2016/05/14

2016年度前期院生総会・卒業論文発表会

2016年度前期院生総会ならびに卒業論文発表会が4月23日に開催されました。新たに院生会へ加入した5名の新入生による熱のこもった発表が行われましたので、以下、発表者氏名と所属ゼミ、並びに卒論の題目と報告内容を紹介いたします。


○坂口万津子(児島ゼミ)

「礼拝図像から写実的物語図像へ―シモーネ・マルティーニのProto-Humanism的試み―」

 報告は、中世末期シエナ派の画家シモーネ・マルティーニ自身の独自な様式的・図像的解釈と、その先駆的試みの意義についてなされた。
 先行研究ではルネサンスに事実上連なるフィレンツェ派と並び、イタロ・ビザンチン様式から国際ゴシック様式への潮流において中心となるのが、ドゥッチオに始まりシモーネ・マルティーニによって最盛期を齎されたシエナ派であると言われている。
 そこで、ドゥッチオの前時代性を発展・解釈し独自の様式を生み出したシモーネの4作品《マエスタ》《受胎告知》《聖マルティーノ伝》《ヴェルギリウスの細密画》を先行研究に基づいて紹介し、シモーネの作品における様式変遷をたどり、結論としてシモーネの画業は時代背景と密接に結びつき、ペトラルカとの友好関係によって前人文主義的試みであったと述べた。
 《マエスタ》においては、天上の聖母子の荘厳を表す礼拝図像を、地上の世俗的かつ宮廷的風俗の図像へと変換しえた解釈は、シエナ市が九人制評議会の自治都市国家として発展した背景と重なると述べ、
 《受胎告知》は聖告のエピソードを多翼祭壇画の中心に据えた最初の作例であり、金地背景に描かれた大天使ガブリエルとマリアの心理描写が線描、とりわけ手の表情に表され、画家の最盛期の作品であることを提示した。
 《聖マルティーノ伝》は史料の欠如から年代判定の困難な壁画作品であるが、1985年のシエナ学会で、ローマ第二大学で教鞭を取りイタリア美術史を専門とするフェルディナンド・ボローニャが述べた「作品が様式を決定するのでありその逆ではない。」という発言に代表される作品から年代を測る美術史家と、史料に基づいた年代確定を優先する歴史学者との微妙な食い違いを、改めてこの研究に携わる者に想起させる作品であると認識している点を述べた。
 《ヴィルギリウスの細密画》では、晩年期にアヴィニヨンでフランチェスコ・ペトラルカと交流したことで最新の人文主義に画家は直接触れたことになるが、絵画表現の革新は思想革新を後追いする形で進むと結論づけている。
 質疑応答では、《聖マルティーノ伝》に表れる笛を吹く奏者の像がロマネスク北イタリアの聖堂内にも見られるので関連性があるのでは、という指摘や、発表の際の図版表記方法の確認の必要性もなされた。


○H・I(豊田ゼミ)

「キリスト教と偶像崇拝―イコノクラスムの興亡―」

 本報告では、十戒において偶像崇拝を禁止しているにもかかわらず、なぜキリスト教はイコンや十字架像を許容しているのか、と問題提起した。そこでキリスト教世界初の反偶像運動とされる、ローマ帝国のイコン破壊運動を取り上げ、特にイコン崇拝を正統化したダマスコスのイオアンニスの著作に着目して偶像崇拝の是非について論じ、さらに彼の思想が受容された当時の時代背景を考察した。
 初期教徒たちは十戒を遵守していたが、教徒人口が増加するにつれて「異教」化が進行し、 十戒の規定は形骸化した。しかし6世紀頃、異民族の侵入に対する不安から大衆的な聖画像崇拝が増加し、この現象に危機感を覚えたコンスタンティノポリス教会は「イコン崇拝」という概念を確立し、崇拝方法を統制した。この政策の反動として小規模なイコン論争が勃発したが、やがてローマ帝国の皇族の権力闘争に利用され、大規模な対立へと発展した。第7回公会議(787年)では、神が人間として可視的存在(イエス・キリスト)となった現在、もはや「異教」のユダヤ律法を遵守する必要はなく、神・人両性の「像」として描写可能であると主張したイオアンニスの著作が採用された。さらにイコン破壊運動期の記録が大幅に改竄され、現在の「残虐な迫害運動」のイメージが形成された。また反偶像はユダヤ・イスラム的思想とされ、後世の「異教」観に大きな影響を与えた。
 質疑応答では当時の時代背景の考察において、イオアンニスの神学だけでは根拠として不十分であり、彼以外の著作も参照すべきであると指摘された。


○萩尾早紀(井上ゼミ)

