2015/11/14

大学院入試説明会

 12月17日(水)に、上智大学7号館にて、上智大学院文学研究科史学専攻の入試説明会が開催されます。詳細は以下のポスターを参照してください。








2015/11/10

2015年度10月例会

201510月10日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学史学科の卒業生であり上智大学文学部保健体育研究室教授である師岡文男氏による「体育・スポーツ科学と歴史学」、史学科の卒業生であり学会員である井野睦子氏による「均等法以前、そしてサウジアラビアへ」でした。


 師岡文男氏は1976年に上智大学史学科を卒業され、今回は同氏が在学、教員として戻ってこられた1970年代の上智大学の姿を振り返り、大学院以降研究テーマとされ多くの活動を通じ携わってこられている体育学と、その研究の骨子として活きる歴史学の素養について語った。少年時代の体験からユースホステルという若者を中心とした人々の交流の場への強い関心を抱いてきた師岡氏は、上智大学に在籍した4年間に史学科内、さらには大学全体にも及ぶ学生・教員間の交流の輪を広げる新たな活動に意欲的に取り組まれてきた。史学科内では思想の有無・上下関係にとらわれず多くの学生との交流を通じ、「歴史学という基本を学び、その研究対象を探す」という生き方を知ったと語った。さらに当時学生運動が未だ尾を引く社会背景の中、大学祭を学生・教員全体が楽しめる場として企画・運営することに着手し、その中にはミス・ミスターコンテスト等現在も継承されている催しがあったことについても話された。
 また師岡氏は体育学の側面から、「スポーツ」がその語源から「娯楽」の意味合いを含み、その存在・歴史が身体運動に留まらず社会・時代背景と作用し変質しえるものであるとした。そしてスポーツを通じて得た協力・尽力・挫折などの経験は、情報氾濫に伴う「成功体験の保証の時代」である現代において人間らしさを支えるものとなりえ、この点でも上智大学のfor others with othersの精神と結びつくものがあると語った。こうした眼差しから、教員として母校に在籍される中で、フライングディスクを導入し学生がスポーツを楽しめる環境作りに着手され、後に学内に留まらず世界選手権のアジア初招致を実現させたことについても語られた。そしてスポーツに対し、二度の東京五輪で起こる日本の変化に着目する視点等、研究対象と向き合う上で、歴史学的な原理・過程を見据え史料に向き合うといった手段やセンスが大いに活かされていると語った。
 質疑応答では氏の在籍時の史学内での学生運動の余波について、さらに教員として携わった大きな出来事であった上智大学派遣のインドシナ難民保護施設へのボランティア参加の体験についても語られた。


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 井野睦子氏は1981年に上智大学を卒業された。今回は、在学時の体験や当時の女子学生の状況、そして、ご家族の赴任に同行して滞在していたサウジアラビアでの生活について語った。 
 在学中の印象的な体験として、アンセルモ・マタイス先生の企画したインド・ヨーロッパ移動合宿が挙げられた。その合宿での移動中にイラン・イスラム革命が勃発し、予定していたテヘランではなくエジプトに着陸することになってしまったが、そのような状況において、エジプト滞在の助けとなったのが、イエズス会のネットワークであった。また、この移動合宿の参加者は、半年以上かけて事前の勉強会を行い、ともに過ごすことで人間関係を築いていったこと、そしてスペインでは、マタイス先生のご兄弟のご家庭に分宿して家族ぐるみで交流を深めたことなどが語られた。 
 次に、当時の女子学生の就職状況について述べた。当時は均等法施行以前のため、特に四年制大学の女子には厳しい状況であり、また就職したとしても結婚後に退職する人が大多数の時代であったが、公務員や外資系企業などに就職した同級生達は現在も活躍していることが語られた。また、留学や海外駐在など何らかの形で海外に出る人も多く、井野氏も家族の仕事の都合で海外に出ることになったと述べた。 
 サウジアラビアでの生活については、外国人がまとまって居住するコンパウンドでの生活について述べた。2001年の同時多発テロを機に、コンパウンドがテロの標的になるようになり、非常時への備えは常に意識していたという。また、コンパウンドでは様々な国から多様な背景を持った人々が暮らしており、そのような環境に順応し、多様性を受け入れることができたのは、上智大学在学中に得た経験のお陰であると語った。 
 最後に、上智大学の恩師や卒業生のネットワークについて、海外駐在時や帰国後など、あらゆる場面で互いに助け合うことができたため、このことは非常に強みであると語った

2015/08/16

2015年度7月例会

20157月11日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学史学科の卒業生であり前史学科ソフィア会会長である日下幸雄氏による「断簡雑話」、史学科の卒業生であり学会員である林紀美子氏による「上智初期女子学生とその後」でした。



 日下氏は、自身の歴史観とともに、半生を振り返った。もともと歴史が好きで、頼山陽の『日本史』などを読んでいた。当時読んだ歴史の概説書は各王朝等の業績を年代順に書き著したものが多く、読み物としては、三国志演義』や歴史小説の方が面白く感じた。しかし我々は、このよう文学作品を読む際、クリティックをしながら資料を読まなければならないと述べた。文学の視点から見た歴史は、ある程度当時の時代背景を踏まえたうえで、実に理解しやすく物事が描かれている。ところが、歴史学者は、記録や証拠などの裏付けができない限り断定はできない。我々は、歴史小説を読むことで、その時代を理解しようとしてしまうが、小説内の細かな出来事や言葉は、事実とは無関係である。歴史家は、文献史学を志す以上、文献に基づいて歴史を証明しなければならないため、知れば知るほど、歴史を確定、断言していくのは難しいと述べた。
 次に、日下氏が「歴史」の面白さを本当に理解したきっかけである、ハーバー・ノーマンの『日本における近代国家の成立』との出会いを述べた。この著作は、年代順に積み上げていく歴史記述とは異なり、歴史を機能的に捉え、考察していく方法で記されていた。氏は院生時代にこの本と出会い、機能的な考え方を身につけることで、歴史学への向き合い方を理解できたとした。
 大学院での研究テーマは、日本はヨーロッパ文明をいかに受容してきたかという問いであった。社会学者のハーバート・スペンサーの著作を中心に、日本人にスペンサー等の著作が読まれていたのではないかと考え研究を進めた。結果としては、当初の目論見は外れ、日本は、スペンサーの本が読まれた形跡や、影響がなかった。江戸末から明治の初期の日本は、船の作り方や、鉄砲の仕組み等の実学的なものへの興味が向いており、ヨーロッパ文化の社会学的な部分を吸収するにはまだ早い段階であったという結論に達した。
 上智大学には、非常に感謝しており、for others with others の考えをつくづく実感し、我が大学がそういった理念を掲げていることに誇りに思っていると述べた。


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 林紀美子氏は1964年に上智大学を卒業され、今回は上智大学の女子学生について、そしてご自身のことについて語った。林氏は在学中、西洋史、特にイスラエル建国史に興味を持ち、ドイツ語を選択していた。このドイツ語クラスは経済学科など史学科以外の学科と混合したクラスで、このクラスでは女子生徒は数人であった。しかし、1964年の史学科は3分の2が女子生徒であり、それまでの年とは異なり女子生徒が非常に多かったことを、大島館など当時の女子生徒の生活についての話を交えて語った。また、当時の史学科の同級生の女性の現在についても話された。コロンビア在住で画家になった友人や、ハワイ在住で夫がロシア正教の司祭で本を出版した友人、弓道の家元の出身で結婚・子育の後に実家に保存されていた古文書を現代語訳している友人など、その活躍を語った。
 また、林氏自身の人生は波乱に富んだものであった。上智大学在学中にイスラエルについて専門に学んだこともあり、イスラエルに留学した。10カ月間語学学校に通ったが途中で第三次中東戦争が始まり、急いでイスラエルを出国し、戦争が終わるまで1カ月程キプロスに滞在したという。そしてその後はドイツへ留学した。ドイツに決めた理由には日本の商社が多かったこと、当時成長していたドイツ経済の解明、自身の卒業論文においてナチス時代のドイツを取り扱ったこと、などが挙げられた。西ベルリンの大学に通ったが、現地は3分の1が学生、3分に1が年金で暮らしており、学生はとても優遇される場所であったことなどユーモアを交え語った。そして1970年に帰国し、上智の学生時代に社会科とドイツ語の教員免許を取っていたこともあり、約20年間、日本語教師として活躍された。


