦時中の精神神経症がどのように位置付けられていたのか・その特徴について、第3章は一般の患者とは区別された傷痍軍人の中で、精神神経疾患患者の職業保護等はほとんど行われなかったことなど、傷痍軍人の中でも精神神経疾患患者と身体の傷を負った患者との区別について述べられた。

 第4章では内地還送された患者、戦場において精神疾患を発症した兵士について分析を行い、第5章においては新発田陸軍病院を一つの事例として、その病床日誌の詳細な分析をもとに、より具体的な精神神経疾患患者の姿について述べられた。
 第6章の前には補論が設けられ、「ヒステリー」と日本軍兵士の「男らしさ」の関係について述べ、続く第6章においては精神疾患患者の恩給について述べた。
 第7章では主に終戦後の患者について注目し、戦中の入院体験を恥と考え、黙秘することや、家族との関係について述べられた。

 最後に本論文の意義として、「医療アーカイブズを利用した精神疾患患者の実態解明」と「「戦争神経症」を様々な時空間で考察したこと」が挙げられた。

  質疑応答では主に教員を中心に、戦地や年齢の差異や、患者の全体的な総数、
非戦闘員や職業別の発症率や用語の定義など、様々な質問がなされた。

2016/06/22

2016年度5月例会

2016年5月14日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院博士後期課程生である堅田智子氏による「アレクサンダー・フォン・シーボルトによる明治日本の近代メディア戦略」、本学准教授である児島由枝氏によるイタリア中世後期の墓碑彫刻図像 ―教皇クレメンス4世と教皇公証官リッカルド・アンニバルディの墓を中心に―でした。

 堅田氏からは、明治日本政府の外交官として活躍したドイツ人のアレクサンダー・フォン・シーボルトによる「近代メディア戦略」について報告がなされた。先行研究の多くが注目しているシーボルトの「外国新聞操縦」のみだけでなく、外国新聞操縦を含めた長期的スパンでのシーボルトの「近代メディア戦略」に関して解明が必要であるとし、その上でシーボルトによる「近代メディア戦略」とは具体的にどのようなものであったか、その特徴と限界などを問いとして挙げた。
 シーボルトの「近代メディア戦略」は、政府として調査すべき外字新聞を提案し、正院もしくは外務省に「新聞紙取調局」という専門機関を設置し「外国諸新聞紙取調」を行うことを求めたものであった。そして、シーボルトによる「近代メディア戦略」の特徴として、明治政府内の親ドイツ派である「ドイチェ・シューレ」をはじめとした様々な人々との連携や、当時の日本としては広報外交そのものが画期的であったこと、世論操作の対象が日本国民でなく列強諸国(特にドイツ)の国民にあったということなどが説明された。また、限界としては、ドイツ以外の他国への広がりがみられなかったこと、シーボルト個人の能力に対する依存によって継承性に欠けていたということなどが挙げられた。そして、シーボルトの「近代メディア戦略」それ自体はシーボルト自身の発案とは言い難いが、彼が体系化を行ったということ、明治政府に自らの実践をもって広報外交の有用性を示したということは明らかであり、シーボルトに代表される「近代メディア戦略」経験者が不在の日本政府が広報外交を実施することの有用性に気づいたのは、第一次世界大戦後のことであったとして報告を締めくくった。
 質疑応答では、報告で「メディア」という言葉を使用した意図や、シーボルト自身の日本に対する感情が一連の活動の中に表れてはいないかなどについて質問がなされた。報告者からは、新聞だけでなくこの時代の情報源であった雑誌も含むという意味で「メディア」という語句を使用したということ、またシーボルトの態度は単に事実を述べるというもので、彼自身の見解がみられるような発言はない、などの回答がなされ、他にも活発に意見交換が交わされた。



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児嶋氏の報告では、イタリア中世後期における教皇庁関係者の墓碑彫刻図像の変遷について述べられた。児嶋氏は画像を用いながら彫刻に現れている表象について説明し、4人の墓碑の例を挙げながら論を展開した。
13世紀半ば以降、西欧世界では大規模な墓碑が登場し、特にイタリアでは独自の古典的な彫刻様式が展開した。11世紀までの有力者の墓碑は、銘文が刻まれた墓石版が主流であった。しかし13世紀には記念碑的な壁面墓碑壁龕墓が登場し、死者の横臥像が横たわる棺、切妻型の屋根を載せた半円アーチ、天国へととりなす聖母マリアや守護聖人像が設置されるようになった。イタリアではさらに13世紀後半以降、ローマでアーチ天蓋をかけた二層構成壁面墓碑が登場し、教皇クレメンス4世の墓がその最初の例であるとされた。同教皇は棺上で死者の姿と、仲介者である聖母に神への取次ぎを祈願するという「死と生」2つの姿で表現されている。児嶋氏はこの表象が出現した背景として、煉獄思想の流布と関係があるのではないかと指摘した。
次のドゥ・ブレ枢機卿と教皇ボニファティウス8世の墓の例では取次ぎの場面が、従来の二次元的表現から現実的表現へ移行したという点で革新的であった。さらに教皇公証官リッカルド・アンニバルディの墓の例では、本人の横臥像だけでなく、葬儀ミサの様子が現実的に再現され、「死者の赦し」の儀式が始まろうとしている場面が表現されているのではないかと指摘した。児嶋氏はこれらの墓碑の表象が段々と現実世界の様子を再現するものになっていたとし、ここに人間的なルネッサンス美術の黎明が見て取れるのではないかと結論付けた。
質疑応答では二層構成壁面墓碑の様式が、古代ローマ時代のカタコンベ像と類似しており、古代以来の様式の影響を受けているのではないかと指摘された。

2016/05/14

2016年度前期院生総会・卒業論文発表会

2016年度前期院生総会ならびに卒業論文発表会が4月23日に開催されました。新たに院生会へ加入した5名の新入生による熱のこもった発表が行われましたので、以下、発表者氏名と所属ゼミ、並びに卒論の題目と報告内容を紹介いたします。


○坂口万津子(児島ゼミ)

「礼拝図像から写実的物語図像へ―シモーネ・マルティーニのProto-Humanism的試み―」

 報告は、中世末期シエナ派の画家シモーネ・マルティーニ自身の独自な様式的・図像的解釈と、その先駆的試みの意義についてなされた。
 先行研究ではルネサンスに事実上連なるフィレンツェ派と並び、イタロ・ビザンチン様式から国際ゴシック様式への潮流において中心となるのが、ドゥッチオに始まりシモーネ・マルティーニによって最盛期を齎されたシエナ派であると言われている。
 そこで、ドゥッチオの前時代性を発展・解釈し独自の様式を生み出したシモーネの4作品《マエスタ》《受胎告知》《聖マルティーノ伝》《ヴェルギリウスの細密画》を先行研究に基づいて紹介し、シモーネの作品における様式変遷をたどり、結論としてシモーネの画業は時代背景と密接に結びつき、ペトラルカとの友好関係によって前人文主義的試みであったと述べた。
 《マエスタ》においては、天上の聖母子の荘厳を表す礼拝図像を、地上の世俗的かつ宮廷的風俗の図像へと変換しえた解釈は、シエナ市が九人制評議会の自治都市国家として発展した背景と重なると述べ、
 《受胎告知》は聖告のエピソードを多翼祭壇画の中心に据えた最初の作例であり、金地背景に描かれた大天使ガブリエルとマリアの心理描写が線描、とりわけ手の表情に表され、画家の最盛期の作品であることを提示した。
 《聖マルティーノ伝》は史料の欠如から年代判定の困難な壁画作品であるが、1985年のシエナ学会で、ローマ第二大学で教鞭を取りイタリア美術史を専門とするフェルディナンド・ボローニャが述べた「作品が様式を決定するのでありその逆ではない。」という発言に代表される作品から年代を測る美術史家と、史料に基づいた年代確定を優先する歴史学者との微妙な食い違いを、改めてこの研究に携わる者に想起させる作品であると認識している点を述べた。
 《ヴィルギリウスの細密画》では、晩年期にアヴィニヨンでフランチェスコ・ペトラルカと交流したことで最新の人文主義に画家は直接触れたことになるが、絵画表現の革新は思想革新を後追いする形で進むと結論づけている。
 質疑応答では、《聖マルティーノ伝》に表れる笛を吹く奏者の像がロマネスク北イタリアの聖堂内にも見られるので関連性があるのでは、という指摘や、発表の際の図版表記方法の確認の必要性もなされた。


○H・I(豊田ゼミ)

「キリスト教と偶像崇拝―イコノクラスムの興亡―」

 本報告では、十戒において偶像崇拝を禁止しているにもかかわらず、なぜキリスト教はイコンや十字架像を許容しているのか、と問題提起した。そこでキリスト教世界初の反偶像運動とされる、ローマ帝国のイコン破壊運動を取り上げ、特にイコン崇拝を正統化したダマスコスのイオアンニスの著作に着目して偶像崇拝の是非について論じ、さらに彼の思想が受容された当時の時代背景を考察した。
 初期教徒たちは十戒を遵守していたが、教徒人口が増加するにつれて「異教」化が進行し、 十戒の規定は形骸化した。しかし6世紀頃、異民族の侵入に対する不安から大衆的な聖画像崇拝が増加し、この現象に危機感を覚えたコンスタンティノポリス教会は「イコン崇拝」という概念を確立し、崇拝方法を統制した。この政策の反動として小規模なイコン論争が勃発したが、やがてローマ帝国の皇族の権力闘争に利用され、大規模な対立へと発展した。第7回公会議(787年)では、神が人間として可視的存在(イエス・キリスト)となった現在、もはや「異教」のユダヤ律法を遵守する必要はなく、神・人両性の「像」として描写可能であると主張したイオアンニスの著作が採用された。さらにイコン破壊運動期の記録が大幅に改竄され、現在の「残虐な迫害運動」のイメージが形成された。また反偶像はユダヤ・イスラム的思想とされ、後世の「異教」観に大きな影響を与えた。
 質疑応答では当時の時代背景の考察において、イオアンニスの神学だけでは根拠として不十分であり、彼以外の著作も参照すべきであると指摘された。


○萩尾早紀(井上ゼミ)

「ドルフス・シュシュニック体制―その政治思想とオーストリア・イデオロギー―」

 報告では20世紀の前半、両大戦間期のオーストリア第一共和国で成立した、エンゲルベルト・ドルフス、クルト・シュシュニックによるドルフス・シュシュニック体制と呼ばれる権威主義的体制が、どのような政体でナチ・ドイツとの独墺合邦(「アンシュルス」)までの道を辿ったのか、またそこではどのような政策と思想が主張されたのかという問いについて述べられた。特にドルフス・シュシュニック体制期に導入された、カトリック的思想に基づく職能身分の制度、また第一共和国独立当初からオーストリア国内で根強かったドイツとの合邦イデオロギーに対抗する形で展開された「オーストリア・イデオロギー」と呼ばれるオーストリア・ナショナリズム諸理論を再検討し、 当該期のオーストリアで政権与党であったキリスト教社会党が国家を安定に導くため、また迫りくるナチの脅威からオーストリアの独立を守るために「オーストリア」としての独自性を追求した。
 総括として、共に帝国を構成していたハンガリーやチェコスロヴァキアなどが独立し、自らは望まない独立を押し付けられたオーストリアが、かつてヨーロッパの大帝国であったという過去との断絶に苦しみながらも独自の国家、国民意識を求め、そしてそれは第二次世界大戦以後成立したオーストリア第二共和国において国家、国民意識の成立という形で一応の決着がみられたと言うことができる、とした。またオーストリア史上、国家主導で初めて「オーストリア性」が追求されたという点で、ドルフス・シュシュニック体制の意義は大きく、注目すべき時代であると結論づけた。
 質疑応答では先行研究の整理不足と、報告者の結論と先行研究の区別が曖昧であるとの指摘がなされた。また当時のオーストリアでは、第一次世界大戦の敗北という事実に加えて、長年に渡り帝国を支えた皇帝が崩御したという出来事も国民感情に打撃を与えたのではないか、との問いも出され、報告者は研究活動を進めていく上でも、今後は第一共和国以前の時代から分析の対象に含めていきたいとした。


○河邉なつみ(北條ゼミ)

「御霊信仰と神観念の変遷―菅原道真を中心に―」

 この報告において河邉氏は  怨霊から学問神へと独自の発展を遂げた菅原道真の神格が、何故他の御霊の対象と比べて特殊に発展したかについて着目することとした。その上で御霊が発展する段階を考察すること、またそれは御霊の祭祀儀礼である御霊会にも適応されるのかを考察することを目的とした。
 まず初めに史書類等の記述に従って、道真が怨霊から学問神へと発展する過程の段階分けを行った。そして、その上で井上内親王、早良親王の怨霊の変遷にもその段階が適用されるかを比較検討した結果、三者とも怨霊として認識されることは共通であるが、井上内親王・早良親王は単独での神格化が見受けられないことが分かった。故に道真は、固定の地で神として祭祀された点、詩文の神という一面を確立した点、天皇・朝廷に神として認められた点で特殊であると考察した。
 また、『日本三代実録』にみられる貞観五年の御霊会、祇園御霊会、北野御霊会の概要と変遷、及び関係性について考察し 、道真を祭祀する北野御霊会は他と比較して、疫病や祟りの記述が見受けられないなどの特性を持つことを指摘した。そのことから、道真は既に怨霊・冤魂の性格を脱した存在ではないかと推察でき、故に御霊会も疫病を払う目的から離れたのではないかと結論付けた。
質疑応答では、延長八年の清涼殿落雷事件と道真の関わりを更に疑うべきとの意見があった。また、御霊会を検討する際に用いた『二十二社註式』の成立年代について指摘がなされた。前者については、明確に道真の怨霊を示す表現がないため関連性を詳しく言及しなかったが、天神となった道真を検討する上で今後の課題にしたいとした。