「ドルフス・シュシュニック体制―その政治思想とオーストリア・イデオロギー―」

 報告では20世紀の前半、両大戦間期のオーストリア第一共和国で成立した、エンゲルベルト・ドルフス、クルト・シュシュニックによるドルフス・シュシュニック体制と呼ばれる権威主義的体制が、どのような政体でナチ・ドイツとの独墺合邦(「アンシュルス」)までの道を辿ったのか、またそこではどのような政策と思想が主張されたのかという問いについて述べられた。特にドルフス・シュシュニック体制期に導入された、カトリック的思想に基づく職能身分の制度、また第一共和国独立当初からオーストリア国内で根強かったドイツとの合邦イデオロギーに対抗する形で展開された「オーストリア・イデオロギー」と呼ばれるオーストリア・ナショナリズム諸理論を再検討し、 当該期のオーストリアで政権与党であったキリスト教社会党が国家を安定に導くため、また迫りくるナチの脅威からオーストリアの独立を守るために「オーストリア」としての独自性を追求した。
 総括として、共に帝国を構成していたハンガリーやチェコスロヴァキアなどが独立し、自らは望まない独立を押し付けられたオーストリアが、かつてヨーロッパの大帝国であったという過去との断絶に苦しみながらも独自の国家、国民意識を求め、そしてそれは第二次世界大戦以後成立したオーストリア第二共和国において国家、国民意識の成立という形で一応の決着がみられたと言うことができる、とした。またオーストリア史上、国家主導で初めて「オーストリア性」が追求されたという点で、ドルフス・シュシュニック体制の意義は大きく、注目すべき時代であると結論づけた。
 質疑応答では先行研究の整理不足と、報告者の結論と先行研究の区別が曖昧であるとの指摘がなされた。また当時のオーストリアでは、第一次世界大戦の敗北という事実に加えて、長年に渡り帝国を支えた皇帝が崩御したという出来事も国民感情に打撃を与えたのではないか、との問いも出され、報告者は研究活動を進めていく上でも、今後は第一共和国以前の時代から分析の対象に含めていきたいとした。


○河邉なつみ(北條ゼミ)

「御霊信仰と神観念の変遷―菅原道真を中心に―」

 この報告において河邉氏は  怨霊から学問神へと独自の発展を遂げた菅原道真の神格が、何故他の御霊の対象と比べて特殊に発展したかについて着目することとした。その上で御霊が発展する段階を考察すること、またそれは御霊の祭祀儀礼である御霊会にも適応されるのかを考察することを目的とした。
 まず初めに史書類等の記述に従って、道真が怨霊から学問神へと発展する過程の段階分けを行った。そして、その上で井上内親王、早良親王の怨霊の変遷にもその段階が適用されるかを比較検討した結果、三者とも怨霊として認識されることは共通であるが、井上内親王・早良親王は単独での神格化が見受けられないことが分かった。故に道真は、固定の地で神として祭祀された点、詩文の神という一面を確立した点、天皇・朝廷に神として認められた点で特殊であると考察した。
 また、『日本三代実録』にみられる貞観五年の御霊会、祇園御霊会、北野御霊会の概要と変遷、及び関係性について考察し 、道真を祭祀する北野御霊会は他と比較して、疫病や祟りの記述が見受けられないなどの特性を持つことを指摘した。そのことから、道真は既に怨霊・冤魂の性格を脱した存在ではないかと推察でき、故に御霊会も疫病を払う目的から離れたのではないかと結論付けた。
質疑応答では、延長八年の清涼殿落雷事件と道真の関わりを更に疑うべきとの意見があった。また、御霊会を検討する際に用いた『二十二社註式』の成立年代について指摘がなされた。前者については、明確に道真の怨霊を示す表現がないため関連性を詳しく言及しなかったが、天神となった道真を検討する上で今後の課題にしたいとした。


○木暮咲樹(川村ゼミ)
「江戸時代の伊勢参宮考察―伊勢講、伊勢御師との関連性を中心として―」

 報告は、江戸時代の旅のうち伊勢参宮に焦点を当て、伊勢講と伊勢御師との関連性を軸としてその実態に迫ろうとしたものであった。先行研究は、戦前は国体との関係を重視した研究が中心となる傾向にあったが、戦後その規制が解かれ、地方史の活発化と合わせて伊勢参宮の研究が盛んになってきたとまとめた。伊勢参宮の基本的な形は領主に届け出をしてから参拝するというものであるとし、安房国と播磨国の伊勢参宮の事例を挙げ東西の参宮の比較をした。さらに無断で参宮に出かける抜け参り、熱狂的な群参現象であるおかげ参りという特殊な参宮について論じ、どの参宮にも共通していたのは一生に一度は伊勢神宮に参拝すべきという信仰心が存在していたことであったとまとめた。次に参宮道中の名所巡りのルートの定型化、道中の食事や土産についてまとめ、伊勢参宮には観光という側面もあったと結論付けた。庶民の参宮を支えたものとして伊勢講と伊勢御師を挙げ、伊勢講については概要とその全国的な分布や特徴的な儀式について述べた。伊勢御師については活動を庶民の信仰心に応える聖の側面と経済的な要素が濃厚な俗の側面に分けて具体的に論じた。以上より伊勢参宮の旅は信仰と観光の両面で庶民を満たすものであり、伊勢講と伊勢御師は参宮の隆盛を支えるのに不可欠な存在であったと結んだ。
 質疑応答では多数の意見が寄せられ、聖と俗という言葉遣いに関する指摘、儀式の東西の違いはあったのか、参宮が政治的利用をされたことはあったのか、参宮前後の庶民の変化はあったか、名所絵以外のガイドブックの存在、国民や宗廟という言葉遣いに関する指摘などが挙がった。報告者は出た意見を今後の研究に活かしていきたいと述べた。

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