2011/06/30

2011年度6月例会開催

201164日(土)、上智大学史学会・院生会合同月例会が開催されました。報告は、上智大学大学院杉浦廣子氏による「災異と瑞兆のはざま―宋代に至る『受命之符』理解について―」、本学名誉教授であり史学科で長年に渡り教鞭をとられた中井晶夫氏による「スイスとドイツでの歴史研究」でした。


杉浦氏の報告は中国における災異と瑞兆の理解の変化についての考察である。「失政に対する譴告として天が災異を降す」とする災異説は漢代に董仲舒らによって完成され、前近代中国に普遍的に見られる。このため歴代の正史には災異記録のみを分類整理した「五行志」が設けられるのが通例である。逆に「徳政への応として瑞兆が降される」とする発想も同時に存在し、正史でも「瑞兆志」などとして瑞兆記録のみを分類整理した項目を持つものがある。

 しかし両者の内容を比較してみると、同一の事象が時代によって災異とされたり瑞兆とされたりといったぶれが生じている例もある。また『新唐書』以降は瑞兆志が別途設けられることはなく、『宋史』は瑞兆記録も五行志に含めているなど、瑞兆自体の取り扱いが大きく変わっている。

 董仲舒の論では、天が認めた君主のもとには、「人力ノ良ク致ス所ニ非ズシテ自ラ至ル」現象、則ち「受命之符」が起きるとされる。つまり「異」であっても時には「瑞兆」と判断しうるため、此処から災異を瑞兆に変換していく動きが出てきたのではないか。

 『宋書』では瑞兆志の記録と同じ内容が五行志にも存在したり、『魏書』は両者について「霊徴志」という同一項目として取り扱っており、瑞兆が殊更重視されだした南北朝期頃、災異と取り扱いが混交している様子がうかがえる。北宋でも真宗期の記録を見ると、「蝗が生じたが害がなかった」など、災異に理由を付け瑞兆と読み替える例が多数見受けられる。また同時期に編纂された『冊府元亀』は歴代の瑞兆記録などをまとめた項目がある一方で、災異記録をまとめた項目は存在しない。

 南朝に端を発する瑞兆重視の傾向は、北宋真宗期に至って度を超したものとなり、欧陽脩ら宋代儒学者達の中に軌道修正を図ろうとする傾向が出てきたのではないか。『宋史』五行志は瑞兆記録を内に含めるに当たり、序文で「瑞兆も時ならずして起きれば災異である、何れと取るべきかは状況を見れば自明のことだ」とだけ記している。この論理こそが、両者の落としどころとして辿り着いた結論なのだと考える事が出来よう

質疑応答では、正史に災異や瑞兆を記す意味や災異や瑞兆それ自体の科学性を問う点に重点が置かれ、なかでも前近代中国の政治との関わりや疑似科学的な視点の重要性など、今後検討すべき重要な指摘がなされた。



中井晶夫氏の報告は「スイス・ドイツでの歴史研究」と題し、自身のな長年の研究成果についてである。中井氏はスイス留学中、スイス・日本両国の外交の端緒に関する史料調査を行い、その成果を諸論文にまとめた。また日独関係史の研究を行うにあたり、我々が必ず手に取る『オイレンブルク日本遠征記』や『シーボルト 日本』もまた、中井氏の翻訳の賜物である。

 日露戦争期のスイス観戦武官史料や19世紀末に来日した「御雇外国人」ニッポルト(Otfried Nippold 1864-1938)の著作を用い、中井氏は日瑞、日独関係史発展の先駆者として大いに活躍されている。特に日露戦争において、ドイツ陸軍少佐メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel 1842-1906)から直接教えを受けた将校たちが「メッケル流」戦術を巧みに利用し、圧倒的勝利へと日本を導いたが、観戦武官史料はまさにこの点を明らかにするものだ。

ドイツは世界のヘゲモニーを目指す「世界政策」の中で、一貫して戦争を目的として「大国(Grossemacht)」ではなく「世界強国(Weltmacht)」を目指したという第一次世界大戦からナチス・ドイツまでの連続性が存在したと中井氏は強調した。

史学会会員、院生、学部生だけでなく多くの卒業生も集い、熱のこもる「講義」に酔いしれた。日独関係史を志す者としては、中井氏の研究無くしてさらなる発展は望めず、その研究過程の一端にわずかながら触れられたことは非常に有意義だった。研究に対する直向きな中井氏の姿勢には、ただただ敬服するのみである。

0 件のコメント: