2017/11/22

2017年度10月例会



  20171021日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
 報告は、上智大学国際教養学部教授であるスヴェン・サーラ氏による、「『上智大学史』に向けて現在の取り組みと今後の課題」、本学資料室臨時職員である浅野友輔氏による、「上智大学学生生活史の素描<学友会>から<学生会>へ」、本学文学部PDである堅田智子氏による、「上智学院第2代、第7代理事長クラウス・ルーメルの見た学生運動」でした。





 サーラ先生からは、「『上智大学史』に向けて現在の取り組みと今後の課題
と題した、上智大学で行われている「上智大学史」というプロジェクトに関した説明をしていただいた。

 上智大学に関したものは、『上智大学資料集』などを始めとした多くのものが作成されている中で、「学術的な」意味のあるものが今まで作成されていないと先生は仰っていた。そこで、先生のこのプロジェクトは1913年から2013年までの100年を目安にして、上智大学の正確かつ学術的に価値のある大学史を作成することが第一の目的であるとのこと。具体的には、上智大学の時代ごとの特色や、大学と国内、海外との組織との繋がりがどのようなものであったかを探るとのこと。100年記念の際、上智大学の100年の歩みをまとめたものが発行されたものの、学術的に有益かどうか疑問が残るものであったため、今回のプロジェクトは、有益性の高いものを作成したいとのことであった。

 今回の説明で特に興味深かったのが、第一次、第二次世界大戦の戦時期における上智大学内の在り方についてである。神父などを始めとした外国人が、時には追放されることなどがあったことから、大学が時代の情勢に影響を受けていたことが判明した。
 その他、浅野氏や堅田氏の発表へと繋がるような説明もなされており、大学史に関して知らない、もしくは興味のなかった人に、興味関心をもたせるような説明がなされていた。
 質疑応答の時間では、そもそも大学史の研究を1913年からスタートする意義は何であるか、などを始めとした議論がなされた。日本の大学認可制度の展開の中で、正式に大学として始まったのが1913年とのことで、この年からの大学史を作成していく重要性を熱く語って下さった。









浅野氏は「上智大学学生生活史の素描―「学友会」から「学生会」へ―」と題して報告を行い、上智大学内の学生組織の変遷を追った。これまで学内の学生組織については、学生による大学自治機構とされる「学生会」と、その前身と目される戦前の「学友会」が注目されてきたが、両組織の具体的な連続面は明らかではなかった。そこで氏は学生組織に関する規則や、学内外の報告書に注目し、「学友会」と「学生会」、および両組織の狭間の「修練報国団」の様態を分析した。

上智大学最初の学生組織で、1913年始動の「学友会」は全学生が会員となり、各部活動が置かれ、教員と共同でレクリエーション活動を行う大学自治機構として位置付けられた。そこでは学生主導の会議が運営されるとともに、他大学学友会との交渉など対外的な場において、教員のもつ他大学(例:東京外国語学校)とのつながりも活用されていた。
しかし、日本国内が戦時体制に向かうにつれて、「学友会」は組織変容を求められるようになる。19371939年に学内諸団体について文部省から問い合わせがあったが、その時点で学内に国防注力組織「旭鷲会」が存在しており、1941年には「学友会」が消滅。既存の部活動(班)を吸収し、学生と教職員に軍事教練や国防研究を励行させる「修練報国団」へと改編された。同団では、同組織の団長である学長の権限が強化され、学生は組織運営の主要メンバーから外されるなど諸権限を喪失したため、大学自治機構としての学生組織の在り方は否定されていく。

戦時中は上記の傾向が続き、学生による組織内会議運営・自治の復活は、戦後1946年の「学友会」再組織化を待たなければならなかった。「修練報国団」より代わった「学友会」は再度大学自治機構として位置づけられ、その性格は1950年発会の「学生会」にも継承されていった。
浅野氏は報告内で、以上の「学友会」から「修練報国団」、「学生会」に至るまでの流れは、他大学学生組織との間でも共通点・共時性を見出せることを指摘。各組織の動向について、同時代の国内外の教育・政治状況とも照らし合わせて幅広く史料を蒐集することを今後の課題とした。
質疑応答では、大学・文部省間の交渉に関する史料の残存状況や活用手法、「学友会」から「修練報国団」への変質時期における国内情勢の事実確認と、その同時代認識について質問がなされた。
 






堅田氏からは、「上智学院第2代、第7代理事長クラウス・ルーメルの見た学生運動」というタイトルで報告がなされた。
発表においては、まず、上智大学における学生運動の概要について説明があった。上智大学における学生運動は、19686月から運動を中心として始まり、全共闘系学生を中心として、断続的に校舎の占拠があった。これに対し1221日に大学側は、機動隊導入を要請し、その結果、バリケード封鎖は解除され、6か月間の臨時休校措置を行なうことによって、速やかな事態の収拾を図り、これが「上智モデル」として学生運動の鎮圧モデルとして国内に広まったということが、これまでの大学による公式見解である。

続いて、クラウス・ルーメル(Klaus Luhmer,1916-2011)と、学生運動との関わりについて説明があった。上智大学で第2代、7代理事長を務めたルーメルは、学生運動が全盛期を迎えた1868年当時、広報活動を担う渉外室主任であったが、学内で配付・掲示されていた大学側、学生側が作成したビラ、パンフレットなどの印刷物を個人的に収集していた。これらは現在、上智大学史資料室に所蔵され、彼の名を冠した「ルーメル・コレクション」という資料群も存在する。

ルーメルは、学生運動に対する自身の見解も残しており、のちの回想によると、そのメカニズムをスローガン、イデオロギー的背景、闘争方法から分析し、対話を通じて、学生運動を解決に導こうと努めていた。また、ルーメルにより収集された資料群を分析により、学生運動の期間についても、公式見解とは異なり、ルーメルは1964年から1973年頃までと認識していたのではないかとの堅田氏の分析も示された。

堅田氏は最後に、ルーメルの見解と併せて上智大学における学生運動を再検討した上で、大学側と学生側の協議によって、学生側が主張していたように、学生要覧の内容が改訂されたと、具体例が示された。学生運動の結果から現在の大学の姿に連なり、学生も知らず知らずのうちに受容している部分も多数あり、学生運動に関して見ていくことは、現在の学生生活を問い直す上で重要であると締めくくった。

質疑応答においては、上智のみならず、他大学とのつながりの中で改めて学生運動を見直すということは意義のあることだという意見や、校舎に籠城した学生の中に、他大学の学生がどれほどいたのかという質問、現在ではノンポリの学生が増えて、そもそも熱が失われているのではないかとの意見が出た。