2015/07/20

2015年度6月例会

20156月20日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院博士後期課程生である杉浦廣子氏による「李覯における『天』観の再評価」、本学の学会員であり現在早稲田大学で助手をされている柳下惠美氏による「イザドラ・ダンカンの舞踊芸術の形成とその普及」でした。


杉浦氏からは、北宋の儒学者である李覯の天人観について報告がなされた。先行研究において、李覯の思想は『荀子』の影響が強く、『孟子』に批判的な正名派寄りの思想と考えられることが多いという点を挙げ、李覯の思想を考えるうえで、『荀子』の「天」理解と人性論とのかかわりをより細かく見ていく必要があると杉浦氏は説明した。検討の結果、李覯は基本的には儒教本来の「天」観を継承したうえで、神秘主義に偏りすぎた部分を正していったことがわかった。また、人民の教化に関しても、『荀子』に基づいて「礼」を規範とした教化を考えているが、その実現のために打ち出された富国強兵策などを考慮すると、『孟子』的な要素が多分に含まれていることも否定できないとした。先行研究で類似性が指摘されていた王安石の『周礼』に基づく新法政策との関わりについても、出発点が富国であるか民衆教化であるかという違いがあることを示された。
総括として、李覯の思想は単に『荀子』を支持し、『孟子』を排撃するという単純な構造ではなく、当時の宋王朝が直面していた政治的・宗教的な問題への対処として、さまざまな諸子思想を取り入れることで、新たな潮流を模索していたと考える必要があると結論付け、李覯の思想研究をより深めていく意義を提示した。
質疑応答では、李覯等当時の儒家が道教などの諸宗教からも影響を受けているとするならば、宋代の各宗教の状況も同時に細かく検討していく必要があるのではないかという指摘があった。断片的なエピソードとしては見受けられるものの、経典レベルでの関係に関してはより深く検証していかなければならないとした。また、李覯の政界での立ち位置についての質疑もなされ、李覯に関する研究をどのように位置づけるかなど、研究史においても有意義な意見交換が交わされた。


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アメリカ人舞踊家イザドラ・ダンカンIsadora Dunkan(1877-1927)は、19世紀末から20世紀にかけて活動した近代ダンスの始祖であり、裸足で踊るスタイルが特徴的な人物である。柳下恵美氏は、博士論文「イザドラ・ダンカンの舞踏芸術の形成とその普及―彼女と継承者たちの国際的公演・教育活動を中心に―」(三部構成)のうち、第一部にあたるダンカンの舞踊芸術の構築と国際的な公演活動を中心に報告した。
 10代前半から舞踊を披露していたイザドラは、1899年にロンドンに活動の拠点を移し、サロンで自身の舞踊に対する評価を獲得していった。彼女は、大英博物館のギリシアの壺から、ギリシア的な舞踊を考案した。裸足の舞踊が有名なダンカンだが、当時はまだサンダルを履いており、1900-1902年のパリ時代に川上貞奴の踊りを見て裸足の舞踊が確立したということを、柳下氏は資料調査により実証した。パリの一座を去ってドイツなどでソロ公演を始めたダンカンは、公演活動や舞踊理論の講演により、自身の踊りを「芸術」へと昇華させることに成功し、「聖者イザドラ」と呼ばれた。1908年のアメリカでの公演も大成功に終わった。しかし、ロシア移住後の1922年には、自らの言動により、西側世界から共産主義者との烙印を押され、アメリカ公演の後半やヨーロッパ帰還後のドイツ公演は失敗している。1927年に行ったパリのモガドール劇場での公演を最後に、ダンカンは事故により50歳でこの世を去った。
 質疑応答では、ダンカンの時代のアメリカの舞踊がどのようなものだったかという質問や、ダンカンが追い求めた「自然」は、その思想潮流が後年ナチズムにも流れていく歴史を考慮すると、問題がなかったのか等について指摘があった。それに対する応答として、アメリカの舞踏は大道芸のような余興であったと、映像を示しながら紹介し、また、ダンカンの支援者には実際にナチス党員もいたことを説明した。

2015/06/17

大学院入試説明会

 7月8日(水)に、上智大学7号館にて、上智大学院文学研究科史学専攻の入試説明会が開催されます。詳細は以下のポスターを参照してください。





2015/06/13

2015年度5月例会

  2015530日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学史学科の卒業生であり学会員である元川士郎氏による「近世ポルトガルの異端審問制とその社会的影響―ある新キリスト教徒の審問とその後―」、本学名誉教授である磯見辰典氏による「私とベルギー」でした。




元川氏の報告は、1536年に導入されたポルトガルの異端審問制について論じる内容のものであった。元川氏は、まずポルトガルへの異端審問制導入の過程について論じ、導入要因としてスペインのユダヤ人追放令によるポルトガルへのユダヤ教徒の大量流入を挙げた。そして、ポルトガルの異端審問制がユダヤ人の追放を目的とするスペインの異端審問制と異なり、同化政策を目的としていた点に注目し、17世紀のリスボンの商人であったフェルナオン・アルヴァレス・メロの異端審問の判決申し渡しの儀式(アウト・ダ・フェ)を具体的に取り上げて論じた。その上で、裁判におけるメロの行動から、ポルトガルの異端審問制の導入目的や中世異端審問制との相違点、異端審問制が遺した影響などについて考察していた。また、ユダヤ系カトリック教徒をポルトガルの新キリスト教徒として位置づけ、最終的には、国民の統合やナショナリズムの醸成を促進し、大規模な暴動や宗教間の争いなどの発生を抑制したことを、異端審問制がポルトガルにおいて遺した影響として主張した。
質疑応答では、実際の異端審問に関与したのはどの教団であったのかという質問や、同化していた人々を排除することにどのような意味があるのかといった様々な質問がなされた。報告者からはそれぞれについて、アウト・ダ・フェでは主な教団としてドミニコ会が関与していたことや、異端審問制には異端を同化させる目的だけでなく財産没収の側面もあったなどといった回答がなされた。


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 磯見氏はまず、ベルギーに出会うまでの道のりを語った。名古屋の幼年学校を経て、上智大学の史学科へ入学した磯見氏は、方向性に迷いながらも当初はキリシタン史に積極的に取り組んだと言う。最終的には、その語学力を活かして、本格的にフランス史の世界へと移ることになる。それから教員として上智大学に戻ったのち、留学先に関し神父たちから強い薦めを受け、磯見氏はベルギーに渡ることとなった。

 次に、留学先ベルギーのルーヴァン・カトリック大学での思い出が語られた。ここで磯見氏は恩師エミール・ルース氏に出会う。ルース氏は磯見氏に多大な学問上の影響を与えることとなった。この学恩の一例として、三十年戦争勃発時の神聖ローマ皇帝であったマティアス(在位1612~19)の研究へ導かれたことが挙げられた。またかつてルース氏が会長を務めていた議会制度史学会との長きにわたる関わりについても、磯見氏は恩師の記憶とともに感慨深げに回想した。磯見氏のベルギーとの関係はこの後、戦前に長く駐日ベルギー大使を務めたバッソンピエールの手記の翻訳や、共著『日本・ベルギー関係史』の出版など、多様なかたちで結実することとなる。
 またさらに史学科の卒業生との交流を現在でも大切にしていることも強調された。来場していたOG・OBの方々からも磯見氏の思い出が挙げられ、50歳を過ぎてから始めた劇団「くるま座」の演劇活動、また再建と発展に貢献した大学サッカー部に関する当時の事情も語られた。ほぼ30名にも及ぶ来場者たちはこうした貴重な回顧に終始耳を傾けた。上智大学史学会創立65周年の節目にあたり、その足跡を振り返る企画における最初の講演としてもたいへん意義深いものとなった。

