2017/07/31

2017年度6月例会


 2017617日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
 報告は、上智大学大学院博士後期課程生である酒井駿多氏による、
「後漢後期における異民族政策の転換」、
 本学非常勤講師である堅田智子氏による、
「明治・大正時代における日本でのドイツ式高等教育の導入と実践
 ――獨逸学協会学校から上智大学へ――」でした。



 酒井氏からは「後漢期における対異民族制度―異民族統御官を中心に―」と題した、後漢後半期の軍事制度についての報告がなされた。
 酒井氏は、従来の後漢史は政治闘争や豪族論が中心で、異民族の大規模な中華侵入や、後漢軍制における異民族の位置が軽視されていることを問題点として挙げた。その上で、漢の研究者から後の時代へアプローチする必要性を説き、異民族の軍事利用と既存の軍制との摩擦や、それによる複雑な状況を主題に論を展開していった。

 まず、既存の軍制としては、軍縮後、邊都においては軍備の充実や細分化が見られ、地方防備においては後に軍権を獲得していく州刺史や、郡を治める太守が併存していたが、一方、実際は異民族統御官が辺境において重要な働きを成していたという。
 異民族統御官設置の背景には後漢後期の内徙策があった。
この策は、不安定な涼・并・幽州に烏桓や南匈奴を内徙することで、北匈奴との間に緩衝地帯を形成することなどを目的としていた。
 異民族統御官は前漢期には具体的な統治に関わっていなかったが、内徙等によって異民族が増加した後漢に入ってからは当該異民族を率いる権限、付随して近隣の軍兵を指揮する権限、更に、異民族統治に関わる権限まで持ち合わせるようになったという。
 後漢期は、このように異民族統御官を利用して異民族を軍事的に利用してきたものの、
のちに彼らによる反乱が頻発し、政府内で彼らを追い出そうとする殄滅派と引き続き利用しようとする恩信派との論争が起きたが、すでに北方・北西方での軍事は異民族の力に頼っていたため殄滅は不可能であった。

 結論として酒井氏は、後漢末期に殄滅に舵を切ろうとした時にはかなりの異民族が中華に流入しており五胡十六国時代の異民族流入への土台ができていたこと、
外敵に対する防衛で異民族統御官が活躍し権限を増した一方、州刺史なども軍権を獲得するなど非常に中途半端な状況になったとしており、
後漢後半期の軍事制度は地方軍が広域な活動ができるように改変される過渡期であり、
そこで顕在化した異民族統御官と州刺史の権力干渉は三国時代以降に変容していくと締めくくった。

 質疑応答では、内徙された異民族への税といった経済面への疑問や、異民族同士の敵対関係はあったのか、異民族統御官内での優劣関係はあったのかなど活発な議論がなされた。
 中には、異民族という概念自体、現在の民族とは異なるのではないかという質問も飛び出した。




 堅田氏からは、「明治・大正時代における日本のドイツ式教育の導入と実践―獨逸学協会学校から上智大学へ―」というタイトルで報告がなされた。
 本研究の目的として、日独交流史の視点から、上智大学草創期のドイツ人SJの大学創設に至る動向を明らかにすることと、大学史、教育史の視点から、ドイツ人SJによりむすび
つけられた、上智大学と獨逸学協会学校の関係性を明らかにするという事が挙げられた。

 獨逸学協会は1881年に設立され、西周、桂太郎等が設立メンバーとして名を連ね、獨逸学協会学校を経営母体として運営したが、イエズス会の方針の下で、ドイツ的な教育機関を日本に置くことを目指した設立当初の上智大学との関係もまた、非常に深いものであった。
 まず、上智初代校長ヘルマン・ホフマンや、上智設立に携わったヴィルヘルム・エンゲレン、フリードリヒ・ヒリッヒ等が獨逸学協会学校においてドイツ語教師として勤務していたという事実は上智大学、獨協学園資料センター双方の史料から確認されること、
やはり上智の設立者の一人であるアンリ・ブシェーの日記には、獨逸学協会学校第6代目校長の長井長義が登場することが、今回の堅田氏の研究によって明らかになった。

 また、堅田氏は、獨逸学協会学校第4代目校長の大村仁太郎の目指したドイツ語教育、「人間の陶冶」に着目し、この交流の中で、「授業と『教育』、知識と『陶冶』の緊密な有機的結合」を目指したイエズス会、上智大学との理念の一致があったとした。
 そして、ドイツ式高等教育機関としての上智大学の活動にふれ、
「独日関係の黄金時代」の転換期の終焉を迎えて、その「ドイツ性」のあり方も変化していったことを述べて報告を締めくくった。

質疑応答では、上智大学は、大学令公布前に計画されたが、大学への昇格は計画段階から想定されていたのか、史料として用いられたホフマンの履歴書は誰が記したものなのか、上智大学におけるカトリック布教と教育の関係性はどのようなものであったかなどの質問がなされ、活発な意見交換が行われた。

2017/07/30

2017年度5月例会



2017513日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。
報告は、上智大学大学院博士前期課程生である渡部敦寛氏による
「八世紀における諸王長官官司とその史的背景」、
本学教授である中澤克昭氏による「日本中世の肉食カースト」でした。