○木暮咲樹(川村ゼミ)
「江戸時代の伊勢参宮考察―伊勢講、伊勢御師との関連性を中心として―」

 報告は、江戸時代の旅のうち伊勢参宮に焦点を当て、伊勢講と伊勢御師との関連性を軸としてその実態に迫ろうとしたものであった。先行研究は、戦前は国体との関係を重視した研究が中心となる傾向にあったが、戦後その規制が解かれ、地方史の活発化と合わせて伊勢参宮の研究が盛んになってきたとまとめた。伊勢参宮の基本的な形は領主に届け出をしてから参拝するというものであるとし、安房国と播磨国の伊勢参宮の事例を挙げ東西の参宮の比較をした。さらに無断で参宮に出かける抜け参り、熱狂的な群参現象であるおかげ参りという特殊な参宮について論じ、どの参宮にも共通していたのは一生に一度は伊勢神宮に参拝すべきという信仰心が存在していたことであったとまとめた。次に参宮道中の名所巡りのルートの定型化、道中の食事や土産についてまとめ、伊勢参宮には観光という側面もあったと結論付けた。庶民の参宮を支えたものとして伊勢講と伊勢御師を挙げ、伊勢講については概要とその全国的な分布や特徴的な儀式について述べた。伊勢御師については活動を庶民の信仰心に応える聖の側面と経済的な要素が濃厚な俗の側面に分けて具体的に論じた。以上より伊勢参宮の旅は信仰と観光の両面で庶民を満たすものであり、伊勢講と伊勢御師は参宮の隆盛を支えるのに不可欠な存在であったと結んだ。
 質疑応答では多数の意見が寄せられ、聖と俗という言葉遣いに関する指摘、儀式の東西の違いはあったのか、参宮が政治的利用をされたことはあったのか、参宮前後の庶民の変化はあったか、名所絵以外のガイドブックの存在、国民や宗廟という言葉遣いに関する指摘などが挙がった。報告者は出た意見を今後の研究に活かしていきたいと述べた。

2016/01/14

上智大学史学会第65回大会

2015年11月22日(日)上智大学7号館文学部共用室において、上智大学史学会第65回大会が行われました。大会は以下の要領で開催されました。このブログでは、各部会研究発表および、上智大学名誉教授中井晶夫氏による公開講演の模様を載せさせて頂きます。


第一部会(日本史) :共用室C

・堅田智子 氏 (上智大学大学院)
「「法学徒」としてのアレクサンダー・フォン・シーボルト 
    ―条約改正交渉における外国人判事任用と帰化法をめぐって―」

・川村信三 氏 (上智大学教授)
「バチカン図書館古文書調査  ―マレガ・プロジェクトに参加して―」

・中村航太郎 氏 (上智大学大学院)
「平安期陰陽師の職能の伝習と修得  ―「相地」をめぐる変遷から―」







第二部会(東洋史) :共用室D

・酒井駿多 氏 (上智大学大学院)
「漢代の羌  ―主に分布と移動に関して―」

・松浦晶子 氏 (上智大学大学院)
「北宋中期の雅楽改定」

・厳琳 氏 (上智大学大学院)
「『夷堅志』に見える宋代の巫覡」

・中島良江 氏 (上智大学大学院)
「承徳の普陀宗乗之廟、万法帰一殿と、スウェン・ヘディンによる調査」







第三部会(西洋史) :共用室A

・奥山広規 氏 (広島商船高専非常勤講師)、西山要一 氏 (奈良大学名誉教授)、
 豊田浩志 氏 (上智大学教授)
「オスティア遺跡「七賢人の部屋」の文字情報をめぐって」

・石川柊 氏 (上智大学大学院)
「中世デンマークの対エストニア関係の変遷
 ―ルンド大司教エスキルの宣教計画を中心に―」

・宮原愛佳 氏 (上智大学大学院)
「F・ハルコルト著『下層階級の市民化と解放の障害についての所見』の考察
                     ―三月前期の「社会問題」に対する一市民の見解―」

・山﨑由紀 氏 (敬和学園大学准教授)
「1920年代初頭のアメリカにおける日系人カトリック宣教移譲をめぐる問題」







公開講演:上智大学7号館特別会議室

14時30分からは公開講演が行なわれました。講演は、上智大学名誉教授中井晶夫氏による「昭和20年代の上智大学史学科と私の研究の歩み ―スイスの第 1 次世界大戦関係史料を中心に―」でした。