2015/05/11

2015年度前期院生総会・卒業論文発表会



2015年度前期院生総会ならびに卒業論文発表会が425日に開催されました。新たに院生会へ加入した7名の新入生による熱のこもった発表が行われましたので、以下、発表者氏名と所属ゼミ、並びに卒論の題目と報告内容を紹介いたします。



○高橋玲奈(児嶋ゼミ)

「スターヴ聖堂ポータルに現れた〈ファーヴニル殺しのシグルズ〉―その出現と解釈への再検討―」

高橋氏の報告は、中世ノルウェーにおける木造小聖堂(スターヴ聖堂)群の、中でもポータル彫刻に古代北欧伝説の英雄シグルズによる悪竜・ファーヴニル退治の図像を含む事例(シグルズ・ポータル)を取り上げ、その図像解釈について考察するという内容であった。その論の主軸は、古代北欧伝説の英雄像という異教的イメージが聖堂装飾に出現したことにより、「ドラゴン退治」要素を有する諸聖人や、悪魔に勝利するキリスト像等と同様に、キリスト教的象徴として再解釈された可能性を検証することにある。具体的には、シグルズ・ポータル群内・他の美術作品・同時代文学等との比較から「ドラゴン退治」図像が意図的に選択されていたことを確認し、さらに12世紀中葉ノルウェーの教会史的変化の検討からキリスト教的象徴理解を可能とした文化的背景を見出すことで、シグルズ像のキリスト教的文脈での再解釈が可能であったと結論付けている。
質疑応答では「ドラゴン退治」図像の意義や当該作例をシグルズと見なす根拠等、この研究の基礎的事項への詳細説明を求める質問があった。又研究方針に対し、美術史的視点での一次史料への慎重な検討や、各作例の地理上の分布への考察の必要性が指摘された。特に後者の指摘は、高橋氏が卒業論文の段階で不十分であったとする各司教区と彫刻図像との関係性の検討に繋がるものであり、同氏はその点を今後の重要な課題にしたいと述べていた。

○岡野佳織(笹川ゼミ)
「太平天国の女性像—太平天国外部と内部指導層の女性観と変遷—」

 岡野氏の報告では、太平天国の外部の人々、並びに内部指導層らの女性に関する記述をピックアップし、太平天国の女性像を考察した。先行研究では太平天国の女性史について女性解放か否かという点で研究から研究している。全面的、一部合わせて多くの研究者が太平天国は女性解放の先駆的組織であったと結論づけていた。これらの、太平天国=女性解放という色眼鏡をはずすことで、当時の女性像がみえてくると考えた。外部、内部指導層の女性の記述を集め、その記述を文章ごとに考察した。また、行数により女性の記述の割合を提示し、その記述の少なさにも注目した。
 外部の人々は、一部の外国人を除き、太平天国について男女平等、もしくは女性解放を押し進めた組織との認識は無かった。また、内部でも指導層に女性参政などの意志があった訳では無く、最終的には理想の上でも大きく制限を受けていた。つまり、同時代的には女性解放と認識されていたのではなく、彼女達は、戦力不足の解消や彼等のユートピア建設までの補佐的役割と考えられていたと結論づけた。
 質疑応答では、「女性解放」という言葉の定義づけが必要であるとの指摘を受けた。漠然と家父長制や売買婚、纏足の禁止と認識していたが、不十分な点も多く、本文中にも明記していない。「解放」などの言葉や概念の海外からの影響や後世の人々の認識にも触れ、卒業論文を補強し、今後に活かしていきたいとした。