今回は先日行われた上智大学史学会合同月例会における渡部敦寛氏の発表内容の概要と、その発表後に行われた議論について記していく。
まずテーマは「奈良時代にあたる8世紀の王族・貴族の大規模な家の内部構造」であり、そこから日本古代史という文脈の中での王族・貴族の家政機関を解明し、その歴史的意義を考察することがねらいとされている。
家政機関というのは、宮廷を管理する役職や、貴族に食事を提供する機関、そして行事や祭事の補助をする部署などのことを指している。
一般的なイメージとして、奈良時代の貴族は位が高く、優雅な生活をする一方で、
政治を中心的につかさどる人々であると、一枚岩のように解されているが、その王族・貴族というカテゴリー内部にも序列が存在しており、大きな主従関係や力関係の差もあらわれていたのである。

また、渡部氏によれば、諸王の中には、有名である長屋王家のような大きなものも存在していたが、それと同時代には多数の小さな諸王も存在しており、後者の史資料も収集し分析することで新たな歴史像が見えてくるのである。
なおレジュメにおいては、豊富な史資料数やその分析、また記号を用いての分類などの分かりやすいものが提示されている。

渡部氏は六国史をはじめとするデータから、主に「任用・登用のされ方」や「職務の特質」から、官司や家政機関を以下の四種類にカテゴライズしている。
「際立って諸王が補任されている役職・官司、すなわち世襲など特色ある人事がなされているもの」・「8世紀段階において諸王が補任されている官司」・「四等官クラスにしばしば技術保有者が含まれているか、特色ある人事がなされている機関」・「判断材料が充分でない官職」
といった四種である。
代表的な職務について述べると、前二種の中には「王族の名簿を管理するもの」や「鍛冶」や「雅楽」、「造営」といったものが含まれている一方で、後二種の中には「織物をするもの」や「土木や造園関係に携わるもの」や「造酒」、「医療技術を有する学者」、「宮廷の清掃を担当するもの」、「喪儀に携わるもの」が挙げられている。

以上のカテゴライズにより、渡部氏は、後二種の機関は「物的な充足を満たすことを目的とするごく小さな役所」であると分析し、権力関係・序列は前二種と後二種で大きく分かれていたと結論づけている。

 発表後の質疑応答では、「そもそも八世紀とタイトルづけた理由は何か?」と、
「本研究は定説の補完なのか。それとも再考をせまっているのか」
といった二つの点が挙げられた。
渡部氏は、まず前者に関して、9世紀になると任命されないポストもあるというメッセージを伝えるという点がねらいであると答えていた。
また、後者に関して「今現状は考え中であり、今後決定していく」と語っていた。
後者に対して「研究における自分の立ち位置や目的に関して、明確解析的なビジョンをもつことが望ましい」という指摘があった。






 中澤氏の報告では、まずこれまでの研究を概観した。
肉食の禁忌は巷間いわれるような仏教の影響でなく、神祇的肉食禁忌に発生の母胎があること。9世紀中葉から穢れ観念が肥大化し、獣肉食も穢れとして忌避されるようになったこと、
仏教の影響で牛馬を人間の生まれ変わりとする考え方が広まり、奈良時代までの牛馬食の伝統が途絶えたこと、
寺院内部の生活規則であった戒律が、外部にも適用されるようになったが、殺生・加工の場とその成果を消費する場が分離したため、前者を担う人々を「罪業」や「穢れ」と結び付け、差別するようになったこと、神仏習合の発達により、精進神が成立したこと、親王将軍宗尊親王を介して、獣肉穢れ観が東国にまで広がったとみられること。これらが、この報告の前提として確認された。

 この報告の視座として、以下の点が述べられた。
 肉食は中世の身分に対応し、魚貝を中心として、わずかに野鳥を食す天皇・公卿・殿上人、魚貝・野鳥のみならず、鹿・猪をも食す諸大夫・侍、さらに肉食忌避が薄弱だったと考えられる百姓・凡下と下人・所従という差異があった。
 こうした階層差は、貴族は善行を積んで往生できるが、「悪行」である殺生・肉食をする人々は地獄に堕ちるという考え方と結び付いている。
 肉食については、「抜け道」として「薬食い」とか「鹿食免」があり、実際には広く肉食が行なわれていたことが指摘されてきた。
しかし、身分・階層によって葛藤に差異があったことを見のがせない。

 また、殺生や肉食を正当化する「殺生・肉食善根(功徳)論」は、殺生を生業として行なわなければならない人々を救済する論理とされる。
しかし、当初そうした正当化の論理を求めたのは、殺生や肉食を忌避する貴族や上層の侍であり、後世、それが百姓・凡下にも流布したとみるべきである、といった見方が示された。

活発な質疑が行なわれ、「肉食=豪華な食事を食べない、という価値はいつ転換したのか」、ヨーロッパとの比較から「健全な肉体を維持するために肉食を是としなかったのか」、
「食用畜産が日本からなくなるのはいつか」、
「殺生をせざるを得ない下人・所従は、地獄・極楽という概念が広まるなか、
精神的に本当に救済されたのか」、
「都での世情不安の時代と殺生禁断との関係は」、「インドでバラモン教のアンチテーゼとして発達した仏教は当初から肉食禁忌でなかったのか」などの質問・意見がかわされた。