○西山裕加里(北條ゼミ)
「稲荷とその使い―狼から狐へ」

 報告では、古代において稲荷大社の神使は狐ではなく、狼であったのではないかという点について述べられた。稲荷大社の創建伝承である『山城国風土記』逸文の内容、東寺による稲荷社の樹木伐採とその祟り、稲荷社の祭神等を検討した結果、稲荷神の原初形態は山の神であると仮定し、山の神であるということ、稲荷社の奉斎氏族である秦氏との関係からその使いは狼が適当であるとした。その後、山の神としての稲荷神が徐々に穀物神としての性格を帯び、また、『日本霊異記』の記述より、狐は農耕と関係のある動物であるということから、稲荷社の神使は狐に変わったということを述べた。しかし、狼は農耕民にとっては益獣であるという点から、この結論には誤りがあるのではないかと考え、修論では真言宗と稲荷社の習合等別の視点から考察し直す必要があるとした。
質疑応答では狼の特質をもっと良く考えるべきであるという指摘、現在の我々が認識する狐と古代日本における狐は同じものであるのかという指摘、中世ヨーロッパと中国における狼や獣表象についての他、指導教員の批判に簡単に屈しないようにするべき等、今後の研究に対する姿勢に関する指摘もあった。

○佐藤諒(長田ゼミ)
「三光作戦から見える日中戦争の責任の所在」

 報告は、日中戦争において、日本軍の正式な作戦計画に基づいて行なわれた「三光作戦」に焦点を当て、そこから見えてくる日中戦争の責任の所在を明らかにしようとしたものである。そのためにまずは、三光作戦が時期ごとにどのように展開したのか、そして三光作戦の実態がどのようなものだったのかを検討した。そして、そこから見えてくる日本軍兵士の行動原理と、指導者である軍中央部や日本政府、天皇といった権力者たちの考え方を考察した。その結果、日中戦争の責任の所在を「軍中央部および政府の権力者」にあると結論づけた。彼らは、日本軍を自分たちに都合の良い忠実な兵士に作り上げ、天皇制を都合のいいように利用し、自分たちが責任から逃れる仕組みを構築した。彼らの、自分たちにとって「良い」ことしか考慮しない「エゴイズム」こそが、日中戦争を凄惨なものたらしめた原因であり、日中戦争の根源的な責任は彼らにあると分析した。
 質疑応答では、「三光作戦」ありきの論文であり、三光作戦否定派の意見への反証がないと客観性に欠けるという意見が出た。また、制度上は大元帥である天皇が責任を負うべきだが、なぜそれができないのかということの論拠に乏しいという指摘も受けた。これらの観点に注意しながら、戦争責任論について再検討を行ないたい。

○吉澤直貴(井上ゼミ)
「西ドイツの『68年』 -68年運動」の要因に関する一考察-

 吉澤氏は1960年代後半に西ドイツで隆盛を見せた学生運動に関し、従来手薄であった原因論を検討する立場から報告した。
 まず世界的な反権威主義運動の拡大の前提として、新左翼の登場、米国とソ連の台頭、公民権運動や「プラハの春」のような世論を揺るがす諸事件が確認された。そしてこの状況下、大連立政府の権威の強大化、極右活動の顕在化、一連のナチ裁判、ナチス支持世代だった親や大学教授達への反発、ベトナム戦争と反戦意識の昂揚などの問題が西ドイツの学生層の懸案となっていたと指摘した。この複雑な背景の下で起きた196762日の学生射殺事件を契機とし、学生の不満と怒りが急進的な抗議運動へ繋がり、この事件から「68年運動」が始まるとされる点が最終的に触れられた。
メディアの発達や国外学生組織との交流などグローバルな要素に留意しつつ、学生運動家たちの論考と日記を史料として用い、彼らの問題意識における「反権威主義」と「ナチの過去への意識」の非常に強固な結合を吉澤氏は指摘し、こうした要素の結びつきが「68年運動」の爆発的展開に不可欠な一側面であったと報告を締めくくった。
 質疑応答では語の定義、客観性を欠いた表現、また運動の当事者が存命であるという現代史としての問題に関する言及があり、政治的側面の不足も問われた。これらに対する回答は不十分であったが、今後の研究活動をより発展的に進めるための重要な反省材料となったであろう。

○神津佳於理(児嶋ゼミ)
「海のテマの創設とビザンツ海軍の発展―テマ・キビュライオタイの創設意義―」

この卒業論文報告は、7世紀から9世紀初頭のビザンツ海軍について焦点を当てた発表であった。内容としては、『テオファネスの年代記』を主史料として設定し、その記述の分析から海軍テマの創設意義について考察を行うというものであった。具体的には、ビザンツ海軍の起源からアラブ艦隊と対峙するまでの時代の流れを辿り、8世紀の皇帝レオン3世によって行われた海軍組織改革の目的を明らかにした。そして、それによって創設された「テマ・キビュライオタイ」という海軍テマの創設の意義について考察を行った。その中で、アラブの海上進出に際して、ビザンツが海軍にテマ制を導入して小アジア南岸を管区にもつ海軍テマを創設したことが、効果的であったことを主張した。また、テマ・キビュライオタイが、アラブ艦隊の恒常的・ゲリラ的な侵略への対処を担い、アラブ艦隊の活動を抑えることにより、防衛艦隊としての目的を果たしたということを強調した。
質疑応答では、なぜ『テオファネスの年代記』を主史料としたのかという質問や、船員はどのような者が担っていたのかという質問が出された。史料については、この時代の最も情報量の多い史料であったため採用したことを説明し、船員については、多様な民族が担っていたと述べた。また、軍事関係の考察だけでなく、税制などの行政的な側面にも目を向けたほうがよいとの指摘があり、今後は行政的な観点からも研究を深めていくと述べていた。


○渡部淳寛(北條ゼミ)
「古代鵜飼に関する予備的考察―漁の諸類型、およびその特質―」

 報告では、日本古代の鵜飼漁について漁業様態の特質とその意義を歴史的に位置づける試みがなされた。報告の末尾では結論的に、アユ(鮎・年魚)を供御するという目的においてこそ、日本古代の王権膝下で行われた鵜飼漁における〈夜漁・手綱を用いる〉という特殊な様態が選択されたとする推定が示された。
その推定を行う過程で、日本列島から中国大陸にかけて史料上、および現代の民俗事例に確認される鵜飼漁の様態について概括的な検討がなされ、〈昼漁/夜漁〉の別に重点を置く、先行研究とは異なった鵜飼漁の分類が提示された。報告者の仮定は、日本列島の鵜飼漁が、アユの漁果を期待するために夜漁へと転じ、その夜漁を行いやすくするべくウ(鵜)を手綱で繋ぐという様態に至ったとするものであった。また、折口信夫らの見解に着想した、農耕予祝としてのアユ漁の可能性についても触れられた。同時に、夜漁・篝火・船鵜飼という鵜飼漁の様態が平安貴族の歌材として好まれた傾向を指摘され、日本古代の鵜飼漁でも夜漁に文化的な重点があったとする論点が強調された。
ただ、報告者の関心事の雑多さも相俟って、報告で扱われた題材も人類学・生態学・記紀神話・万葉歌・人物埴輪など多岐にわたり、質疑応答では論旨が掴みづらいとする指摘がなされた。また、本報告の論点をどう修士論文へ繋げていくかという点についても懸念が示された。報告者としては、現時点では古代王権との関わりにおける鵜飼漁・漁撈の儀礼的側面に注目していきたいとのことであった。